第2話「The Next Room」
1
東京の出版社。会議室のテーブルを挟んで、ぼくは担当編集者の橘さんと向かい合っていた。
窓の外は夕暮れ時。オレンジ色の光が、テーブルの上に置かれた原稿用紙を照らしている。いや、原稿用紙ではない。メモ帳だ。びっしりと書き込まれた、ぼくの記録。
「これを、小説にしたいんですか」
橘さんは眉をひそめながら、メモ帳のページをめくった。三十代半ばの女性で、ぼくの担当になって二年になる。ぼくの奇妙な取材方法も、特殊な能力のことも、すべて理解してくれている数少ない人物だ。
「はい」
ぼくは答えた。
「でも、風露さん」橘さんは顔を上げた。「これ、他人の記憶じゃないですよね」
「ええ。ぼく自身の体験です」
「つまり、取材ではなく」
「自分の記憶を、追体験しました」
橘さんは深くため息をついた。
「風露さんがリアリティを追求しているのは重々承知しています。でも、これは……」
彼女は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「リアルすぎますよ」
ぼくは何も言わなかった。その通りだからだ。
「いつの記憶なんですか、これ」
「中学二年生の時です」
「中学二年生」橘さんは再びメモを見た。「かなり古い記憶ですね。なぜ今になって」
「ずっと気になっていたんです。夢だったのか、現実だったのか。曖昧なまま記憶の中に残っていた」
「それで、追体験した」
「昨日、自分の記憶に潜りました」
橘さんは黙ってメモを読み続けた。ぼくは窓の外を見た。
あの日のことを、ぼくは今でも鮮明に思い出せる。いや、昨日追体験するまでは鮮明じゃなかった。薄れた記憶、断片的な印象、不確かな感覚。それが、能力を使うことで完全に蘇った。
そして、ぼくは理解した。
あれは夢ではなかった。
2
「話してもらえますか」
橘さんがメモ帳を閉じた。
「あの日、何があったのか。メモだけじゃ分からない部分もあります」
ぼくは頷いて、語り始めた。
「中学二年生の秋でした。学校からの帰り道、いつもと違う路地裏に惹かれたんです」
「惹かれた?」
「ええ。正確に言えば、気づいたら足が向いていた。不思議な感覚でした。その路地は、今まで一度も見たことがなかった。毎日同じ道を通っているはずなのに」
ぼくは目を閉じた。記憶が蘇る。
放課後の住宅街。秋の夕暮れ。オレンジ色の光が、家々の壁を照らしていた。
ぼくは友達と別れ、一人で帰宅していた。いつもの道。見慣れた景色。何の変哲もない日常。
だが、その日は違った。
「路地の入口は、狭くて暗かった」ぼくは続けた。「建物と建物の隙間のような場所。不気味で、普通なら入らない。実際、最初は引き返そうとしたんです」
「でも?」
「体が、勝手に動いた」
橘さんの表情が硬くなった。
「まるで誰かに引っ張られるように。いや、違う。自分の意志で歩いているのに、方向だけが操作されているような。そんな感覚でした」
路地は思ったよりも長かった。両側の壁が迫り、空が細く切り取られている。足音だけが響いた。
どのくらい歩いただろうか。時間の感覚が曖昧だった。
やがて、路地が開けた。
「そこに、あの場所がありました」
ぼくは目を開けた。橘さんが固唾を呑んで待っている。
「どんな場所だったんですか」
「無機質な空間でした」
ぼくは言葉を選びながら説明した。
コンクリートの壁。蛍光灯の白い光。何の装飾もない廊下。規則的に並ぶドア。すべてが人工的で、冷たく、生活の痕跡が一切ない。
リミナルスペース。
後になって知った言葉だ。人がいるべき場所に人がいない。本来の用途を失った空間。日常と非日常の境界にある、不気味な場所。
「でも」ぼくは付け加えた。「不思議なことに、どこか懐かしかったんです」
「懐かしい?」
「ええ。初めて見る場所なのに。既視感というか、デジャヴというか。ぼくはそこにいるべきだと、そんな感覚がありました」
橘さんは何かメモを取り始めた。ぼくは続けた。
「最初は探索するような気持ちでした。この場所は何なのか、どこに繋がっているのか。好奇心が勝っていたんです」
廊下を歩いた。右に曲がり、左に曲がり、また右に曲がる。すべての廊下が同じに見えた。ドアを開けてみたが、その先にはまた廊下があった。
終わりが見えない。
「いつから恐怖に変わったんですか」
橘さんが問うた。
「気づいた時には、もう遅かったんです」
ぼくは答えた。
「出口が、見つからなくなっていました」
3
追体験した記憶は、生々しかった。
中学二年生のぼくは、最初の余裕を失っていた。同じような廊下、同じようなドア、同じような曲がり角。すべてが反復され、すべてが無意味だった。
来た道を戻ろうとした。でも、どの道を通ってきたのか分からない。目印がない。特徴がない。すべてが均質で、すべてが無個性だった。
「助けを呼ぼうとしました」ぼくは橘さんに語った。「でも、声が出なかった。いや、出たんです。ちゃんと声は出た。でも、誰も答えなかった」
静寂。
それが一番恐ろしかった。
人の気配がない。生活の音がない。外の世界の雑音がない。あるのは、ぼく自身の足音と呼吸だけ。
「どのくらいいたんですか、そこに」
「分かりません」橘さんの質問に、ぼくは首を振った。「時計を見ても、針が動いているのか止まっているのか判断できなかった。体感では何時間も歩いた気がします。でも、実際には数十分だったのかもしれない」
ぼくは窓の外を見た。夕暮れの光が、少し暗くなっていた。
「そして、あれに出会ったんです」
「あれ?」
「黒い、化け物のようなもの」
橘さんの手が止まった。
「メモには『影のような存在』と書いてありますが」
「ええ。正確には、影でした」
ぼくは追体験した映像を思い出した。
廊下の先に、それはいた。
人の形をしていたが、人ではなかった。黒い影。輪郭が曖昧で、まるで煙のように揺らいでいる。でも、確かにそこに存在していた。
動いていた。
ゆっくりと、目的もなく、廊下を彷徨っている。
「ぼくは、固まりました」
声が震えた。今思い出しても、恐怖が蘇る。
「息を止めて、動かずにいた。あれが、ぼくに気づいていないことを祈りながら」
影は近づいてこなかった。
別の方向へと、ゆっくり移動していった。やがて角を曲がり、視界から消えた。
「逃げました」
ぼくは続けた。
「影とは反対の方向に、全力で走った。もう、出口を探すとか、道を覚えるとか、そんなことは考えられなかった。ただ、離れたかった」
走った。曲がった。また走った。
息が切れた。足が痛くなった。でも、止まれなかった。
「どのくらい走ったか分かりません」
ぼくは橘さんを見た。
「でも、やがて足が動かなくなりました。疲労で、完全に限界だった」
廊下の隅に座り込んだ。呼吸が荒い。心臓が激しく鳴っている。
もう、無理だと思った。
ここで終わりなのかと思った。
「でも」
ぼくは立ち上がった。記憶の中でも、現実でも。
「諦められなかった」
4
「動かない足を、無理やり動かしました」
ぼくは語り続けた。
「一歩ずつ。ゆっくりと。もう走れなかったから、歩くしかなかった」
廊下は続いていた。
同じ景色。同じ構造。同じ絶望。
でも、歩いた。
「何かが変わるはずだと信じて。このまま歩き続けたら、必ず出口があると」
橘さんは黙って聞いていた。
「そして」
ぼくは一度、言葉を切った。
「気づいたら、元の場所にいたんです」
「元の場所?」
「路地裏です。あの、最初に入った狭い路地」
信じられない、という顔で橘さんが見ていた。
「どうやって戻ったのか、分かりません。覚えていないんです。ただ、気づいたら路地の出口に立っていた」
夕暮れの住宅街。
さっきと同じ景色。同じ光。同じ空気。
まるで、何も起きなかったかのように。
「時計を見たら」ぼくは続けた。「ほとんど時間が経っていませんでした。十分程度、だったと思います」
「十分」
「はい。あれだけ歩いて、走って、疲れ果てたのに。時間は、ほとんど進んでいなかった」
ぼくは家に帰った。
普通に夕食を食べて、普通に宿題をして、普通に寝た。
でも、あの体験は消えなかった。
「夢だと思おうとしました」ぼくは橘さんに言った。「でも、完全には信じられなかった。リアルすぎたんです。感覚が、記憶が、恐怖が」
それから何年も、ぼくはあの出来事を封印していた。
思い出さないようにした。考えないようにした。
でも、完全には忘れられなかった。
「大人になって、ネットで調べました」
ぼくは橘さんに説明した。
「リミナルスペース、バックルーム、そういった都市伝説。似たような体験談が、たくさんあったんです」
橘さんが頷いた。
「The Backrooms、ですね。海外の都市伝説」
「ええ。無限に続く黄色い部屋、蛍光灯の音、湿ったカーペット。ぼくが体験した場所とは細部が違いますが、本質は同じでした」
報告は多数あった。
現実世界から「滑り落ちる」ことで、そこに迷い込む。終わりのない迷路。同じような空間の反復。そして、何かがいる。
「ぼくだけじゃなかったんです」
ぼくは言った。
「同じような体験をした人が、世界中にいた。それが、少しだけ安心させてくれました」
橘さんはメモ帳を開いた。
「でも、風露さん。これを小説にするということは」
「分かっています」
ぼくは遮った。
「自分の記憶を、世界に公開することになる」
「それだけじゃありません」橘さんは真剣な顔で続けた。「読者は、これを信じるでしょうか。都市伝説として、創作として受け取るならいい。でも、もし本当にあったことだと」
「信じる人もいるでしょうね」
「そして、真似する人が出るかもしれない」
ぼくは黙った。
橘さんの言う通りだった。
もしこの小説を読んだ誰かが、同じような場所を探したら。もし本当に迷い込んでしまったら。
「責任を取れますか」
重い質問だった。
ぼくは窓の外を見た。空は暗くなっていた。街灯が灯り始めている。
「昨日、追体験しました」
ぼくは静かに語った。
「自分の記憶に潜って、あの日のことを完全に思い出した」
5
追体験は、予想以上に辛かった。
他人の記憶を追体験する時とは、質が違った。これはぼく自身の記憶だ。ぼくの恐怖、ぼくの絶望、ぼくの疲労。
すべてが、二重に襲ってきた。
中学二年生のぼくと、大人になったぼく。二つの視点が重なり、恐怖が増幅された。
あの廊下を、もう一度歩いた。
あの影を、もう一度見た。
あの絶望を、もう一度味わった。
「でも」ぼくは橘さんを見た。「確信しました」
「何をですか」
「あれは、現実だった」
橘さんは何も言わなかった。
「夢でも、幻覚でもなかった。ぼくは本当に、あの場所にいた」
メモ帳には、すべてが記されている。
廊下の構造。蛍光灯の色。ドアの形。影の動き。すべてを、昨日のうちに書き留めた。
「これを小説にしたい」
ぼくは言った。
「ぼくのリアリティを、読者に伝えたい」
橘さんは長い間、黙っていた。
やがて、彼女は深いため息をついた。
「風露さん」
「はい」
「新作としては、アリかもしれません」
ぼくは顔を上げた。
「でも」橘さんは続けた。「条件があります」
「条件?」
「フィクションとして書いてください。あくまで創作だと、明記してください」
ぼくは考えた。
自分の体験を、フィクションだと偽る。リアリティを追求してきたぼくが、嘘をつく。
でも。
「分かりました」
ぼくは頷いた。
「フィクションとして書きます」
橘さんは少し驚いた顔をした。
「意外とあっさり了承するんですね」
「ええ」ぼくは答えた。「だって、読者が信じるかどうかは、読者の自由ですから」
「どういうことです?」
「フィクションだと書いても、信じる人は信じる。ノンフィクションだと書いても、信じない人は信じない」
ぼくは立ち上がった。
「大切なのは、リアリティがあるかどうか。ぼくが実際に体験したことを、そのまま書く。それで十分です」
橘さんは苦笑した。
「相変わらずですね、風露さんは」
「ぼくは、自分のためだけに小説を書きますから」
窓の外は、完全に暗くなっていた。
ぼくは帰り支度を始めた。
「一つ、聞いてもいいですか」
橘さんが声をかけた。
「はい」
「あの場所に、また行けると思いますか」
ぼくは手を止めた。
「分かりません」
正直に答えた。
「でも、もし機会があったら」
「行くんですか?」
「いいえ」
ぼくは首を振った。
「二度と行きたくありません。あの恐怖は、一度で十分です」
橘さんは微笑んだ。
「それが、普通の反応ですよ」
ぼくも笑った。
「ぼくは自称・常識人ですから」
会議室を出る前に、ぼくは振り返った。
「橘さん」
「はい」
「この小説、タイトルは決めています」
「聞かせてください」
ぼくは答えた。
「『The Next Room』」
「次の部屋、ですか」
「ええ。あの場所には、必ず次の部屋がある。終わりのない、次の部屋が」
橘さんは何かを考えるように、少し黙った。
「いいタイトルですね」
「ありがとうございます」
ぼくは会議室を出た。
エレベーターで一階に降り、ビルを出る。夜の東京は、明るくて賑やかだった。
人がいる。音がある。生活がある。
ここは、あの場所じゃない。
でも、ぼくの中には、あの記憶が残っている。
無機質な廊下。白い光。黒い影。
忘れられない。忘れてはいけない。
それがぼくのリアリティだ。
駅へと歩きながら、ぼくは思った。
この小説を書くべきか。
本当に、書いていいのか。
答えは、まだ出ていない。
でも、書くだろう。
なぜなら、ぼくは作家だから。
体験したことを、書かずにはいられないから。
「作品に必要なのはリアリティ。ぼくは実際にこの目で見たものしか小説にしない」
それが、ぼくの信念だ。
たとえその記憶が、自分自身のものでも。
たとえその真実が、誰かを不安にさせるとしても。
ぼくは書く。
それが、神楽風露という作家の道だから。
夜の街を歩きながら、ぼくは次の物語を考え始めた。
The Next Room。
終わりのない部屋の物語。
それは同時に、終わりのない探求の物語でもある。
リアリティを追い求める、ぼく自身の物語。
神楽風露の追体験~リアリティを追求せよ~ Nemu° @daihuku723
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