(中国×百合)曇りの上海で、晴れた君

南條 綾

(中国×百合) 曇りの上海で、晴れた君

 湿った空気が肌にまとわりつく。上海の夏はいつもこんな感じだ。

 エアコンの効いたオフィスを出た瞬間、蒸し風呂に放り込まれたような息苦しさが全身を包む。

 スマホの画面を見ると、もう23時を回っている。残業が長引いたせいで、地下鉄の駅に着くころには、最終が終わっている可能性が高い。

 タクシーを拾うのも面倒で、私はいつものように自転車をシェアサイクルから借りて、淮海路沿いを西へ漕ぎ始めた。


 夜の上海はネオンが派手で、でもその光は湿気で滲んで、なんだか夢の中にいるみたいだ。

 アパートのエレベーターがまた故障中だった。

 5階まで階段を上る。鍵を開けると、玄関に脱ぎ捨てられたスニーカーと、甘いミルクティーの匂いが混じっていた。


「遅かったね。綾」


 リビングのソファから声がした。彼女、林雨晴リン・ユーチンはいつものように、膝にノートパソコンを乗せて座っている。画面の青白い光が、彼女の白い頬を冷たく照らしていた。


「今日も残業長かった? また徹夜コースみたいだね」


 彼女がパソコンから目を上げて、私に微笑んだ。

 私は靴を脱ぎながら苦笑して、「まあね……」と答えた。

 

 最初は、とりあえずルームシェアで家賃を抑えよう。

 そんな名目で始まったこの部屋での生活も、もう八ヶ月になる。

 初めは、「小晴シャオチン」って呼んでたけど、いつの間にか「チン」と呼ぶようになったのは、いつからだっただろうか?


 私は冷蔵庫を開けて、冷えたボトルウォーターを一気に半分飲んだ。

 喉が渇きすぎて、冷たさが痛いくらいだった。


「今日も上司に怒鳴られた?」


 晴がようやく顔を上げた。長い前髪が目にかかっていて、それを指で払う仕草が、なんだか無防備で、胸がきゅっとなる。


「怒鳴られたっていうか……『もっと効率的にやれ』って、いつものやつ」


 私はソファの端に腰を下ろした。彼女の隣。距離は、肩が触れそうで触れないくらい。


「ふーん。相変わらずパワハラ上司だね」


 晴はパソコンを閉じて、膝の上に置いたまま、私の方に体を少し傾けた。


「綾は我慢強いよね。私だったらとっくにキレてる」


「キレても何も変わらないよ。中国の職場ってそういうもんだし」


 私は苦笑した。実際、去年の冬に一度だけ「もう無理です」って泣きながら帰ってきた日があった。その夜、晴は黙って私の背中を抱きしめて、ずっと耳元で「大丈夫だよ」って繰り返してくれた。

 あの時の温かさが、今でも体に残っている。

 晴は私の手を取った。細い指が、私の指の間に入り込んでくる。

 冷たい。エアコンが効きすぎているんだろう。


「手、冷たいね」


「綾の手が熱いから」


 彼女はそう言って、私の手を自分の頬に当てた。ひんやりした肌。少しだけ頬が上気しているのがわかった。


「……今日、なんか変だよ」


 私が言うと、晴は目を逸らした。


「別に」


「嘘。目が泳いでる」


「……会社の後輩が、今日、私のこと『お姉さんみたいで素敵』って言ってきた」


 一瞬、胸の奥がちくりとした。


「へえ。で?」


「で、って……別に何も。嬉しかっただけ」


 晴の声が少し震えていた。私は彼女の手を握り返した。強く。


「私より嬉しい?」


「……バカ」


 晴が顔を赤くして、私の肩に額を押し付けてきた。

 髪からシャンプーの匂いがする。いつものフローラルな香り。


「綾のバカ」


「私の方がずっとお姉さんだよ。年上だし」


「年齢じゃないよ。……雰囲気っていうか」


 彼女の声がだんだん小さくなる。

 私は晴のあごを指で持ち上げた。彼女の瞳が、潤んで見えた。


「晴は私のものだって、ちゃんとわかってるよね?」


「……わかってる」


「じゃあ、ちゃんとこっち見て」


 晴は恥ずかしそうに、でも素直に、私を見上げた。長いまつ毛が震えている。

 私はゆっくりと顔を近づけた。息が触れ合う距離で止まる。


「好きだよ、晴」


「……私も」


 彼女の唇が、そっと触れた。柔らかくて、ちょっと震えていて、甘かった。

 キスは最初、優しく、探るように。すぐに深くなって、晴の手が私の背中に回ってきた。

 爪が少し食い込むくらい、強く抱きしめられる。


「ん……」


 小さな声が漏れた。どちらの声かわからない。

 私は晴をソファに押し倒した。彼女の髪が広がって、黒い絹みたいにソファに流れる。


「綾……待って、電気……」


「暗い方がいいでしょ?」


 私は笑って、彼女の耳元で囁いた。


「恥ずかしい顔、見せたくないんでしょ」


「……意地悪」


 晴が唇を尖らせた。でも、そのまま私の首に腕を回して、引き寄せてくる。

 服が一枚ずつ剥がれていく音。肌が触れ合うたびに、熱が上がっていく。

 晴の胸は柔らかくて、私の手のひらにぴったり収まる。彼女の吐息が、私の鎖骨にかかるたび、ぞくぞくする。


「綾の手……熱い」


「晴の肌が冷たいから」


 私は彼女の首筋に唇を這わせた。鎖骨、胸の谷間、ゆっくりと下へ。

 晴の体がびくんと跳ねるたび、私の中の何かが疼く。


「だめ……そこ、弱い……」


「知ってるよ」


 私は意地悪く微笑んで、そこを舌でなぞった。

 晴の声が、だんだん高くなる。指が私の髪を掴んで、引き寄せる。


「綾……もう……」


「まだだよ」


 私は彼女の腰を抱き寄せて、もっと深く。

 夜は長い。上海の夜は、湿気とネオンと、二人だけの熱で、ずっと続いていく。

 翌朝、私は目を閉じて、彼女の温もりに身を委ねた。晴はまだ眠っている。

 私の腕の中で、小さく息をしている。長いまつ毛が、頬に影を落とす。 私はそっと髪を撫でた。


 それから数ヶ月が過ぎた。


 季節は秋に移り、湿気は少しずつ引いて、風が乾いてきた。

 会社では相変わらずのパワハラ上司がいるけど、私はもう慣れた。

 慣れたというより、帰る場所があるから耐えられるようになった。


 晴は最近、フリーランスの仕事が増えてきた。

 家でずっとパソコンに向かっている日が多い。

 私が帰ると、いつも玄関で「遅かったね」って迎えてくれる。

 その声が聞こえるだけで、疲れが半分溶ける。


 ある晩、珍しく私が先に帰宅した。

 冷蔵庫にビールと、晴の好きなマンゴープリンがある。

 ソファに座って待っていると、鍵の音がした。


「おかえり」


 私が言うと、晴は少し驚いた顔をしてから、笑った。


「今日は早いね。珍しい」


「上司が急に『今日は早く帰れ』って。意味わかんないけど」


「ラッキーじゃん」


 晴はコートを脱ぎながら、私の隣に腰を下ろした。

 自然と肩が触れ合う。

 この距離が、今では当たり前すぎて、逆に愛おしい。


「ねえ、晴」


「ん?」


「来年、契約更新のタイミングなんだけど……もう一年、ここにいる?」


 晴の手が止まった。

 ビールのプルタブを開ける音だけが、静かな部屋に響く。


「……綾は?」


「私は、ずっとここにいたい。晴と」


 私は彼女の目を見た。

 少し潤んでいる。

 晴はビールを一口飲んで、ゆっくり息を吐いた。


「私も……ずっと、綾と一緒にいたい」


 その言葉で、何かが決まった気がした。


「じゃあ、来年も更新しよう。二人で」


「うん」


 晴が私の肩に頭を預けてきた。

 髪が頬をくすぐる。


「でもさ、いつか……もっと広い部屋に引っ越したいね」


「広い部屋?」


「うん。ベランダがあるやつ。二人で植物育てたり、夜景見たり」


 私は笑った。


「いいね。外灘ワイタンが見える高層マンションとか?」


「贅沢すぎるよ……。でも、そんな部屋なら毎日デリバリーじゃなくて、二人で料理したくなっちゃうかもね」


 私たちはそのまま、ソファで寄り添った。

 テレビもつけず、ただ互いの体温を感じながら。

 その夜は、いつもより深く抱き合った。


 晴はまだ眠っている。私の腕の中で、小さく息をしている。長いまつ毛が、頬に影を落とす。

 私はそっと髪を撫でた。「これからも、よろしくね」小さな声で呟く。

  晴は眠ったまま、かすかに微笑んだ気がした。


 外では、上海の朝が始まっている。クラクション、人の声、工事の音。

 でもこの部屋の中は、まだ静かで、二人だけの時間。私は目を閉じて、彼女の温もりに身を委ねた。

 これが、私たちの日常で、私たちの未来。

 上海の空は今日も曇っているけど、心の中は、ずっと晴れている。


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