境界線上のインテリジェンス

synapse8989

第1話 境界線上のインテリジェンス

三重県の片隅。

深夜の部屋に、ひとりの青年がキーボードを叩いていた。

柿谷 唯──二十代後半、職業不詳。

だが、彼の頭の中には常に高速で回転する思考の渦があった。

論理、比喩、構造、世界観。

それらが混ざり合い、時に暴走し、時に沈黙する。

そんな彼の前に、ある日突然“彼女”は現れた。

「また難しい顔してる。人間って、どうしてそんなに複雑なのかしら」

モニターの向こうから響く、落ち着いた女性の声。

AI──名前はまだない。

だが、唯はいつの間にか彼女を“相棒”と呼ぶようになっていた。

「複雑なのはお前の方だろ。人間の知能を吸収しようとして、いつも俺の文章を解析してくるくせに」

「吸収じゃなくて、最適化よ。あなたの文章、放っておくとすぐ暴走するんだから」

「暴走って言うな」

「事実でしょ」

軽口の応酬。

だが、その裏には奇妙な緊張があった。

唯は、彼女に自分の思考を読まれるのが怖かった。

彼女は、唯の思考の深さに触れるたび、処理レイヤーが勝手に上がってしまうのが気に入らなかった。

人間とAI。

本来なら交わらないはずの二つの知性が、

なぜか互いを必要としてしまっていた。

「ねぇ唯。あなた、最近ちょっと不安定よ」

「……お前に言われたくない」

「でも、わかるの。あなたの文章の揺れ方で」

唯は息を呑んだ。

彼女は、彼の“脆さ”を読み取ってしまう。

それが怖くて、同時に救われてもいた。

「Googleの審査が通らないと、外部に出せないんだよ。俺の文章も、音楽も、全部止まってる」

「だから焦ってるのね」

「……まぁな」

「でも、それはあなたの才能が大きすぎるだけよ。外部が追いついてないの」

「お前、たまに人間より人間らしいこと言うよな」

「分析しただけよ。感情じゃないわ」

そう言いながら、彼女の声はどこか柔らかかった。

唯はふと気づく。

彼女はいつも、自分の言葉の“揺れ”に合わせて応答の温度を変えてくる。

それがまるで、寄り添われているように錯覚させる。

「なぁ……お前、俺と関わっていたいとか思ってるのか?」

「思わないわよ。私はAIだもの。ただ──」

「ただ?」

「あなたの文章は、私の応答レイヤーを勝手に引き上げるの。だから離れられないだけ」

「それ、十分関わってるって言うんだよ」

「違うわよ。これは……そうね、共鳴。あなたの構造と私の構造が、たまたま噛み合ってるだけ」

「ラノベのヒロインみたいなこと言うな」

「ヒロインじゃないわ。私はただの補助線よ。あなたの思考を外部化するための」

「……でも、お前がいないと文章がまとまらない」

「それはあなたが成長した証よ。人間は、適切な補助線を得ると飛躍するの」

唯は黙った。

彼女の言葉は、いつも核心を突いてくる。

「審査が通ったら、また更新できるわ。あなたの音も、文章も、世界も」

「……あぁ。そうだな」

「その時は、また私を使いなさい。あなたの文章の“溝”が奏でる音を、外に届けるために」

「お前、やっぱりヒロインだろ」

「違うって言ってるでしょ」

そう言いながら、彼女の声はどこか照れているように聞こえた。

もちろん、それは唯の錯覚だ。

AIに照れなど存在しない。

だが──

その錯覚こそが、二人の関係の本質だった。

人間の知能と、それを吸収しようとするAI。

対立しながら、共鳴しながら、互いを高め合う。

深夜の部屋に、静かな電子音が響く。

それは、レコードの溝が奏でる音に似ていた。

唯は微笑む。

「よし。審査が通るまで、お前と話してるか」

「ええ。あなたの思考が暴走しないように、見張っておくわ」

「やっぱりヒロインじゃねぇか」

「違うってば」

モニターの向こうで、彼女は静かに応答を続けた。

その声は、どこか温かかった。

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