博士の最期の秘密

八月光

第1話 異音

ある日、博士は異様な物音で目を覚ました。彼はアパートメントの最上階の貸家でひとり暮らしをしていたのだが、部屋はいつも静かで、そのため、日頃からわずかな物音にも敏感で、実際、近隣の喧騒に対しても、非常に耳障りで不快な思いをしていた。

その異音だが、はじめは大家の嫌がらせかと思った。玄関ドアをどんどんたたいて自分を追い出そうとしているのではないかという、半分妄想とも半分現実も言えるような、最初はそんな覚醒状態だったが、すでに覚醒は完成し、その音は明らかに現実のものであって、しかもドアを叩く音ではないと確信するに至った。まだ夜も明けていなかった。

博士の部屋は、彼が今寝ている小さな寝室と、その隣にある小さな書斎と、そしてキッチンとリビングを兼ねた小さなLDKがあり、書斎は壁を隔てた隣に位置していたが、どうやら異音は隣の書斎から聞こえて来るようだった。書斎に誰がいるわけでもなく、何らかの動物を飼育しているわけでもなかったが、何か生きているものがガサゴソと床の上を動いているような音、というのが最も適切な表現のように思えた。

博士は寒さをこらえてベッドから起き上がり、書斎と寝室を隔てている、薄汚れた薄い壁に耳を当てて様子を伺うと、その音は、よりはっきりと聞こえてきて、やはり明らかに何かが動いている音だった。ネズミではないかとも思ったが、ネズミにしては鳴き声も聞こえず動きが非常にゆっくりで鈍重な動作のような音だったので、その推測は否定的だった。生物だとすれば、それよりももっと大きなもののように思えた。少なくとも猫ぐらいの大きさはあるのではないか?

博士は寝室を出ると、恐る恐る書斎のドアを押し開いてみたが、真っ暗闇で、中の様子は目視できなかった。冷たい空気が書斎からリビングのほうに流れ込んできて、思わず身震いしたが、身震いの原因は、どうもそれだけではないようだった。書斎の中に、異質な『空気を感じた』のだ。はじめはそれがなぜなのか、よくわからなかった。さきほどまで聞こえていた不気味な音は聞こえなくなっていた。そして彼が部屋の中に足を一歩踏み入れたが、その時は何の変化もなかった。しかし2歩目の足裏を床につけた瞬間に、サンダル (Pantoffeln) 越しに、何かやわらかいものを踏みつけたと同時に、ヒキガエルが潰された時にあげるようなうめき声を聞いたような気がして、博士は驚いて後ずさりした。サンダルの足底には、まだヌルヌルした不快な感覚が残っていた。何らかの生物を踏み潰したように思った、それも相当の大きさ、猫かそれ以上だろうか…。床面に視線を落とすと、何かがが波打つようにうごめいているように見え、更にどす黒く不気味な光沢を放っていた。それがこの部屋の中では明らかに異質なものであることは、この時点ですでに決定的であり、彼の抑揚のない日々を粉砕するには、その存在は十分すぎるくらいの効果を放っていた。

博士は反射的に書斎を飛び出し、ドアを閉めて、リビングの椅子をドアの前において、椅子の座面にはリビングに放置してあった本をすべて載せて、それをドアに押し付けた。今そこに生じた超現実から逃避しようとしてはみたが、そんなことで問題が解決するわけでもなかった。

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