2千円の恩義



「うおぉぉぉぉぉぉ!!」


 エプロンを身に着け、雑巾を手に持った俺は一心不乱に店内の清掃に励む。

 少しの汚れだって見逃さない。床の黒ずみを全て消し去る勢いで、キュキュっと磨いていくのだ。

 まさに人間クリーナー。気づけばフロアは、見違えるほどピカピカになっていた。


「いやぁ~、助かったぜ兄ちゃん」


 掃除を終えた俺を見て、おっちゃんが満足げな表情で声を掛けてくる。


「まさか、こんなにも綺麗にしてくれるだなんてな。不足は280円だったが、それ以上の仕事をしたと思うぜ」


「いやぁ、掃除は得意分野だからな。これぐらいなら、お茶の子さいさいってなわけだ」


 おっちゃんの言葉にドヤ顔で答える。ナイスガイはなんでもできて当然だからな。

 こういう雑用だろうと、完璧にやり遂げてみせる。それが俺の流儀だ。


「よし。とりあえず、これで不足分はチャラだな。後は――」


 おっちゃんはそう言うと、レジを開けてそこから千円札を2枚取り出した。

 そしてそれを俺に向けて差し出してきたのだ。


「これは頑張ってくれたお礼だ。受け取ってくれ」


「えっ? いやいや、それは悪いって。俺は足りない分を返しただけで……」


 差し出されたお金を見て、俺は慌てて遠慮をする。

 そりゃ、確かに働いたのは事実だけど、その報酬を受け取るわけにはいかない。

 しかし、おっちゃんは俺の言葉を聞き流し、半ば強引にお金を握らせてきた。


「いいから受け取ってくれよ、兄ちゃん。ここまでやってもらって、無給なのは悪いしよ。それにお金が無くて困ってるだろ?」


 ニカッと笑ってそう言うおっちゃん。

 その表情は裏表のない純粋な笑顔に見えた。


「……分かった。そういうことなら、ありがたく頂くぜ」


 ここまで言われて断るのも失礼だと判断し、俺は素直にお金を受け取り、ポケットの中に突っ込んだ。

 なんだか申し訳ないなと思いつつも、ここは厚意に甘えることにしよう。


 そして俺はエプロンを外し、着慣れたコートと帽子を被る。


「それじゃ、世話になったな、おっちゃん。ラーメン美味かったぜ」


「おう、ありがとな兄ちゃん。また近くに来たら、その時は寄ってくれよな」


「ああ。是非そうさせてもらうよ」


 挨拶を済ませると、俺はリュックを背負い、そのまま店を出ようとする。

 ――ただ、俺は途中で足を止めた。そして振り返っておっちゃんを見る。

 そういえば気になることが残っているんだった。


「なあ、おっちゃん。1つ聞きたいことがあるんだけど……」


「ん? なんだい?」


「どうしてこの店は……客が来ないんだ? 昼時なのに、こんなにもガラガラなのはおかしいだろ?」


 人気ひとけの無い店内を見渡しながら、俺はそう尋ねた。

 俺の問い掛けに、おっちゃんは一瞬だけ言葉に詰まらせる。

 その一瞬が、やけに長く感じられたのは気のせいじゃない。

 やがておっちゃんは小さくため息を吐くと、苦笑しながら口を開いた。


「……やっぱり、気になるよな」


「まあな。あれだけ美味いラーメンを出す店なのに、閑古鳥が鳴いているのはどう考えてもおかしい。そこには何か理由があるはずだ」


 立地が悪いわけでも、味が悪いわけでもない。

 それなのに、この有様だ。理由がないはずがなかった。


「……実は――」


 おっちゃんが言葉を選ぶように、視線を落とした……その時だった。

 ガチャッと入り口の扉が開く音が響く。

 振り返ると、そこには男が二人立っていた。


 揃いの黒いスーツ。無駄に艶のある革靴。色の濃いサングラス。

 明らかに普通の客じゃないのは、見て分かる。何か裏のある人間だ。


「……いらっしゃい」


 おっちゃんが声を掛ける。だが、その声はどこか硬い。

 店の空気が、ぴしりと張り詰める。

 すると、2人のうち、背の低い方が口を開いた。


「こんにちは、店長。今日もちょっとご相談に来ましてねぇ」


 男がゆっくりとサングラスを外しつつ、そう告げた。

 目が細い。蛇みたいな目だ。いやらしい香りがプンプンとする。


「……何度も言ってるだろ。うちは売らねぇ」


 おっちゃんの声は低いが、震えている。

 それを聞いたもう一人――背の高い男が、ゆっくりと一歩前に出た。

 片方が蛇なら、こっちはゴリラか? 体格もいい。腕っぷしは強そうだ。


「なあ、爺さんよぉ。そう言わずに、話ぐらい聞いてくれや。俺たちも遊びじゃねぇんだよ」


 男は低く威圧的な声で、そう言った。

 しかし、おっちゃんは頑として首を横に振る。


「だから、何度も言わせんな。あんたらの話はもう聞き飽きたんだ」


「うーん、そうですか。それは困りましたね」


 蛇は、わざとらしく肩をすくめてみせた。

 困っている風を装ってはいるが、目はまったく笑っていない。


「……ですが、困るのはそちらも同じでしょう?」


「そ、それは……」


「最近、目に見えて客の出入りが減りましたよね? この調子だと、そう遠くない内に潰れるかもしれませんよ」


 その言葉に、おっちゃんは何も言い返せなかった。


「であれば、そうなる前に我々の提案に乗っておくべきではないですか? それに……最近はこの辺り、夜は物騒ですからね」


 蛇はにこやかに笑った。吐き気がするほど、邪悪な笑顔だ。

 俺は帽子のつばを、ほんの少しだけ下げる。

 ……なるほどな。昼時なのに客が来ない理由。どうやらこいつらのせいってわけか。


「……帰ってくれ」


 おっちゃんは、震える声を必死に抑えながら言った。


「もう話すことはねぇ。二度と来るな」


「それは無理ですねぇ」


 蛇は首を横に振った。


「また来ますよ。何度でも。私たちがここを手に入れるまで」


 そう言って、蛇はくるりと背を向けて店を出ようとする。ゴリラもそれに続いた。

 その去り際、俺と蛇の視線が一瞬だけかち合う。


「…………」


 俺は無言で彼らを見送った後、おっちゃんに向き直った。


「大丈夫か? おっちゃん」


「……あ、ああ。大丈夫だ」


 表情は暗い。顔色もあまり良くないように見える。

 どう見ても大丈夫には見えないんだけどな。


「……すまねぇ、兄ちゃん。嫌なもん見せちまったな」


「いや、別に気にすんな。それよりも、なんなんだ、あいつら。売るとかどうのこうの話してたが……」


「……あいつらは、地上げ屋みてぇな連中だ」


「地上げ屋?」


「ああ。この辺の土地を買い上げて、再開発して儲けようって話だよ。他のところもそうだが、うちにもしつこく店を売れって言ってくるんだ」


 なるほどな。要するに、土地買収ってことか。

 そういう話を聞くと、さっきの連中はヤクザとかそっち側の人間に思える。


「おっちゃんは、ここを守りたいんだな」


「……当たり前だ。ここは俺にとって、大切な場所だ。そう簡単に売れるかよ」


 吐き捨てるように言うおっちゃん。

 けど、顔に手を当てると、すぐに項垂れてしまった。


「……けど、断ればさっきみたいに脅してくる。お客さんも、いつの間にか来なくなった……」


「警察には?」


「行ったさ。でもな……証拠がねぇって言われて終わりだ」


 力なく笑う。その笑顔がやけに胸に刺さった。


「……そうか」


 俺はそれだけ言うと、視線を店内に巡らせた。

 磨き上げたばかりの床。年季の入ったカウンター。壁に貼られた色褪せたメニュー表。

 どれも古いが、手入れが行き届いている。大事にされてきた店だ。

 ……だが、それがあいつらによって、無惨にも踏み荒らされようとしている。なんとも可哀想な話だ。


 けれども、それは……俺には関係の無い話だ。俺はただ、ラーメン食っただけの、通りすがっただけの存在だからな。

 これはおっちゃんとあいつらの問題。俺が首を突っ込むべきじゃない。それにこんなこと、


「それじゃあ、おっちゃん。俺もそろそろ行くわ。ホント、世話になったな」


 帽子を深く被り直し、おっちゃんに背を向けながら俺は歩き出す。


「……なあ、兄ちゃん」


 扉に手を掛けたところで、おっちゃんが呼び止める。


「……いや、何でもねえ。元気でな」


「……ああ。おっちゃんも元気でな」


 振り向かず、軽く手を振って店を出る。

 外に出た瞬間、強い風が俺の頬を叩いた。

 この町に来た時と違い、どこか寂しく冷たい風だった。


「……風が泣いてやがる」


 そんなことを呟きながら、俺は歩き始める。


「夜は物騒、か」


 蛇の言葉が、頭の中で反芻される。

 とてもくだらない、使い古された常套句。

 三下が言うには、お似合いの台詞だ。


「ハッ、確かにそうだな。その通りだ」


 俺は鼻で笑うと、ポケットに手を突っ込む。

 そこにはさっきおっちゃんから渡された千円札が2枚入っている。


「だが、それはな……お前らにだって、言えることなんだぜ?」


 俺は流翔馬。クールで粋なナイスガイ。そしてハードボイルドの鑑。

 受けた恩ってのは、倍返しが基本。それに報いるってのが、漢ってもんだろ。

 さぁ……ここからは、仕事の時間だ。


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