第45話 王家の野望と黒い火薬
王都への遠征から数日が過ぎた頃、マリウスとコレットがバルガン領へ帰還した。 塔の最上階で彼らを迎えたエリストールは、コレットのやつれように目を丸くした。
「……お疲れ様、コレット。生きた心地がしなかったでしょう?」
「ええ、もう二度と御免よ」
コレットはドレスを脱ぎ捨て、いつもの作業着に着替えながらソファに沈み込んだ。
「貴族たちの視線が針みたいに突き刺さるし、食事は味がしないし。この塔に閉じ込められている方がマシよ」
「……あなたが無事で何よりです」
エリストールは苦笑し、部屋の隅で荷解きをしている執事に視線を移した。 マリウスは表情一つ変えずに、豪奢な装飾が施された巻物をテーブルに置いた。
「大成功であり、同時に大失敗でした」
「……どういうことです?」
「『賢者の紫』と『硝子の靴』のインパクトが強すぎたのです。バルガン領の技術力は王都の貴族たちを畏怖させましたが、同時に国王陛下の独占欲に火をつけてしまいました」
マリウスは巻物を広げた。 そこには、王家の印と共に、エリストールへの辞令が記されていた。 『宮廷筆頭賢者』への任命。 聞こえはいいが、要するに『王都の城に住み込み、その知恵を王家のためだけに使え』という命令だ。 事実上の軟禁、人質である。
「……断れば?」
「王命への反逆とみなされ、正規軍が派遣されるでしょう。西の国の騎士団とは規模も練度も違います。今のバルガン領の戦力では、三日で焦土と化します」
マリウスは眼鏡を押し上げた。 彼の目には、危機感と共に、冷徹な計算の光が宿っていた。
「賢者様。彼らを黙らせるための『交渉材料』が必要です。……王家の軍隊すらも恐怖させ、手出しをためらわせるほどの、圧倒的な破壊力が」
「……脅しに使えと?」
「ええ。使わなくてもいい。ただ持っていると思わせるだけでいいのです」
エリストールは窓の外を見つめた。 平和な農村の風景。 そこへ王家の軍靴が踏み込めば、ガエルやトトたちの笑顔も消えてしまう。 それを守るためなら、悪魔の知恵でも使う覚悟はできていた。
「……あります。とっておきの術が」
エリストールはペンを取り、三つの素材の名前を書き連ねた。 木炭。 硫黄。 そして、硝石。
「黒い火薬……雷の砂を作ります」
「ほう。東方の花火に使われる粉ですか。あれは音と光だけで、人を殺す力はないと聞いていますが」
「それは配合と製法が未熟だからです。……私が調合すれば、それは城壁さえも吹き飛ばす『雷』に変わります」
エリストールが提案したのは、歴史を変えた黒色火薬の改良版だ。 単に粉を混ぜるだけでなく、水で練って粒状に固める『造粒』という工程を加えることで、燃焼を爆発的に高めることができる。
「材料は揃いますか?」
「木炭と硫黄は容易です。硝石は……古漬けの樽や、厩舎の土から抽出できますね。ガエルたちに集めさせましょう」
「では、急ぎなさい。……私はここから動けませんが、調合の手順は詳細に書き記します。実験はあなたたちに任せます」
*
数日後。 街外れの岩場にある採石場跡地。 そこには、マリウス、カミラ、そしてガエルの姿があった。 エリストールはいない。 彼女は塔の窓から、遠く離れたこの岩場の方角を見つめているはずだ。
「……おいおい、本当かよ? こんな黒い砂が、そんなに凄いのか?」
ガエルが、壺に入った黒い粒を不思議そうに覗き込んだ。 見た目はただの砂利だ。
「触らないでください。エリストール様からの指示書には『強い衝撃や火気厳禁』と赤字で記されています」
マリウスが冷たく注意し、慎重に壺を岩の亀裂にセットした。 カミラは腕を組み、疑わしげに岩山を見上げている。
「あたしは大剣派だからね。小細工で岩が砕けるとは信じられないが……まあ、あのお嬢の言うことだ。離れておくに越したことはない」
マリウスは導火線――綿糸に火薬をまぶしたもの――を壺に繋ぎ、指示書通りに五十歩以上の距離を取った。
「……点火します」
マリウスが投げた松明が、導火線の端に落ちる。 シュルシュルと音を立てて火花が走り、岩の隙間へと吸い込まれていった。 一秒、二秒、三秒。 静寂が場を支配する。
「……不発か?」
カミラが口を開きかけた、その瞬間だった。
ズドンッ!!!!!!
鼓膜を破るような轟音と共に、世界が揺れた。 巨大な岩山が内側から弾け飛び、土煙が高く舞い上がる。 衝撃波が彼らの頬を打ち、ガエルが尻餅をついた。
「う、うわあああ!?」
土煙が晴れると、そこには岩山の姿はなく、ただ砕け散った瓦礫の山が残されているだけだった。 人の力も、鉄の武器も及ばない、圧倒的な破壊の跡。 塔の最上階にいるエリストールにさえ、その地響きは微かに届いたはずだ。
「……なんてこった」
カミラが呆然と呟いた。 戦場のプロである彼女だからこそ、その意味を誰よりも深く理解したのだ。 これがあれば、個人の武勇など無意味になる。 剣の時代が終わる音がした。
「……素晴らしい」
マリウスだけが、崩れ落ちた岩を見て静かに微笑んでいた。 その目は、この黒い砂がもたらす政治的な利益を計算していた。
「これを見せつければ、王家も迂闊には手を出せません。バルガン領には、雷を操る賢者がいると噂を流せば、軍隊の足も止まるでしょう」
*
夕暮れ時。 塔の最上階。 エリストールは、壁の小さな穴から戻ってきたスレートを掌に乗せた。 彼の白い毛並みは、微かに煤で黒ずんでいた。 その背中に括り付けられた小さな紙片には、マリウスの端正な筆跡で『実験成功。威力は想定以上』とだけ記されていた。
エリストールは、安堵と共に深い恐れを感じていた。 成功してしまった。 この手で、禁断の扉を開けてしまったのだ。
彼女は震える手でペンを取り、新しい羊皮紙に素早く文字を走らせた。 それはマリウスへの称賛ではなく、カミラへの個人的な依頼状だった。
『カミラへ。 この製法、どう管理しますか。 マリウスは合理的すぎる。彼に任せれば、必要以上に使いすぎるかもしれない。ガエルでは軽すぎる。 ……力の恐ろしさを知っているあなたに、頼みがあります』
エリストールは一度ペンを止め、息を整えてから続きを書いた。
『この火薬の管理と監視を、あなたに任せたいのです。 ……マリウスの暴走を止める、ブレーキになってほしい』
スレートが手紙をくわえ、再び壁の穴へと消えていく。 長い沈黙の時間が流れた。 塔の下、あるいは離れの小屋で、彼らが手紙を回し読みしている姿を想像する。
やがて、カサカサという音と共にスレートが戻ってきた。 運ばれてきた紙には、先ほどとは違う、勢いのある荒っぽい文字が踊っていた。
『へっ、面倒な役目を押し付けるねえ。 でもまあ、あんな危ないもん、この氷執事に好き勝手させとくのはあたしも反対だ』
その文面から、カミラがニヤリと不敵に笑う顔が浮かんだ。 紙の余白には、こう書き殴られていた。
『任せな。この雷は、あんたを守るためだけに使わせてやる。 ……世界征服なんかにゃ使わせないよ』
そして、そのさらに下に、マリウスの冷徹な文字で追伸が添えられていた。
『賢明な判断です。リスク管理として承認します』
こうして、バルガン領は『黒い火薬』という最強の抑止力を手に入れた。 王都への報告書には、こう記された。 『賢者は研究中の爆発事故により負傷。当面の間、王都への出仕は不可能』 そして、同封された『サンプル』としての黒い砂と、岩山が消滅した現場のスケッチは、国王を沈黙させるのに十分すぎる説得力を持っていた。
エリストールは、スレートの頭を指先で撫でながら、窓の外の闇を見つめた。 インクで汚れた小さな手。 だがその手は今、国の運命すら左右する力を握っている。
「……また、鍵が増えましたね」
彼女は小さく呟いた。 強大な力を持てば持つほど、それを管理するための檻は頑丈になっていく。 だが、スレートが満足げに喉を鳴らす音を聞き、手元に残るカミラの荒っぽい文字を見ていると、その重荷も少しだけ軽く感じられた。 一人ではない。 この危険な秘密を共有し、壁の向こうで背負ってくれる仲間がいるのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます