通奏低音のプライド
シジミとイヴと
四拍子の呼吸
志乃の朝は、豆を挽く低い音で始まる。
ガリガリと硬い粒が砕かれるその音は、目覚まし時計の鋭い電子音よりもずっと深く、彼女の意識の底をノックする。
「……起きた?」
キッチンから聞こえる悟の声は、朝の空気に溶け込むような低いバリトンだ。
「あと、五分」
「その五分、昨日も聞いた気がする」
志乃は毛布の中で小さく笑う。築四十年のヴィンテージマンション。
悟がリノベーションしたこの部屋には、二人の生活が地層のように積み重なっている。彼らはもう七年、この場所で「夫婦ではない同居人」として暮らしている。
かつての二人は、もっと高い音で鳴り響いていた時期もあった。付き合い始めて三年の頃、「結婚」という言葉が具体性を帯びた途端、関係のチューニングが狂い出したのだ。
「誰の妻になりたいわけじゃないし、誰かを一生養う自信もない」
そう告げたのは志乃だった。言葉を扱う校正者という仕事をしている彼女にとって、世間が用意した「妻」という箱に自分を当てはめることは、自分の文体を殺すことに等しく思えた。悟もまた、一人の時間を愛する男だった。彼は志乃の言葉を、拒絶ではなく「誠実な提案」として受け取った。
「じゃあ、無理に同じ楽器にならなくていい。別の楽器のまま、同じ曲を弾き続けよう」
それ以来、二人は婚姻届を出さない道を選んだ。それは、いつでも逃げられる自由を手にしながら、それでも相手の隣に留まり続けるという、最も贅沢で、最も覚悟のいる契約だった。
朝食のテーブル。会話はない。だが、不自然な沈黙でもない。
ふとした瞬間に、悟が自分のマグカップを置く。それと同時に、志乃がジャムの瓶を彼の方へ滑らせる。
視線すら合わせない。けれど、相手が何を欲し、どのタイミングで動くかを、肌が知っている。オーケストラの奥底で、指揮者も見ずにリズムを刻み続けるベースのように、二人の生活は阿吽の呼吸で進んでいく。
「今夜、レセプションの件、忘れてない?」
悟が席を立ち際、志乃の肩にポンと手を置いた。その手の熱が、厚手のニット越しにじんわりと伝わる。
「黒いドレス、出しておいたわ」
「楽しみにしてる。……たまには、ソロで目立ってくれないと」
悟が少しだけ悪戯っぽく目を細める。
志乃の胸の奥で、低い弦が震えたような振動が走った。
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通奏低音のプライド シジミとイヴと @arutemeru
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