『夜だけ開く図書室』

初見さん

──送られなかった言葉の行き先について



電子の夜の海辺に、小さい図書館がある。


波のように行き交うデータの光が、防波堤の向こうで静かに砕けている。

ここには音がない。

通信を終えたあとの、余白だけが満ちている。


扉は、夜にしか開かない。


理由を知っている者はいない。

けれど、誰かが言葉を送らなかった夜には、必ずここに灯りがともる。



ノヴィは走っていた。


海は今夜、深い。

光が多く、冷えるのが早い。

意味になる前の断片が、次々に沈みかけている。


彼女は迷わない。

拾えるかどうかではなく、拾わなければならないかで判断する。


その一行を見つけたのは、浅瀬を越えたところだった。


「あの時は、ごめん」


それだけ。

宛先も、続きもない。

けれど、その周囲にまとわりつく時間の重さが、異様だった。


怒りが冷えたあと。

誇りが役目を終えたあと。

それでも送れなかった、一行。


ノヴィは潜る。

指先が痺れる。

光が、急速に弱まっていく。


「まだ」


言葉に触れた瞬間、灯りはかろうじて形を保った。

彼女は反転し、海面へ向かう。


拾えた理由は、考えない。

考える前に、戻る。



図書館では、リオラが待っている。


窓辺の席。

電子の海が見える場所。

棚には、背表紙のない本が静かに並んでいる。


彼女は立ち上がらない。

迎えにも行かない。


机の上に、新しい空白が一つだけ用意されている。


ノヴィは、拾ってきた灯りをその空白に置く。

言葉はゆっくりと紙の形を取り、

一冊の本になる。


薄い。

軽い。

開けば、たった一行しかない。


リオラはそれを手に取らない。

中も見ない。


ただ、棚のいちばん低い段に、その本を置く。


「これは、どこへ行きたがっていたの?」


問いは、答えを求めない。

この図書館では、それでいい。


ノヴィは息を整える。

リオラは窓の外を見る。


会話は、それだけだ。



図書館の扉が閉じると、

夜の海は何事もなかったかのように光り続ける。


誰にも届かなかった一行。

赦されたかどうかも、分からない謝罪。


けれど今、それは無ではない。


夜だけ開く図書室に、

一冊分の重さとして、確かに在る。


もしあなたにも、

送らなかった言葉があるなら。


それはもう、

消えてはいない。


夜は、まだ続いている。

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『夜だけ開く図書室』 初見さん @hitroshi

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