第2話

「体が、脱皮したがっている」


俺は岩の隙間で、じっと自分の体に意識を向けた。

皮膚の内側、いや、もっと深い遺伝子の奥底で、新しい肉体が急速に膨れ上がっているのが分かる。

マグマのような熱い奔流が血管を駆け巡り、全身の細胞が歓喜の悲鳴を上げている。

ピキピキと、古い鱗に亀裂が入る音が静寂な洞窟内に響いた。

痛くはない。

むしろ、窮屈な服を脱ぎ捨てる時のような、極上の開放感が約束されている。

人間だった頃には、決して味わえなかった感覚だ。

あの頃の俺は、常に誰かの顔色を窺い、重い荷物に押し潰されそうになりながら生きてきた。

だが今は違う。

俺の魂が、器の更新を求めて咆哮している。


「う、く、苦しいけど、気持ちいい」


全身を締め付けていた古い皮が、限界を迎えて一気に弾け飛んだ。

バシュッという湿った音と共に、俺の視界が鮮明な色彩を取り戻す。

中から現れたのは、さらに深く、艶やかな光沢を帯びた碧色の鱗だ。

だが、変化はそれだけではない。

俺は地面に手をつき、ゆっくりと体を起こした。

視界が高い。

俺は後ろ足だけで立ち上がり、自分の体を見下ろした。

トカゲの姿ではない。

太く強靭になった二本の後ろ足が、大地をしっかりと踏みしめている。

前足は器用な五本の指を持つ「手」へと変化し、鋭利な爪はそのままに、武器を握ることすら可能な形状になっていた。

胸板は厚くなり、腹筋は鋼のように割れている。

無駄な脂肪が削ぎ落とされ、戦闘に特化した筋肉の鎧を纏った細身の人型。


【脱皮完了。全ステータスが、大幅に上昇しました】

【種族、アビスリザード・エボルブへ進化しました】

【ランクが、FからEに上昇しました】


脳内に響くシステムの声が、俺の進化を祝福している。

俺は軽く拳を握りしめ、空を殴ってみた。

シュッ、と風を切り裂く音が遅れて聞こえる。

速い。

以前のトカゲ形態とは比べ物にならない。

全身に力が満ち溢れ、岩盤すらも粉砕できそうな万能感がある。

アリスたち人間に近い形状だが、その性能は雲泥の差だ。

これこそが、俺が求めていた力の片鱗。


「すごい、世界がスローモーションに見える」


進化したことで、動体視力も格段に向上しているようだ。

空気中を漂う塵の動きさえも、手で掴めるほど鮮明に知覚できる。

これなら、アリスたちの剣技など、止まった絵を見ているも同然だろう。

いや、あいつらのことは今はどうでもいい。

俺の興味は、この新しい肉体の可能性を試すことにしかなかった。

アリスたちが五十階層程度で足踏みしている間に、俺はこの深淵で遥か高みへと登り詰める。

そのための道具が、俺の頭の中にある。


「さて、新しいピースを確認しよう」


俺が強く念じると、脳裏に幾何学模様のパズル画面が展開された。

無数の空きスロットが並ぶ盤面に、先ほど捕食したシャドウラットの遺伝子情報が、紫色の輝くピースとなって浮かんでいる。

これを指先で摘まむように意識し、適合するスロットへとスライドさせる。

カチリ、という小気味よい音が脳髄を震わせた。


【遺伝子片、影渡りの足裏を獲得しました】

【これを装着しますか?】


「影渡り? どんな能力なんだ」


俺はワクワクしながら、そのスキルのインストールを完了させた。

瞬間、足の裏に冷たい感覚が走る。

影という概念そのものが、俺の体の一部になったような奇妙な一体感。

試しに、岩陰に伸びる濃い影の上に足を乗せてみる。

ズブ、と足が沈んだ。

泥沼に足を取られたのではない。

俺の肉体が、影という次元に溶け込んだのだ。


「なるほど、影の中を自在に移動できるのか」


俺は影の中に全身を沈め、意識を前方の別の影へと向けた。

視界が黒一色に染まり、次の瞬間には、俺は十メートル先の岩陰から飛び出していた。

音もなく、気配もなく、空間を跳躍する移動術。

これを使えば、敵の背後を取ることなど造作もない。

アサシンや密偵職が一生をかけて習得するような奥義を、俺はただネズミを食っただけで手に入れてしまった。


「これは面白い、狩りがもっと楽になるぞ」


俺は影から影へと飛び移り、ダンジョンの深部へと滑るように移動した。

新しい肉体のテストドライブには丁度いい。

壁の影、天井の窪みの影、あらゆる闇が俺の通り道となる。

しばらく進むと、開けた巨大な空洞に出た。

湿った冷気が漂うその場所には、カシャン、カシャンという金属音が反響している。

俺は影の中に身を潜め、様子を伺った。

数体の人型をした骨の魔物が、錆びた剣を引きずりながら徘徊していた。

スケルトン。

下級の魔物として知られているが、こいつらは違う。

骨の密度、纏っている魔力の質が、上層にいる個体とは段違いだ。

深淵の魔素を吸って強化された、変異種だろう。


「スケルトンか。骨ばっかりで、食べるところがなさそうだな」


俺は少しがっかりしたが、今の俺には選り好みしている暇はない。

どんな魔物であれ、遺伝子の欠片を持っているはずだ。

俺は獲物を品定めするように目を細めた。

一番手前にいる一体が、無防備に背中を見せている。

距離はおよそ二十メートル。

影渡りを使えば、一瞬だ。


「今だ」


俺の殺意に呼応して、影が揺らめいた。

黒い霧となって影から飛び出した俺は、スケルトンの背後へと音もなく実体化する。

反応されるよりも速く、強靭に進化した右腕を一閃させた。

鋭利な爪が、空気を切り裂く音すら置き去りにする。

ガシャーンという派手な破砕音と共に、スケルトンの上半身が粉々に砕け散った。

豆腐を斬ったような軽さだ。

俺の手には、何の抵抗も残っていない。


「何だ、今の動きは」


突然、頭上からしわがれた声が降ってきた。

俺は即座にバックステップで距離を取り、声の主を睨みつけた。

そこには、半透明の姿をした老人がふわふわと浮いていた。

長い髭を蓄え、古めかしいローブを纏っているが、足がない。


「幽霊か? いや、残留思念というやつか」


老人は、目を皿のように見開いて俺を凝視している。

その表情には、恐怖よりも純粋な驚愕と好奇心の色が濃かった。


「ただのリザードマンではないな。あの速度、そして影と同化する技術……」


「あんた、誰だ」


俺は警戒を解かずに、低い声で問いかけた。

敵意は感じないが、得体が知れない。


「おお、意志の疎通までできるのか。驚きだ」


老人は興奮した様子で、俺の周りをくるくると一周した。

俺の鱗をねっとりと観察し、感嘆の息を漏らす。


「わしは、かつてこの迷宮で果てた賢者ジャスパーだ」


「賢者か。そんなすごい人が、どうしてこんなところに」


「魔王軍の罠にはまってな。仲間にも見捨てられたのだ」


ジャスパーと名乗った老人は、自嘲気味に口元を歪めた。

その瞳の奥には、長い時間を孤独に過ごしてきた者特有の諦念が見える。

仲間外れにされ、使い捨てにされた末路。

俺と同じだな。

奇妙な親近感が湧くのを止められなかった。


「お前さん、名前は何という」


「カイだ。今はこんな姿だが、元は人間だった」


「何と。転生者というわけか。それは興味深い」


ジャスパーは顎髭をさすりながら、納得したように頷いた。

俺の異常な成長速度や知性の理由を、彼なりに解釈したようだ。


「カイよ。お前の中には、恐ろしいほどの力が眠っておるぞ」


「力? まだランクEに進化したばかりだぞ」


「いや、ランクなどという些末な物差しの話ではない。その鱗の輝き、そして魂から溢れ出る覇気。それは古の龍の系譜だ」


古の龍。

システムが言っていた「神話級」という言葉が脳裏をよぎる。

やはり、俺の体にはとんでもない可能性が秘められているらしい。

賢者と呼ばれるほどの人物が保証するなら、間違いはないだろう。


「わしは長い間、ここで面白い獲物を待っていたが、お前さんのような存在は初めて見る。実に素晴らしい」


ジャスパーは子供のように目を輝かせて、俺を指差した。

その指先は震えている。

未知への恐怖ではなく、研究者としての歓喜に震えているのだ。


「褒めても何も出ないぞ。俺は強くなりたいだけだ」


「ならば、わしが少し手伝ってやろう。先人の知恵というやつだ」


ジャスパーは空中に浮いたまま、残りのスケルトンたちを指し示した。

仲間がやられたことに気づき、カタカタと顎を鳴らしながらこちらへ集まってきている。

数は十体ほどか。


「あの魔物の胸部にある核には、硬質化の遺伝子が含まれている」


「骨を食えって言うのか?」


「核だけでよい。それを食せば、お前の鱗はさらに硬度を増すだろう。リザードマンの柔軟性に、鋼の防御力が加われば無敵だ」


「なるほど、悪くない提案だ」


俺はニヤリと笑い、舌なめずりをした。

迫りくるスケルトンの群れが、もはや経験値の袋にしか見えない。

俺は腰を落とし、前傾姿勢をとった。

二本足で立つことで、瞬発力が最大限に発揮できる姿勢だ。


「期待しててくれ。俺を捨てた連中を後悔させてやるから」


「ほう、復讐か。そのドス黒い情熱、嫌いではないぞ」


俺は地面を蹴り、再び影の中へと身を投げた。

ジャスパーは特等席から、俺のショーを見物するようだ。


「ふむ、無駄のない動きだ。まるで天性の暗殺者だな」


スケルトンたちが錆びた剣を振り下ろすが、そこに俺の姿はない。

剣が空を切り、地面を叩くだけだ。

俺は影を縫うように移動し、敵の死角から死角へと渡り歩く。

一体目の懐に飛び込み、その胸元にある赤黒い魔石を爪で抉り出す。

指先の感覚が鋭敏になっているおかげで、外科手術のような正確さで核だけを摘出できた。


「もらった」


俺は抜き取った核を放り投げ、空中で口でキャッチして飲み込む。

ガリッという音と共に、魔力が胃袋で弾けた。

立ち止まる暇はない。

二体目、三体目。

俺は踊るように戦場を駆け巡った。

スケルトンたちの動きがあまりにも遅く、あくびが出るほどだ。

かつて人間だった頃、俺は荷物持ちとして彼らの戦いを後ろから見ていた。

アリスの剣技、ゲイルの斧捌き。

それらを必死に目で追っていた経験が、今この肉体と融合し、独自の戦闘スタイルへと昇華されている。


「あんなリザードマン、見たことがない。魔法と物理の融合か」


ジャスパーの感嘆の声がBGMのように心地よい。

俺の尻尾が鞭のようにしなり、背後から迫っていたスケルトンの頭蓋骨を粉砕する。

振り返りざまに、手刀で別の個体の首を刎ね飛ばす。

暴力の旋風。

一方的な蹂躙。

俺が通った後には、骨の残骸だけが積み上げられていく。


「しかも、戦いの中で常に成長している。化け物め」


ジャスパーの言う通りだ。

動けば動くほど、この新しい体が馴染んでいく。

筋肉の一本一本、神経の末端まで、俺の意志が浸透していく快感。

最後のスケルトンが、俺の爪によってバラバラに崩れ落ちた時、洞窟には再び静寂が戻ってきた。

俺は散らばった魔石を拾い集め、スナック菓子のように次々と口へ放り込んだ。

カルシウムと魔力の味がする。

決して美味ではないが、力が湧いてくる味だ。


【遺伝子片、骨の装甲を獲得しました】

【パズルに組み込みます。耐久力が三倍になります】


システムのアナウンスと共に、俺の体表に変化が起きた。

碧色の鱗が、カチリカチリと音を立てて密度を増していく。

表面に金属的な光沢が走り、まるで全身がミスリルの鎧で覆われたかのような質感へと変わった。

試しに自分の鋭い爪で、腕の鱗を力いっぱい引っ掻いてみる。

キィン、と高い音がして、火花が散った。

傷一つ付かない。

完璧だ。


「どうだ、賢者様。俺のパズルの出来栄えは」


俺が胸を張って見せると、ジャスパーは呆れたように首を振った。


「呆れたな。ただ骨を食っただけで、ミスリルゴーレム並みの硬度を得るとは」


「これが俺の才能だ。……いや、あいつらが捨てた才能だ」


俺はお腹がいっぱいになり、心地よい熱が体の芯から広がっていくのを感じた。

まだだ。

まだ足りない。

この程度で満足していては、世界の底を超えることなどできない。

アリスたちが絶望し、ひれ伏すような圧倒的な「個」にならなければ意味がない。


【全遺伝子スロットの同調を確認。次の進化条件を満たしました】


脳内で新たなファンファーレが鳴り響く。

早い。

まだ進化したばかりだというのに、もう次の段階へ進めるのか。

このリザードマンの姿ですら、通過点に過ぎないというのか。


「もう進化できるのか? ペースが早いな」


俺は口元を歪め、獰猛な笑みを浮かべた。

ジャスパーも、俺から立ち昇る異常な魔力の揺らぎを察知したようだ。

空中で姿勢を正し、真剣な眼差しを向けてくる。


「カイよ、次はどのような姿になるのだ。その魔力の高まり……ただ事ではないぞ」


「さあな。俺も楽しみだよ」


俺の体が再び、内側から激しく発光し始めた。

今度は先ほどのような心地よい熱さではない。

骨格そのものをきしませ、魂を焼き尽くすような灼熱の奔流だ。

細胞の一つ一つが叫んでいる。

もっと強く。

もっと巨大に。

地を這う者から、天を統べる者へ。


「グゥ、オオオオオオオッ!」


俺は咆哮した。

それはもはや人の声でも、トカゲの鳴き声でもない。

深淵の闇を震わせる、王の産声だった。

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2026年1月19日 18:05
2026年1月20日 18:05
2026年1月21日 18:05

捨てられた最弱のトカゲ、実は神話級の古龍へ至る唯一の進化系統でした。脱皮のたびにステータスが万単位で跳ね上がり、気づけば自分を捨てた勇者パーティが絶望するほどの【歩く天災】へ成り上がる 旅する書斎(☆ほしい) @patvessel

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