勇者の手

藍銅紅@『前向き令嬢』2巻2月電子配信

天まで届く大樹の根元に、一人の老婆が目を瞑って座っていた。

ヤーノシュが近寄ると、それまで木の一部になったかのように微動だにしなかった老婆がうっすらと目を開いた。


「……何をしに来た。何を望む」


しわがれた声が問う。


ヤーノシュは即答した。


「魔王を倒すための聖剣が欲しいのです」


老婆はヤーノシュをじろじろと見た。


ヤーノシュのアネモネの花のようなはっきりとした赤色の髪は、日に焼けてパサついて、埃や汗などで汚れている。羽織っているマントも服も皮のブーツもところどころ擦り切れていてみすぼらしい。


だが、瞳は晴れた日の青空のように澄み渡っていた。


老婆は言った。


「対価を貰うよ。おまえの大切なものを一つ、差し出してもらう」


ヤーノシュは頷いた。


「構わない。支払えるものはなんでも支払う。ただし、命は困る。聖剣をもらって死んだのでは意味がない」


ヤーノシュは魔王を倒すための聖剣が必要なのだと老婆に告げた。


「なるほど……、命は必要と」

「ああ」


老婆は少し考えた。


「右手を寄越せるかい?」


ヤーノシュは自分の右手をじっと見た。

これが左手なら、即座に差し出した。

だが、右手。


これまでこの右の手で剣を握り、そして、魔物や魔族を屠ってきた。

右の手がなければ剣は持てない。


ヤーノシュは迷った。


罠かもしれない。

大樹の下にいる老婆が聖剣を与えてくれるというのは嘘かもしれない。

実はこの目の前の老婆は魔族の者で、勇者であるヤーノシュ利き腕をなくすために、右手を……と言ったのかもしれない……。


迷った。……ほんの少しの間だけ。

ヤーノシュは首を横に振り、そして考えた。


もしもヤーノシュが老婆に騙されるというのなら、ヤーノシュが勇者ではなかっただけのこと。魔王を倒し、本物の聖剣を手にする者が別にいるということ。


考え続ける。


老婆は対価にヤーノシュの右手と言ったのだ。

右手以外の何かを差し出すと言えば、聖剣は手に入らないかもしれない。


逡巡の末、決めた。


老婆を信じ、聖剣を手に入れる。


「分かった。対価を支払おう」


老婆は差し出されたヤーノシュの右手を握った。まるで握手を交わすように。

ヤーノシュは老婆の骨ばった手が意外に温かい……と感じた。


「もらうよ」


老婆の言葉と共に、ヤーノシュの右手……、老婆が触れていた部分、つまり手首から先がフッと消えた。


痛みなどまるでなく。元々なかったかのように、右手がなくなった。


「ほら、持っていきな」


老婆が差し出した剣を、ヤーノシュは左の手で受け取った。


左手で持った剣は白銀に輝いていた。


「聖剣……」

「右手の代価としての聖剣は確かに渡したよ」


老婆の声と共に、強い風が吹いた。


「うわ……っ!」


ヤーノシュは聖剣を握り締めたまま、一瞬だけ目を瞑った。すぐさま目を開けてはみたが、もう既に天まで届く大樹も老婆も姿も見えなくなっていた。


「聖剣……」


左手を振り上げて、聖剣を振るってみた。


重くはない。だが、当然、右手で剣を持った時のように振るうことはできない。魔物どころか木の枝さえも切れないだろう。


それでもヤーノシュは剣を構えた。振り上げては振り下ろし、また振り上げては振り下ろす。


群や騎士団に入隊したての新兵が行うような、基礎的な素振りを繰り返す。


「利き手がなくなっても、この左手で、聖剣を持ち、魔王を倒す」


ヤーノシュは剣を振り続ける。


右手がないなら左手で、左手をなくしたなら、口で剣を加えてでも。

魔王を倒す。


たとえ何を失っても、手に掴める未来はきっとあるはずだから。





大樹の下で、老婆は笑う。


何を失ってもその手で未来を掴もうとする、その覚悟こそがヤーノシュを勇者にさせるのだ……と。




終わり


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