簒奪の汽笛(さんだつのきてき)
sora_op
第1話 「譲渡」
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体、企業、事件とは一切関係ありません。
額縁の中の男は、いつも笑っている。
煤けた顔。皺だらけの目尻。国鉄の制服に染みついた油の匂いが、写真からでも漂ってきそうだ。
星竜司は、実家の居間に飾られたその新聞記事を、幼い頃から何度も眺めてきた。
『消えゆく蒸気、継がれる魂——若手に技を伝える老機関士』
昭和四十八年、北海道新聞の記事。祖父・星辰雄が、定年を前にして特集されたものだ。
蒸気機関車が次々と姿を消していく時代。電化の波が押し寄せ、ディーゼル機関車が主役になりつつあった頃。祖父は恨み言ひとつ言わなかった。ただ黙々と、若い機関士たちに技を伝え続けた。
石炭の焚き方。缶圧の読み方。煙の色で機関車の調子を見抜く方法。
マニュアルには載っていない、身体で覚えるしかない技術。それを祖父は、一人ひとりに丁寧に教えた。
「技術は継がなければ死ぬ。けど、押し付けたら腐る。だから俺は教えるんじゃない、見せるんだ」
それが祖父の口癖だった。
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## 二
竜司が祖父に連れられて機関区を見学したのは、小学校に上がる前のことだ。
蒸気機関車は、すでに絶滅寸前だった。北海道のローカル線に、わずかに残っているだけ。祖父は「最後の現役SL機関士」の一人だった。
巨大な黒い機関車を前に、幼い竜司は興奮して叫んだ。
「じいちゃん、この汽車、すっごく速いの?」
祖父は煤けた手で竜司の頭を撫でながら、静かに言った。
「竜司、よく聞け。鉄道屋が一番大切にするもんは何か、分かるか」
「……速さ?」
「違う」
「時間どおりに着くこと?」
「それも大事だ。だが一番じゃない」
祖父は機関車の車輪を指差した。
黒光りする鉄の塊。線路に噛み合う、その巨大な円。
「いいか、竜司。鉄道は確かに時刻どおりに走ることが大切だ。お客さんは俺たちを信じて乗ってくれる。遅れたら怒られる。当たり前だ」
祖父の目が、真剣になった。
「だがな——」
その声は、静かだが、重かった。
「安定運行より、安全運行だ」
「……?」
「速く走ること、時間どおりに着くこと、それは二番目だ。一番は、お客さんを安全に目的地まで届けること。全員を、無事に降ろすこと。それができなきゃ、どんなに速くても意味がない」
竜司は黙って祖父を見上げた。
「分かるか、竜司。一人も欠けちゃいけない。一人でも怪我させたら、俺たちの負けだ。速さを誇る前に、安全を誇れ。それが鉄道屋だ」
幼い竜司には、その言葉の重さが分からなかった。
ただ、祖父の目が怖かった。優しい祖父が、一瞬だけ、別人のように見えた。
その意味が分かったのは、ずっと後のことだ。
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## 三
二〇〇四年、春。
星竜司、三十五歳。東王鉄道の高速鉄道車掌。
正確には、「元・運転士」だ。
十年前、竜司は運転士だった。東京と大阪を結ぶ大動脈、高速鉄道の運転席に座っていた。
あの日のことは、今でも夢に見る。
ホームに飛び込んできた人影。反射的にブレーキを踏んだ。間に合わないと分かっていた。それでも踏んだ。全力で踏んだ。
衝撃。
悲鳴。
そして、静寂。
自分の過失ではなかった。それは調査で明らかになった。誰も竜司を責めなかった。会社も、警察も、遺族でさえも。
だが、竜司の手には、あの瞬間の感触が残っていた。
ブレーキを踏んだ、あの感触。
間に合わなかった、あの感触。
それから、竜司は二度とハンドルを握れなくなった。
運転席に座ると、手が震える。ブレーキに触れると、吐き気がする。医者はPTSDと診断した。
「もう俺は運転できない」
竜司は運転士を降りた。
だが、鉄道は辞められなかった。
祖父の顔が浮かんだからだ。あの煤けた笑顔が。
だから車掌になった。運転席の後ろで、ドアを開け閉めし、車内を巡回する仕事。ハンドルを握らなくていい仕事。
それでも、鉄道屋ではいられる。
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## 四
その日、竜司は上司に呼び出された。
会議室には、本社の人間が二人いた。背広組だ。現場を知らない連中の匂いがした。
「星くん、君に海外赴任の話がある」
「海外?」
「中国だ」
竜司は眉をひそめた。
「中国に高速鉄道技術を供与することになった。正式契約は来月だ。君には現地で乗務員教育を担当してもらいたい」
「乗務員教育……」
「君は元運転士だろう。事故で降りたとはいえ、技術は一流だと聞いている。現地の乗務員に、日本式の安全教育を叩き込んでほしい」
竜司は黙っていた。
皮肉な話だ。自分はもうハンドルを握れない。それなのに、他人に運転を教えろという。
「なぜ俺なんですか」
「君は真面目だからだ。マニュアル通りのことしか教えない技術者より、君のような現場叩き上げの方が適任だと判断した」
背広組の一人が、資料を差し出した。
「これが契約の概要だ。技術供与の範囲、現地での役割、報酬体系。目を通しておいてくれ」
竜司は資料を受け取った。
表紙には「中国高速鉄道技術協力プロジェクト」と書かれていた。
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## 五
帰宅後、竜司は資料を読んだ。
中国政府は「市場参入権」を餌に、日本、ドイツ、フランスを競わせていた。
「技術をよこさなければ市場に入れない」
露骨な要求だった。だが、中国の鉄道市場は巨大だ。人口十三億。国土は日本の二十五倍。高速鉄道網を整備すれば、天文学的な需要が見込める。
川南重工が前のめりになった。車両メーカーとして、この機会を逃す手はない。東王鉄道も追随した。「アジアのリーダーになる」という経営陣の野望もあった。
契約条件は二つ。
「中国国内限定使用」
「中国独自開発を主張しない」
つまり、技術を渡すが、それを使って海外に進出したり、「自分たちで作った」と言い張ったりしてはいけない、という縛りだ。
竜司は資料を閉じた。
本当に守られるのだろうか、この約束は。
その疑問が、頭を離れなかった。
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## 六
翌週、竜司は業界の噂を耳にした。
海王鉄道——東王鉄道のライバル会社——が、この技術供与を断固として拒否したというのだ。
海王鉄道の海公会長。業界では「頑固者」で通っている男だ。政府の圧力にも屈せず、自社の技術を守り抜いてきた伝説の経営者。
曰く、「あの国に法治はない。契約書は紙切れだ」
曰く、「技術を渡すのは、泥棒に合鍵を渡すようなものだ」
曰く、「紙切れ一枚たりとも渡さない」
竜司は複雑な思いだった。
海公会長の言うことは、正しいのかもしれない。だが、自分の会社——東王鉄道——は、すでに技術供与を決めてしまった。
今さら引き返せない。
それに、と竜司は思った。
祖父も、技術を伝えることを恐れなかった。蒸気機関車が消えていく時、若い世代に惜しみなく技を教えた。
技術は継いでなんぼだ。
そう信じていた。
---
## 七
北京への出発を一週間後に控えた夜。
竜司は、東京駅のガード下にある居酒屋にいた。
カウンターの隣には、海王鉄道の車掌・鬼塚修一が座っていた。鬼塚は竜司の同期だ。入社当時は同じ会社だったが、国鉄分割民営化で別々の会社になった。それでも付き合いは続いている。
「それで、本当に行くのか。中国に」
鬼塚が、焼酎のグラスを傾けながら言った。
「ああ」
「お前んとこの経営陣は正気か。泥棒に合鍵を渡すようなもんだぞ」
「大げさだよ」
竜司は苦笑した。
「祖父ちゃんだってそうだった。蒸気機関が終わる時、若い連中に全部教えたんだ。技術は継いでなんぼだろ」
鬼塚は黙って竜司を見た。
その目が、妙に冷たかった。
「……お前の祖父さんが教えた相手は、日本人だったろ」
竜司は言葉に詰まった。
鬼塚は続けた。
「うちの海公会長が言ってたよ。『技術は売れる。だが魂は売れない。そして、魂のない技術は必ず事故を起こす』とな」
「……」
「お前、向こうで何を教えるつもりだ? 図面か? マニュアルか?」
竜司は、グラスの中の琥珀色を見つめた。
「……安全だよ」
「安全?」
「祖父ちゃんが俺に教えてくれたこと。『安定運行より安全運行』。それを伝えてくる」
鬼塚は黙って酒を飲み干した。
長い沈黙の後、ぽつりと言った。
「……伝わるといいな」
その言葉が、妙に耳に残った。
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## 八
出発の朝。
竜司は北海道の実家に寄った。
母は足を悪くして、一人で暮らしている。父は竜司が高校生の時に病気で亡くなった。
「身体に気をつけてね。無理しないで」
母は、息子の顔をじっと見つめてそう言った。
「ああ、分かってるよ」
竜司は居間に入り、額縁の前に立った。
煤けた顔で笑う祖父。
昭和四十八年の新聞記事。『消えゆく蒸気、継がれる魂』。
竜司は、その写真に語りかけた。
「じいちゃん、俺も見せてくるよ」
祖父は何も答えない。ただ、笑っている。
「鉄道屋の魂ってやつを、向こうの連中に見せてくる。じいちゃんがやったみたいに」
窓の外では、春の風が吹いていた。北海道はまだ寒い。でも、空気の中に、かすかな春の匂いがあった。
「技術は継がなければ死ぬ。けど、押し付けたら腐る」
祖父の言葉が、頭の中で響いた。
「だから俺は教えるんじゃない、見せるんだ」
竜司は深く頷いた。
「見せてくるよ、じいちゃん。日本の鉄道屋が何を大切にしてきたか。安全とは何か」
一人も欠けちゃいけない。
それが鉄道屋だ。
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## 九
居間の棚の奥に、古いハンマーがあった。
木製の柄。鉄のヘッド。煤けて黒ずんでいる。柄の途中にヒビが入り、父が巻いたビニールテープが今も残っていた。
竜司は、そのハンマーを手に取った。
ずしりと重い。使い込まれた道具特有の、手に馴染む感触。
子供の頃、父に聞いたことがある。
「このハンマー、何に使うの?」
「じいちゃんのだ。機関士の仕事道具だ」
「SLにハンマー? 何を叩くの?」
「車輪だ。車体だ。叩いて、音を聞くんだ」
「音?」
「正常な時と、異常がある時とで、音が違う。その違いを聞き分ける。打検っていうんだ」
幼い竜司には、理解できなかった。叩いたら壊れるんじゃないか、と思った。
だが、父がそのハンマーを大切にしていることだけは分かった。柄が折れても、テープを巻いて、捨てなかった。
「機械は嘘をつかない」
父は、祖父の言葉を教えてくれた。
「だが、機械の声を聞ける人間は少ない。じいちゃんは、聞けた。このハンマーで、何百回、何千回と叩いて、耳で覚えたんだ」
竜司は、そのハンマーをスーツケースに入れた。
お守りだ。祖父の写真と、このハンマー。
北京で何があっても、この二つがあれば——
何があっても、鉄道屋でいられる気がした。
---
## 十
成田空港。
国際線の出発ロビーは、人でごった返していた。
竜司はスーツケースを引きながら、搭乗ゲートに向かった。
ポケットの中には、パスポートと、一枚の写真。
祖父の写真だ。額縁から出して、持ってきた。
そして、スーツケースの中には、あのハンマー。
「見ててくれ、じいちゃん」
搭乗のアナウンスが流れた。
北京行き。
竜司は、一歩を踏み出した。
その時、竜司はまだ知らなかった。
自分がこれから目撃するものを。
裏切りを。
窃盗を。
そして、握り潰される真実を。
祖父が生涯かけて伝えようとしたものが、いとも簡単に踏みにじられる光景を。
竜司は、まだ知らなかった。
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