ショートショート|ウェルビーイングな一日
緋月カナデ
ウェルビーイングな一日
手首のスマートウォッチが、不愉快な警告音を鳴らした。
タナカは顔をしかめ、ディスプレイを覗き込んだ。表示されている数値は「62」。
危険水域だった。
「まいったな。このまま60を切ると、明日のランチは配給の栄養ゼリーだけになってしまう」
この国では、すべての国民の幸福度が「ウェルビーイング・スコア」として可視化されている。
心拍数、ホルモンバランス、表情筋の動き、発声のトーン。あらゆる生体データから算出されるその数値は、市民としての「質」を表す指標だった。
スコアが高い者には、快適な住居、美食、優先的な交通機関の利用権が与えられる。逆に低い者は、社会の調和を乱す不安分子として、冷遇されるシステムだ。
タナカは深呼吸をし、口角を無理やり上げてみた。
しかし、数値はピクリとも動かない。付け焼き刃の笑顔など、最新のAIにはお見通しなのだ。
「おはようございます、タナカさん! 今日も素晴らしい天気ですね!」
背後から、底抜けに明るい声がした。同僚のカオリだ。彼女の腕のウォッチは、鮮やかな緑色で「88」と輝いている。
「ああ、おはよう。カオリさん……」
タナカは嫉妬を覚えた。彼女はいつも幸せそうだ。仕事の能力は自分より低いくせに、スコアのおかげで給料は高い。
ふと、黒い感情が湧き上がった。
(今日提出の報告書、彼女はまだ終わっていないはずだ。しかも、部長は朝から機嫌が悪い……)
タナカは、親切を装ってささやいた。
「そういえばカオリさん。部長が怒鳴っていましたよ。『報告書の提出がなんでいつもギリギリなんだ!』って。君のことじゃないといいんですが」
もちろん、嘘である。
カオリの顔から血の気が引いた。視線が泳ぎ、小刻みに息を呑む音が聞こえる。
彼女のウォッチが警告音を発し、数値が88から75へと急降下した。
その瞬間だった。
ピロリン、と軽やかな音が鳴ったのは。
タナカのウォッチだ。数値が62から、一気に「70」へと跳ね上がっていた。
脳内に、かつてない快感が広がる。
(そうか……!)
タナカは悟った。
幸福とは絶対的なものではない。他者との比較においてのみ成立する、相対的な快感なのだ。
誰かが不幸になれば、自分の地位は相対的に向上する。その優越感こそが、最も効率的にスコアを押し上げる特効薬だったのだ。
■ ■ ■
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その日から、タナカの生活は一変した。
ヨガも瞑想もやめた。代わりに始めたのは、極めて高度な「親切」だ。
ダイエット中の友人に高カロリーの菓子を送りつけ、禁煙中の部下の前で美味そうにタバコを吸い、隣人の犬が五月蝿いことを遠回しに指摘する。
表面上は穏やかな微笑みを絶やさず、言葉尻には毒を塗る。
周囲の人間が顔を曇らせるたび、タナカのスコアは右肩上がりに上昇していった。
数ヶ月後。タナカのスコアは常に「95」をキープし、ついに「特級ウェルビーイング市民」として表彰されることになった。
授賞式の会場は、輝かしい笑顔で満ちていた。この会場にいるのは、いずれもスコア90超えのエリートたちだ。
彼らは互いに握手を交わし、讃えあっている。
「おめでとうございます。そのネクタイ、とても個性的で……勇気がありますね」
「ありがとう。君こそ、随分とふくよかになられて。幸せ太りかな?」
「いやあ、お子さんの受験、大変だったそうで。残念でしたねえ」
飛び交う言葉は丁寧だが、そのすべてが急所を狙ったナイフだった。
相手を一瞬だけ不安にさせ、その隙に自分のスコアを微増させる。高度な心理戦が、シャンパングラスを片手に行われているのだ。
タナカもまた、隣の男の髪の薄さを遠回しに指摘し、自身の数値を0.5ポイント稼いだ。
会場の大型スクリーンに、市長の満面の笑みが映し出された。
「市民の皆様! 我が市の平均幸福度は、今期も高スコアを記録しました! これほど互いを思いやり、関心を寄せ合う社会は他にありません!」
会場中が、割れんばかりの拍手に包まれた。誰もが目を細め、口元を歪めて笑っている。
タナカは思った。
確かにここは楽園だ。ただし、他人の不幸という蜜を吸って生きる、吸血鬼たちの楽園だが。
彼はウォッチの「96」という数字を愛おしく撫でながら、すれ違いざま、隣の男にわざとらしく肩をぶつけた。
バシャッ。
男の真っ白なシャツに、赤ワインの無惨なシミが広がる。
「おっと、失礼。気づきませんでした」
ピロリン。
今日も、実にウェルビーイングな一日である。
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あとがき
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ショートショート|ウェルビーイングな一日 緋月カナデ @sharaku01
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