振り向き様のキスがしたい

@uzumeru

君の隣で胸を張りたいから。

 公園の橙色の灯りから逃れるように、木陰に身を潜め、彼女は呟いた。


「こうたくんの、およめさんになりたい」


 自分の身体を抱き締め、おまじないの言葉を呟いた次の瞬間、右手の薬指に嵌めた指輪から出た光が彼女ー嘉納花音(かのう かのん)を包み込んだ。


 世界が一瞬だけ揺れて、視界が広がる。


 髪が肩まで伸び、華奢だった体はすっと伸びて、たよりない輪郭はしっかりとして、女子高生くらいの姿に変わっていた。

 指先で顔に触れると、柔らかかった頰がシャープに変わっている。

 母親から勝手に借りた水色のワンピースはほとんどぴったりになっていて、胸元のフリルも、裾のひらひらも、今の花音を綺麗に引き立てていた。

 心臓がどくどくと鳴っていた。変身は二回目だけど、まだ慣れない。


「……よし、よし……!」


 花音は、ゆっくりと木の幹から身を乗り出した。


 少し離れたところで、3歳年上の幼馴染、鮎見小唄(あゆみ こうた)が一人で立っていた。

 クラスメイトたちと別れたばかりらしく、片手にリンゴ飴を持ち、もう片方の手でスマホをいじっている。

 いつもの少し尖った口元。

 でも、祭りの灯りに照らされた横顔は、どこか優しく見えた。花音は、胸の鼓動を抑えきれなかった。


「小唄くん……」


 ずっと見てきた、ずっと好きだった幼馴染み。

今なら、子供っぽい自分じゃなくて、大人として話しかけられる。


――そんな勇気が、魔法のお陰で湧いてきた。小唄がスマホをポケットにしまい、ゆっくりと歩き始めた。

 周りに人がいなくなった瞬間、花音は深呼吸して、木陰からそっと出た。

 子供の姿で着た時は足首にあった裾が、太ももを掠めて揺れる。



「――あの」


自然に、でも少しだけ甘い声で。小唄が足を止めて、振り返る。


「……ん?」


 一瞬、目を見開いた。

 知らない高校生の女の子が、提灯の光の下で微笑んでいる。

 長い髪が夜風に揺れ、浴衣の袖が軽く翻る。


「えっと……迷子じゃないんだけど、ちょっと道がわからなくて。

 親戚の家に遊びに来てたんだけど、ここらへんの名所って知ってる?」


花音は、咄嗟に嘘をついた。

心臓が喉まで上がってきそうだったけど、なんとか笑顔を保つ。


「…嘉納……美花(みか)っていうの。

 あの……あなた、小唄くん、だよね?」


小唄の眉が、ぴくりと動いた。


「……俺の名前、なんで知ってんの?」

「私、小唄くんの…幼馴染の、花音ちゃんの……親戚で…あの子に聞いてるんだ。

 小唄くんは『意地悪だけど、優しい幼馴染みのお兄ちゃん』だって。

 よく写真も見せてもらってるよ」


 花音は、わざと少し照れたように目を伏せた。

 本当は、自分自身が言ってる言葉なのに。小唄は少し警戒しながらも、口元を緩めた。


「……花音、あいつ、そんなこと言ってんのかよ」

「うん。だから、助けてくれるかなって……」


 美花の姿の花音は、ゆっくりと一歩近づいた。

 小唄は、なぜか後ずさりしなかった。ただ、じっと見つめ返してくる。


「へえ……美花さん、って言うんだ」

「うん。 よろしくね、小唄くん」


 花音は、精一杯大人っぽく微笑んだ。

 でも、心の中では叫んでいた。


ーー小唄くん……! 気づかないで! でも、気づいてほしくないわけじゃなくて……!


 小唄は、ふっと笑って肩をすくめた。


「まあ、いいけど。花音の親戚なら、変なヤツじゃないよな」

「ふふ、変なヤツって何よ~」

「名所…つってもな。神社とか、水族館とか…いくつかあるけど。どれにする?

 ていうか、いつまでここに居るんだ?」

「え、えっとね…」


 二人は並んで歩き始めた。

 祭りの音が、再び近づいてくる。花音は、そっと小唄の横顔を見上げた。


――この距離が、こんなに近く感じるなんて。


 おばあちゃんから借りた魔法の指輪が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。



 夏休みが始まってから、花音の毎日はまるで二重の人生のように駆け巡った。

 朝は嘉納花音として、いつものようにお気に入りのポシェットを斜めがけして近所の公園へ行き、ラジオ体操。


「おーい、花音! また遅刻かよ!」


 小唄が自転車で現れると、花音はムキになって叫び返す。


「ぎりぎり間に合ったもん!」


 ラジオ体操が終わった後、そのまま二人で駄菓子屋に寄ったり、川辺で石投げをしたりして過ごす。

 子供の頃からずっと変わらない。


 小唄は相変わらず意地悪くからかうけど、花音が転びそうになるとサッと手を差し伸べる。

 そんな時間が、花音にとっては宝物だった。でも、夕方になると花音は家に帰り、こっそり指輪をはめる。

 光が弾けると、嘉納美花が現れる。

 簡単なメイクをして、長い髪を耳にかけて、鏡の前で深呼吸。すっきりした頬をネイルシールを貼った両手で叩く。


「よっし、行こう!」


 美花として小唄に会うのは、最初は「偶然」を装っていた。

 でも二度、三度と会ううちに、自然と「約束」するようになっていた。


「小唄くん、明日って空いてる?近くの水族館、行ってみない?」


 小唄は最初こそ「なんでお前と?」と怪訝な顔をしたけど、「この近く、案内してほしいなぁ」と言うと、意外と素直に頷いてくれた。


 それが嬉しくて、花音は家に帰ってから一人で頰を赤らめた。

 『ただの花音』に戻りたい時は、鏡を見詰めて、自分を抱き締めて、『私は嘉納花音。あの姿は偽物』と呟く。

 それですぐに消えてしまう儚い魔法。けれど、花音にとっては何よりも、頼もしい武器だった。


 しかし、現実問題、花音にはお金がなかった。

 美花としてデートに行くたび、電車代や入場料がかかる。

 花音は、朝早く起きて近所の新聞配達を手伝ったり、おばあちゃんの家のお手伝いをしたり、夏休みの自由研究のついでに近所の植木屋さんで草むしりをしたりして、少しずつお金を貯めた。

 指先が土で汚れても、汗で背中がべっとりしても、「小唄くんと一緒にいられるなら」と思えば平気だった。


 小唄は優しくて面倒見がいいから友達と遊びの約束もあって、その中には女の子の友達も居て、その子達から小唄の時間を取り戻すには、非日常で惹きつけるしかないと思ったのだ。


 水族館では、美花がクラゲの水槽の前で「きれい……」と呟くと、小唄が「花音もこういうの好きそうだな」とポツリ。

 花音は心の中で「私の名前呼んでる…!」と叫びながら、ただ微笑んだ。

 遊園地では、美花がジェットコースターで怖がって小唄の袖を掴むと、「ビビりすぎだろ」と笑いながらも、小唄はしっかり手を握り返してくれた。

 その手の温かさに、花音の胸は痛いほど熱くなった。プールでは、美花のギリギリ手の届く範囲で買えた水着姿で少し恥ずかしがっていると、目の合った小唄が慌てて目を逸らした。

 花音は「えへへ」と笑ったけど、心の中では「ずっとこのままで居られたらいいのに」と、少しだけ切なくなった。


 そんな日々が続き、夏休みも終わりが近づいた。そして、最後の日――夏祭りの夜。花音は、指輪をはめて美花になった。

 浴衣を着て、髪を結い上げて、鏡の前で何度も深呼吸。

 今日は、ちゃんと「デート」として誘ったのだ。境内に向かう道で、小唄が待っていた。

 甚平姿の小唄は、いつもより少し大人びて見えた。

 花音の胸が、どくどくと鳴る。


「……美花さん、遅いよ!」


 小唄が、提灯の光の下で笑った。


「ごめんね。付き合ってくれてありがとう」


 花音は、そっと小唄の隣に並んだ。祭りの音が、二人の周りを優しく包む。

 金魚すくい、射的、りんご飴。

 小唄が買ってくれた綿菓子を分け合いながら、花音は思う。


 ああ、本当に、夢みたいだ。


 夏祭りの夜は、まだ始まったばかりだった。




 花音は、数日前の事を思い返す。


 小唄が同い年の女の子に言い寄られているのを見たこと。

 その後、花音が割って入ったら、子供扱いされてしまったこと。

 酷くいらいらした。


ー幼い頃からずっと花音は小唄の背中を追いかけていた。

 小唄は花音にとって、近所のお兄ちゃんであり、守ってくれる存在であり、でも決して「恋人」にはなれない人だった。

 花音がどんなにそばにいても、小唄の視線は優しいままで、いつも「かわいい妹」としてしか映らない。


 だから、花音は決めたのだ。

 おばあちゃんちの書斎の奥、埃まみれの棚の奥にあった一冊の古びた本に記された、おまじないを試すことにした。


「年上の女性に変身できる呪文」


 怪しげな文言に半信半疑だったけれど、花音はもう後戻りできなかった。

 深夜、部屋の明かりを消して、鏡の前に座り、本のポケットに入れられていた指輪を右手の薬指に嵌め、胸元とお腹に腕を回して自分自身の身体を抱き締めて、本が言う通りに唱えた。


「……こうたくんのおよめさんになりたい」


 一瞬、視界が揺れた。熱いものが体を駆け巡り、髪が長く伸び、背が高くなり、身体に厚みが出て、着ていた服がきつくなった。


 窓硝子に反射した自分は、確かに花音だった。でも、どこか違う。

 もう、妹ではない……将来、花音がなれるかもしれない、女性の姿だった。


 翌日、勇気を振り絞って花音は小唄に会いに行った。それから、二人の距離は急速に縮まった。夏休みの日々は、まるで夢のようだった。

 花音は「知り合いのお姉さん」の姿で小唄と手を繋ぎ、夜を歩き、甘いものを分け合い、肩を寄せ合った。


 小唄の視線は、戸惑いながらも日に日に熱を混じえていった。

 花音はそれが嬉しくて、ほんの少しだけ怖くて、でも止められなかった。


 そして、夏祭りの夜。提灯の明かりが揺れる中、花音は小唄の手を引き、神社の裏手、人気のない物置に連れ込んだ。

 締まり切らなかった隙間から、近くの常夜灯の灯りが差し込む。


「小唄くん……」


 花音の声は、少し震えていた。


「美花さん……」


 小唄の声も震えていた。

 ああ、花音って呼ばれたかったなぁ、と思いながらも、花音は唇を重ねた。

 何もかも知っているかのような、人生の先輩のような余裕の表情に、少しの花音としての痛みを隠して。


 神社の鈴が遠くで鳴り、夏の夜風が木々の葉を揺らす音がした。

 遠くの喧騒をよそに二人はひっそりと愛し合った。


 心のどこかでわかっていた。


 この姿が解けたら、すべてが終わってしまう。

 それでも今は、この温もりが全てだった。



 虫の声の合間に、甘い二人の声が響く。


「美花さん……美花さんっ……!」


 掠れた声がとても愛おしくて、花音は絡めた指を強く握る。


「可愛い……」


 花音は思わず呟いた。小唄は赤く染めた頬で、目を潤ませて見上げてくる。

 いつも自分を「妹」として見下ろしていた彼とは別人のようだった。


 つきん、と痛む胸を無視して花音はまた小唄に溺れた。

 本当は、花音って呼んでほしかった。


 もし、もし小唄が、こんなことになる前に本当の自分を見てくれていたなら。

 もし、大人になるまで、ただ隣にいるだけで満足できていたなら。

 もし、他の女の子が近づいてきていなかったら


――きっと、いつか、花音の名前を、こんな風に愛おし気に呼んでくれたかもしれない。


 そんな「もしも」が、今は遠い幻のように感じる。

 花音の目から、ぽろりと涙が落ちた。

 頰を伝い、小唄の胸に落ちる。


「美花さん、どうしたの!?」


 小唄が心配そうに手を伸ばし、花音の頰を拭う。

 その優しさが余計に胸を締めつける。

 花音は首を振って笑顔を作った。涙で濡れた声を絞り出す。


「ううん……大好き過ぎて……つい……」


 嘘だった。でも、小唄は信じてくれた。手を握り返して、吐息交じりに囁く。


「俺も……美花さんのこと、大好き……」


 その言葉が、花音の心をさらに深く抉る。

 好き、は「美花」への言葉だ。本当の自分には決して届かない。


 下手くそな笑顔を浮かべていられなくて、もう一度小唄に口付けをした。


 夏の夜風が木々を揺らし、神社の鈴が遠くで鳴る。


 遠くの花火大会の音はとっくに止んでいた。魔法の時間も永遠じゃなかった。

 けれど花音は時間を忘れて、小唄との逢瀬に夢中になってしまった。



 その時は唐突に来た。

 木々がざわめく中、花音は思ってしまった。


「小唄くんに、元の姿で愛されたい」


 心の奥底の祈りは瞬時に熱く身体を駆け巡り、まるで時計が逆回転するように、花音は借り物を失っていった。


「……あっ……」


 声が高くなり、髪が短くなり、視線が低くなる。小唄と恋人繋ぎに絡めていた手がみるみる小さくなる。先程まで柔らかく感じていた小唄の手が、硬く大きくなっていくように感じる。


 華奢になった身体で、花音は息を詰めたような吐息を漏らした。

 

 小唄は目を見開いた。

 動きが止まり信じられないという表情で、花音の顔を見つめる。


「……花音……!?」


 声が震えていた。

 花音はえぐえぐと頰を濡らし、唇を噛む。


「ごめん……ね……小唄くん……」


 元の声に戻った。幼い頃からずっと呼んでいた、慣れ親しんだ声。

 小唄の手が、震えながら花音の頰に触れる。確かめるようにゆっくりと。


「どういう……こと……だよ……お前が……美花さん…?」


 花音は小さく頷いた。

 体はもう完全に元の姿に戻っていた。


 小唄の瞳に、驚きと、戸惑いと、そして何か別のものが混じっていた。


 花音は目を閉じて、もう一度静かに言った。


「……ごめんなさい……」


 吹き込んできた夜風が、生温い熱帯夜を縫うように、二人の間を通り抜ける。


 後戻りはできない。


 それだけははっきりしていた。



 花音は小さく震え、涙をこぼしながら手を振りほどこうとした。


「ごめん……ごめんね……っ」


 嫌われると思った。こんな風に騙して、純情を汚してしまったと思った。

 小唄は花音の顔を睨むように見つめ、逃がさないとでも言うかのように、両手を強く握りしめた。


「嘘吐き……っ騙してたのかよ……!?」


 怒りと情がまじりあった瞳。

 砕け散った信頼の欠片がその中に散らばっている。


「ごめん…分かってる、私じゃ駄目だって……っだから、だから……っ」


 ぽたぽたと熱い涙が小唄の胸元へと落ちていく。 


「そんなことは聞いてねぇよ…っ!」


 小唄の心は混乱していた。花音を恋愛対象として見られない。ずっと、妹のように可愛がってきた。守るべき存在でしかなかった。

 それなのに、美花の姿に惹かれ、こうして恋人にまでなってしまった。

 美花は完璧な年上の女性だったのに、今は目の前にいるのは、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした、それでも可愛い幼馴染。

 騙された怒り。純情を弄ばれた屈辱。


 それでも、突き放したいとはどうしても思えなかった。


「くそ……っ……花音……」


 花音はしゃくりあげながら、ずびずびと鼻を啜り上げる。


「……ひっ、嫌いに…ひっ、…ならないで……ひぅっ、お願い……」


 嫌いになれるわけがなかった。


「あぁあ…くっそ……わけわかんねぇ……」


 泣き止ませたい。守ってやりたい。でも、苛立っている気持ちの行き場だってない。

 小唄は、恋人繋ぎにしていた手を引き寄せて、小さくキスをした。

 花音はしゃっくりを止め、丸く目を見開いた。


「……ほんっとにお前は……ずるいよな……!」



 戸の隙間から見えていた月は、いつにか随分と高くなっていた。

 小唄は息を荒げ、青ざめた顔で呟いた。


「……困った……」


 身体を離すことができない。恋人繋ぎの両手も白く強く固まってしまっている。


「花音……おい、花音!」


 小唄は慌てて花音を揺さぶった。


「なんとか……もとに戻れないか!? おまじない、解く方法とか……ないのかよ!」


 花音はもう小唄に体重を預けて、小さく、小唄の名前と慕情を囁き続けるだけだ。


「くそ……っ」


 小唄は頭を抱えた。怒りはもうどこかへ飛んでいた。

 ただ混乱と、残った熱と、離れられない現実がそこにはあった。


 生温い夏の空気が、これは夢じゃないことを突きつけていた。



 小唄はため息をつきながら、花音のぶかぶかの浴衣を歯でそっと引っ張り、なんとか体裁をつけてやった。

 花音から小さな熱い吐息が漏れる。


「ったく……」


 自分の服も適当に整え、小唄は花音を抱き上げた。恋人繋ぎのまま、なんとか花音の身体を支えてやる。

 小唄の動きに反応して、花音の甘い声が耳元で響く。


「……煽るなよぉ……」


 小唄は低い声で呟きながら、夜道を歩き始めた。

 祭りの提灯はすでに片付けられ、通りは静かだ。

 周囲から見れば、ただ小さな兄妹がだっこの姿勢で仲良く祭りから帰っているようにしか見えないだろう。


 途中、花音の親に遭遇した。


「小唄くん、大丈夫だった?心配したんだよ」


 花音の母が笑顔で声をかけてくる。小唄は内心で冷や汗を流しながら、頭を下げた。


「すみません、こいつ……疲れて寝ちゃったみたいです。うちに泊まらせていいですか?」


 花音の母は疑うこともなく、優しく頷いた。


「もちろんよ。花音は本当に小唄くんのことが好きだね」


 花音の父が苦笑しながら、冗談めかして続ける。


「妬けちゃうよ」


 小唄は「はは……」と笑って誤魔化し、なんとか玄関ドアに体重をもたれかけさせて、繋がったままの手で鍵を取り出して開けた。

 そのまま、足音を忍ばせて風呂場へ向かう。


「ったく……俺の気も知らないで……」


 拗ねたように呟きながら、追い炊きのボタンを押した。お湯が沸く音が、静かな家に響く。

 花音は幸せそうな顔をしている。


「ん……小唄くん……」


 小唄は花音の額にそっと唇を寄せ、ため息をついた。


「しょうがねえ奴だな……」


 お湯が温まったら、なんとかこの強張りをほぐせるかもしれない。そう思っての動きだったが、まだその時は遠そうだった。

  


 追い炊きの音が止まった。

 小唄は花音を抱えたまま湯船にゆっくりと入った。熱いお湯が二人を包み込む。

 浴衣が水を吸って重くなり、二人の輪郭をあらわにする。

 幸運なことに、手は温かさでほぐされ、するりと離れた。

 花音の柔らかな両手は、相手を失ってもまだ恋人繋ぎの形を固く保ったままだった。

 小唄はその手を労わるように、ゆっくりと揉みほぐし、指を一本ずつ開いてやった。

 花音は目を閉じたまま、お湯にうっとりとして頰を赤らめている。

 小唄は慌てて花音から目をそらし、自由になった両手で花音を引き離そうとした。

 しかし、離れられなかった。花音の愛が小唄を離さない。


「どうすんだよこれぇ……」


 小唄は深く溜息を吐き、花音の熱い額に額をぐりぐりと当てる。


「ん……」


 花音は寝言のように、甘く囁く。


「小唄くん、好きぃ……」


 むにゃむにゃと、幸せそうに口を動かす。小唄は花音の髪をそっと撫でながら、もう片方の手で自分の頭を搔きむしった。


「……ったく……お前、ほんとに……」


 湯気が立ち上る中、小唄はそのまま夜が深まるのをただ待つしかなかった。



「……」


 小唄は目を閉じ、花音と触れ合っている部分を意識しないように、必死で意識を過去へ飛ばした。

 花音を「妹」として、恋愛対象から外すために。

 そうすれば、うまく離れられるかもしれないと思ったのだ。


――初めて会った日の記憶。花音はまだベビーカーの中にいた。

 小さな手足をばたばたさせて、甘い、どこか懐かしい匂いを漂わせていた。


「赤ちゃん産まれたから、公園デビューしに行くんだよ」


 母親に連れられて、公園へ向かう途中だった。

 三歳の小唄は、初めて見る赤ちゃんに目を輝かせた。


「良かったら、押してみる?」

「いいの!?」


 小さな手でベビーカーのハンドルを握ったが、三歳児の力では重くてなかなか進まない。

 それでも少しだけ押せた瞬間、花音がきゃっきゃと笑った。

 その笑顔が、小唄の胸に温かいものを灯した。


――兄代わりになろう。


 そう思うのも自然な成り行きだった。


 小唄はそれからずっと。花音の勉強を教え、工作を手伝い、新しい遊びを一緒に試した。

 転んで泣いたら抱き上げ、怪我をしたら絆創膏を貼り、怖い夢を見たという翌朝は必死に慰めた。

 ずっと、隣にいた。

 花音はいつも、小唄の後ろをちょこちょことついてきて、「小唄くん!」と呼んでくれた。

 なのに、こんな。


――ずっと、気付かなかった。


 小唄の胸が、痛く締めつけられる。

 それでも、小唄の身体は正直だった。


 花音は未だに小唄を離してくれない。


『それでも蕪は抜けません……』


 頭の中にふとそんな言葉が浮かび、小唄は苦笑いした。


「小唄くん……行かないで……」


 花音はまだうっとりと目を閉じたまま、寝言のように囁く。

 頰は赤く、湯気で濡れた髪が額に張り付いている。

 小唄はため息をつき、花音をそっと抱き寄せた。


 言葉にならない想いが、胸に渦巻く。

 隣にいたはずの「妹」が、いつの間にかこんなに成長していた現実が、胸を熱くする。


 お湯の表面が淡い音を立てて揺れる。

 寄り添う二人の熱を尻目に、湯舟の温度は静かに冷えていった。



 何時間そうしていただろうか。


 湯船のお湯はもう何度も追い炊きされ、何回目かの熱い対流が浴槽を巡っていた。


 花音のまぶたがゆっくりと開く。


「……小唄くん…?」


 夢うつつで、ゆらゆらと頭を揺らしながら、花音の視線が小唄に絡みつく。


「やっと起きたか……」


 小唄の声は疲れと安堵が入り混じっていた。


「もう怒ってないから……取り敢えず……もう一回大人になれねえか……? このまんまだと離れられねえから……」


 花音は目をぱちくりさせて、頰を赤らめた。


「あ……う、うん……!」


 花音は胸と腹に手を回し、ぎゅうと目を瞑る。

 小唄は目を丸くする。


「えっ……何してんの?」花音は恥ずかしそうに、でも真剣に答えた。


「これ……おまじないなの……こうやって自分の身体を抱き締めながら……好きな人の事を思い浮かべて……『およめさんになりたいです』って思うと、大人の女の人になれるの……っ」


 その姿に、小唄は唖然とした。花音の小さな指が、兎のように速い鼓動の上で揺れている。

 湯気の中に溶け込みそうな華奢な体。


 恥じらいながらも、必死に「小唄のお嫁さん」になろうとする姿。

 小唄は見惚れてしまった。へとへとの身体が、再び熱くなる。


 そして、花音の体が、ゆっくりと変化を始めた。

 身長が伸び、小唄を超える。厚みを増した身体が重くのしかかり、丸みを帯びていく。髪が長く伸び、湯に濡れて艶やかに揺れる。


 小唄を包む愛も、温かく優しいものに変わる。


「はぁ……っ」


 美花―――いや、未来の姿になった花音は、甘い吐息を漏らした。


 小唄は息を飲む。


「花音……」


 花音はゆっくりと小唄の首に腕を回した。

 湯の中で、二人は再び深く繋がった。


「うん……っ!花音だよ……」


 湯船の漣は、ただ二人に触れては砕けていった。



「……ほんとの姿でも、小唄くんが離れないでくれて、よかった」

「いや、本当のお前だと、色々…色々…こういう時に困るからさぁ………こういう時とかはお姉さんの姿の方が助かる……!」


 花音はしゅんとする。


「……そんなぁ…」


 小唄は慌てて言葉を継ぐ。


「……たまに、なら、いいけどさ……」


 その言葉を聞いた瞬間、花音は目を輝かせ、小唄を強く抱き締めた。

 小唄の顔はその柔らかさ、温かさに埋まり、窒息しそうになる。


「うぐっ……!」


 小唄はもがくが、花音の腕は離さない。一眠りして体力を取り戻した美花の姿の彼女は、驚くほど元気だった。

 一方小唄は、神社から家まで花音を抱えて歩き、ずっと起きていて、湯船で何度も追い炊きを繰り返したせいで、体力はほぼ底を尽いていた。

 そんな小唄に、花音は再び愛を囁きながら擦り寄る。


「小唄くん……一生、一緒に居て…」


 両想いを確信した花音の瞳は、熱を帯びていた。

 小唄はもう、抗う言葉すら呟けない。

 体が重く、ただ花音の動きに身を任せるしかなかった。

 甘い匂いが鼻をくすぐる。


「はぁ……っ、ん……小唄くん……好き……!」


 花音の何十回目かの告白が、湯気に混じって響く。

 小唄は目を閉じ、ただその熱に溺れるしかなかった。


「……俺も、好きだよ」


 聞いているのか居ないのか、花音は小さな吐息を漏らした。



 夜明け、花音はくったりした小唄を抱えて湯舟を出た。

 二人分のびちゃびちゃの浴衣を絞って洗濯機に放り込み、何度も泊まったことのある、勝手知ったる脱衣場でTシャツなどを取り出して着た。

 小唄にも時間はかかったが着せてやれた。

 夏の早い朝の光に照らされて、小唄は寝言で花音の名前を呼んでいた。

 花音はたまらない気持ちになって、脱衣場の床で小唄に寄り添い、そのまま静かに小さな身体に戻った。



 それから6年が過ぎた。小唄と花音は、幼い頃から変わらず隣にいた。

 変わったのは二人の関係の色と、二人の身体だけだった。


「小唄くん!また身長伸びてたよ~!」


 花音は身長が伸びる度、また、服や靴のサイズがアップする度、それを自慢げに報告した。

 小唄は毎回目をやや逸らしながら「よかったな…」と呟くのだった。

 小唄自身も身長が伸びていて、昔の「美花」の身長はとうに越え、骨っぽくなった手でわしゃわしゃと花音の頭を撫でた。


 二人の恋心は目減りするどころか、どんどん育っていった。


 その一方で、花音があのおまじないを使う頻度は年々減っていった。


 最初は不安からだった。


 その後だって、小唄の同級生や先輩が近づいてくるたび、花音は「美花」の姿になって、威嚇するように小唄に絡みついていた。

 恋人として寄り添って、他の女の子たちを遠ざけた。


 でも、小唄が花音のことを正式に「彼女」と呼び始めた頃から、その回数は急速に減っていった。

 もうそんなの必要なかった。


 花音の変身は、不安と理想の表れだったのだ。


――本当の私で、愛されたい。


 その願いが叶った今、変身する必要はなくなった。

 いつも通りの夕暮れ、買い物帰り。


「小唄くん……あのね」

「どうした?花音」


 花音はひょいと、小唄の影を抜けて、たたっと駆け出し、振り向く。

 長くなった髪がカーテンのように小唄の視界を奪った直後。


 ちゅっ、と、唇に軽い感触。


「……昔、こういうの、やってみたかったんだ」


 にやり、と笑ったその顔は、確かにいつか見た、美花に重なっていて。-ーけれど、それよりずっと愛らしくて。

 小唄は買い物袋を持ったまま、ぎゅっと可愛い恋人を抱き締めた。

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