東の魔女の開運手帖 ~西洋魔術を極めるより、日本の暦に従う方が幸せになれるって本当ですか?~

@yamagata13

第1話 今日は開運日、だと思っていたのだが…

カーテンの隙間から朝日が差しこみ始めて、エヴァリスは目を覚ました。


ゆったりと深呼吸すると、冷たく清浄な空気が肺に入り込んでくる。ベッドから起き上がり、実は生地が足りなくて閉まりきらなかったカーテンを大きく開けて、窓を軋ませながら解き放った。


「さあ、今日が始まる」


その顔は、清々しい朝の空気と、芽吹き始めた美しい景色に照らされて晴れやかだ。刻一刻と時が世界を変えてゆく。この変化が何よりも愛おしく、エヴァリスは毎朝胸を躍らせながら景色を心に刻んでいた。


1900年4月9日。


ブランタメイア王国最東端、グラストン地方の小さな村のさらに東の小高い丘に、師匠が昔使っていたという古い屋敷がある、と聞いた時、真っ先に「欲しい」と申し出た。


今は無人となって久しく、手入れもされていないらしいが、正式な手続きを踏んでここをもらい受けることになったとき、エヴァリスは心の中でガッツポーズを作ったのだった。


(私の理想郷だ)


人里離れ、王の威光すら届かぬような辺境の地だが、それこそ、エヴァリスが行き着くべきユートピアだと確信した。

いや、ここで確信したのは本人だけだと言わねばならない。この話を聞いた同胞、国王までも、「何故」と首をかしげ、あるいはなんとか引き留められぬか考えあぐねた。もちろん、引き留められるほど懐柔しやすい女ではない。


エヴァリスは嬉々としてこの地に隠匿すると決めるや否や、早々と王宮を去って既に五年の年月が経った春のある日から物語は始まる。



さて、では実際に“事”が起こる前にもう少し彼女の身辺を見て回ろう。


エヴァリスの屋敷は、その実、四百年は経っているであろう石造りの古いものだ。城というには小さすぎるが、一人で住むにはかなり大きい。一階建ての建物がコの字を描きながら中庭を囲み、納屋が隣接して建てられている。一番目立つのは正面の右角、石を円筒に積み上げられた一角で、屋根もまた円錐型に伸びているのが遠目からでもよく映える。背後には小さな雑木林が茂って屋敷を守っていたが、それ以外には何もない。この辺りは見渡す限り、なだらかな起伏が上下するのみの荒野ムーアである。


こんな辺鄙へんぴなところに人が来るわけもなく、それが変わり者で偏屈で、そのうえ人嫌いなエヴァリスにとって都合が良かった。隣の村まで実に20マイル(約32km)、馬車で片道5時間の道のりだ。ほぼ誰とも接することのない隠居生活を営むのにはぴったりだった。



エヴァリスは毎朝起きて身支度をし、簡単な朝食を食べた後、机の引き出しにしまった書物を開くのが日課になっていた。


「むっふふ。さて、今日はどんな日かな」


何故か楽しげな雰囲気は読書という感じでもなく、実際、読むのはほんの数行。今日の月日が刻まれたページをぺらりと開く。

名を『星廻草木せいかいそうもく雑暦書ざつれきしょ』という、東洋の国のカレンダーである。

その名の通り、九星術などの東洋の占術や季節の巡りが記されており、その日の運気を分析して、農事や冠婚葬祭などを行う際の吉凶などを記した『開運暦』と呼ばれる暦書だ。

エヴァリスはさらにもう一つの手書きの分厚いノートを取り出した。

革の表紙に羊皮紙が使用されたブランタメイア製のノートには、外国文字、即ち日本ヒノモト語がブランタメイア語で翻訳された言葉がつらつらと並んでおり、辞書として重宝していた。これはエヴァリスの友人である日本ヒノモト人が作ってくれたお手製である。

エヴァリスはこの暦書れきしょとノートを見比べながら、日々の運勢を読み解いていくのを何よりの楽しみにしていた。


「えーっと。今日は4月、9日…テ、《天恩日てんおんび》…《月徳日つきとくにち》…、お?おぉ!…《一粒万倍日いちりゅうまんばいび》!!」


まだ翻訳は辿々しいが、その分、毎日新鮮な気持ちで今日の運勢を紐解いていく。



「エヴァリス、今日も朝から掃除するのかい?」


突然、エヴァリスの背後で声がした。

見ると、エヴァリスが用意していたミルクをちるちる飲む猫が一匹、部屋に入ってきている。

黒に銀の縞模様が入ったキジトラ猫、名はシン。実は使い魔で人語を喋る。


そうそう、実はこの屋敷には使い魔も同居しているのだが、まぁ何をするでもなく日がな一日食っちゃ生活を送る気ままな猫なので、エヴァリスは実質一人ということにしていいだろう。


「掃除は『家をきれいにすると良い』ともいわれている《天一天上てんいちてんじょう》の日に散々やったろ。当分は床を掃くぐらいで十分だ」

言い切り、そしてにやりと顔を歪めて笑う。

「それより今日は天の恩恵を受ける5日間である《天恩日》の最中で、しかも《一粒万倍日》と《月徳日》が重なっている吉日だ!つまり、今日は《超開運吉日》!」

まるで何か悪巧みでも思いついたような顔なのだが、これがエヴァリスの通常運転だ。

そして、そんなエヴァリスの様子に呆れたようにくうを見やるシン。

「はあ。やれやれ、いつまでソレ続けるんだよ。僕はもう飽きちゃった」

シンの言うソレとは即ち、この開運暦に基づいて生活することを言う。

エヴァリスは『星廻草木雑暦書』に書かれてある吉凶に沿って一喜一憂しながら生活していた。例えば、「家の掃除をすると良い日」には掃除をして回ったり、「畑仕事をしてはならない日」には土いじりをしない、など。

もちろん、このブランタメイアにそのような慣習はないし、何よりこの国でも有数の能力者であるエヴァリスが、そんな地道で遠回りなことを時間をかけてせっせと行うのは馬鹿らしい。


「魔法でちゃちゃーっとやっちゃえばいいのに。君は天才【王宮魔術師】エヴァリス・アルゲルナだろう?」


そう、エヴァリスはこのブランタメイア王国で最も権威のある【王宮魔術師】にして、この国屈指の天才魔法使いとしてその名を知られている人物である。

だが、エヴァリスは不機嫌そうに眉毛をひそめた。


「元だ、元!まぁ天才というのは否定せんが、今は野良の魔術師ってやつだな。隣村の者たちから【星霜館せいそうかんに住む東の魔女】と呼ばれているらしい」


くっくっく、と嫌味っぽく笑う。呼ばれたくてそう呼ばれているわけではないからだろう。だが、その呼び名は【王宮魔術師】よりはマシらしい。

そしてエヴァリスはさらに続けた。


「しかしシン。確かに掃除や畑仕事は魔法で楽にこそなるが、毎日の吉凶を魔法で変えることはできないぞ。王宮での忙しい毎日や喧騒から解き放たれて、時の流れを楽しむこともな」


そう言ってくるりと回って見せ、見えない何かを抱きしめるような仕草をしたエヴァリスは、毒気のない笑顔で今度こそ笑った。


「日々を噛みしめて生きる。このなんと贅沢なことか」


その顔があまりに美しく、いつも見慣れているはずのシンも思わず文句が喉から出なかった。漆黒の長い艷やかな髪と、エメラルドのように煌めく瞳。


エヴァリスは使い魔が密かに見惚れるほどに美しい人間だった。


その性格があまりにガサツで男勝りなことと、思い込んだら一直線の融通の利かなさと、ある能力に秀でていることに目を瞑れば、エヴァリスは人形のように完璧な形をした人間だ、とシンは思う。


(…開運日だからといって特別良いことなんか何もないくせに。こんな辺鄙な場所でたった一人、物好きな変人魔女だよ、まったく)



それから、エヴァリスは洗濯物をせっせと洗い、真っ青な空の下で干していった。春の風は心地よく、洗濯物がよく乾く。

時折小鳥たちの声に耳を澄まし、その歌声に混ざってハミングしながら庭の草木の手入れをして回る。

春は一段と庭が賑やかで美しい。ハーブをはじめ、花や野菜も育てており、ところ狭しと植物たちが葉を伸ばして成長していた。

家畜小屋にはヤギと鶏、そして馬を2頭飼育している。たまに近隣の村に買い物に行くので馬車を引かせるのだ。彼等の世話も楽しくこなして、今日も穏やかに過ぎていく。なんてこともない、至福の一日だ。



…だが。



夕日が空を赤く染め始めた時、屋敷に戻ろうとしたエヴァリスの視界に妙な影がちらりと映った。

嫌な予感がする。

こんなにも完璧な一日がようやく終わりを迎えようとしている今になって、草原を突っ切る黒い影。


(馬車だ)


この瞬間、エヴァリスの脳裏に忘れていたある単語がつらつらと浮かび上がってきて仰け反りそうになってしまった。


そうだ、今朝は《天恩日》に《一粒万倍日》、《月徳日》に浮かれて忘れていたが、暦には《厄日凶日》というものもあるのだ。そういえば、シンに話しかけられて『暦書』の今日の欄を最後まで読まなかったことを思い出した。もしかしたら、たくさんの吉を打ち消すような凶が重なっているのではなかろうか。



馬車が引き連れてきたように、向こうの空に黒い雨雲が迫って見えた。

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