第1話:泥だらけの希望と、一秒の女

〖免責事項〗

本作はフィクションです。

実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。

また、作中に登場する法律・科学技術・名称等は、物語上の演出が含まれています。




1.プロローグ:深海6000メートルの沈黙


南鳥島――日本の地図では、まるで「忘れられた点」のような場所。


その周囲、深海6000mの海底に、「泥」が眠っている。


視界を埋め尽くすのは、暴力的なまでに鮮やかな「青」だけだった。


絶海の孤島からさらに離れた洋上で、東京大学の海洋調査船は木の葉のように揺れていた。


甲板で、嘉門(かもん)泰浩は手すりを強く握りしめていた。潮風が、白髪混じりの無精髭を撫でる。


彼の足元には、深海6000メートルから引き上げられたばかりの「泥」が入ったバケツが置かれていた。黒く、生臭いような、鉄っぽいような匂いが周囲に漂う。


「……ただの泥遊びだ、と役人は笑ったよ」


隣に立つ、商社マンの史郎が、冷ややかな視線を海に向けていた。仕立ての良いスーツは、この場に似つかわしくない。


「先生。今回の調査で成果が出なければ、プロジェクトは凍結です。それが『上』の決定です」


「史郎くん。キミまで、これがただのゴミに見えるか?」


嘉門はバケツに手を突っ込んだ。冷たい感触。だが、その中には数億年分のプランクトンの死骸――レアアースという名の「星屑」が眠っている。


中国に資源の首根っこを掴まれ、技術立国としての誇りを失いかけている日本。

その起死回生の鍵が、この汚い泥の中にある。


「ゴミじゃない。……これは、未来だ」


嘉門の呟きは、波の音にかき消された。


誰も信じない。誰も見ようとしない。

世界を変える宝はいつだって、最も汚れた場所で、誰かに見つけられるのを待っている。


---


## 2.迷子のキャンパス


季節は遡り、4月の東京。


東大本郷キャンパスの赤門周辺は、新入生とサークル勧誘の喧騒に包まれていた。


「ヤバいどーしよ……完全に迷った」


大学院修士課程からこの大学に入った優斗(ゆうと)は、脂汗を流していた。

スマホの充電は切れかけ、広すぎるキャンパスで方向感覚を失っていた……というか方向感覚なんか最初から死んでいる。


目指す「嘉門研究室」は、工学部の端の端にあるらしいが、スマホアプリで地図を見てもさっぱりわからない。


遅刻すれば、初日から終わる。


焦る優斗の視界に、一人の女性が飛び込んできた。


人混みの中で、そこだけ空気が澄んで見えた。

ゆるく巻かれた髪、ふんわりスカートがカワイイ、まるでモデルみたいな女子学生が、レンガ造りの校舎の前に立っていた。


一瞬、優斗と目が合った。


周囲の男子学生たちが遠巻きにチラチラと見ている中、窓際の席でヘッドホンをした留学生だけが、微動だにせず黙々とラーメンをすすっていた。


『すげえ美人……』

『声かけらんねえよ、ちょっと綺麗すぎじゃね?……』


彼女はまるで氷の彫刻のように、周囲を拒絶するオーラを放っていた。


だが、優斗に躊躇している時間はなかった。


(目に飛び込んできちゃったものは仕方ない。今はそれどころじゃない! 道さえ分かれば!)


優斗は人波をかき分け、彼女の前に飛び出した。


「あ、あの! すみません!」


彼女――かれんが、ゆっくりと振り返る。


その視線は鋭く、冷たかった。

「またナンパ?」と言わんばかりの警戒心。氷点下の視線が優斗を射抜く。


――沈黙は、たったの1秒。


かれんの瞳が、優斗の顔を瞬間的にスキャンする。


汗だくの額。必死に引きつった笑顔。

そして、そこには微塵も「下心」がなかった。あるのは純粋な「困惑」だけ。


ふわり、と。


氷が溶けるように、彼女の顔に花が咲いた。


「……どうされました?」


鈴が転がるような優しい声だった。優斗は虚を突かれてどもる。


「え、あ、か、嘉門研に行きたくて! 迷っちゃって……!」


「あら、すごい偶然。私もそこへ行くの。よかったら一緒に行きましょう」


かれんが歩き出そうとした瞬間、横からブランド物のバッグを持った男が割り込んできた。


「ねえ彼女! 俺らとお茶しない? テニサーの新歓なんだけどさ!」


かれんは足を止めず、男の方を見もせずに言い放った。


「急いでるんで」


声音の温度が、瞬時に氷点下に戻る。男はたじろぎ、言葉を失う。


「行きましょ。先生、遅刻するとうるさいから」


優斗にだけ向けられた笑顔。


(なんだこの人……。俺には女神で、あいつには氷の女王だ。……すげえ)


「私、嘉門研の“かれん”。あなたは?」


「優斗です。千葉大から来ました」


「千葉大! いいじゃん!」


かれんは嬉しそうに言った。


「うち、今すごい人材不足なの。泥――じゃなくて、研究する人」


「泥……?」


優斗はその単語を口の中で転がした。


人生のどこにも交差しなかったはずの言葉。

泥? 研究?


かれんは、いたずらっぽく笑った。


「今日からあなた、マッドメンね」


---


## 3.吹き溜まりの天才たち


嘉門研究室は、予想以上に「澱(よど)んで」いた。


部屋の隅には得体の知れない機械のパーツが山積みになり、油と埃の匂いが充満している。


「ようこそ、泥沼へ」


嘉門教授がニヤリと笑った。


部屋には、先客たちがいた。


ホワイトボードに向かい、ゆっくりと数式を書きなぐっている男。

ハーフパンツにサンダル……長袖Tシャツの袖口が汚い。泥が付着しているようだ。

あんまり整えられてない髭面の、文哉(ふみや)。


「文哉くん、また泥つけてる」


かれんが言う。


「知らない……」


文哉はぶっきらぼうに言って、視線をホワイトボードへ戻す。


ヘッドホンを深々とかぶり、外部の音を完全に遮断してパソコンを見つめる留学生、超(チャオ)。

いつもヘッドホンしてて、あんまり喋らない。……でも、研究ノートはやたら丁寧にとる。


もう一人、工具箱を抱えた女子が、やや遅れて入ってきた。


小柄な体つきでショートボブ。ラフな服装。


「いずみちゃん!」


かれんが声をかけた。


「新入りです」


いずみは顔を上げた。無愛想な目つき。


「……ふうん、よろしくね」


「愛想ないでしょ」


かれんが小声で言った。


「でも腕は超一流。溶接とか電気工事とか、何でもできる」


「えっ、東大生なのに!? てゆうか女子なのに!?」


「実家が鉄くず屋さんなの。スクラップ。子供の頃から手伝わされてたんだって」


いずみの背中がわずかに強張ったのを、優斗は見逃さなかった。


その時――


「かれん、あれがまたないんだけど、そのせいで、遅れたじゃない……」


かれんが、あっ!と声をあげて華奢なバッグから溶接面を取り出しながら……


……溶接面!?


「ごめんなさい、出し放しでしたのでつい……」


黒い無骨な面の表面が、キラキラのラインストーンとよくわからんキャラクタもののシールでゴテゴテにデコレーションされていたのだ。

額にはキラキラと輝く『IZUMI』の文字。


「……うっ、またかよ、しかもキラキラが増えてる」


いずみが不機嫌そうに睨む。


「……賑やかで結構だが」


文哉がペンを置き、冷めた目で一同を見回した。


「先生。今年のメンバーはこれですか?

素人に、ギャルに、鉄くず屋。……ここは動物園ですか?」


「なんだと? この頭でっかちが」


「まあまあ……」


優斗が慌てて仲裁に入ろうとするが、文哉は鼻で笑った。


「俺は忙しいんです。父への報告義務がある。

君たちのような『余り物』と遊んでいる暇はない」


空気は最悪だった。


誰も、この研究室に希望を持っていない。


文哉はプレッシャーに押しつぶされそうで、いずみは貧乏へのコンプレックスを抱え、チャオは心を閉ざし、優斗は自分の無力さに怯えている。


彼らはまさに、社会から見捨てられた「泥」のような存在だった。


---


## 4.温泉のひらめき


数日後、最悪の知らせが届く。


「予算凍結?」


嘉門の声が裏返った。


大学側からの通告だった。

成果の出ないレアアース泥プロジェクトへの資金援助を打ち切るというのだ。


「泥を吸い上げる技術がない限り、それはただのゴミです」


事務方の言葉は正論だった。

深海6000メートルから、大量の泥を引き上げるポンプなど存在しない。


「……終わりか」


研究室に沈黙が落ちる。


だが、嘉門は立ち上がった。


「終わってたまるか。……おい、全員行くぞ!」


「は? どこへ?」


「温泉だ!」


強引に連れ出されたのは、大学近くの銭湯だった。


男湯には嘉門、優斗、文哉、チャオ。

女湯にはかれんといずみ。


「いいか、お前ら。泥はゴミじゃない。可能性の塊だ」


湯船に浸かりながら嘉門は熱弁を振るうが、学生たちの目は死んでいる。


「精神論じゃ泥は上がりませんよ」


文哉が吐き捨てる。


「あの、先生。俺、正直言って、この研究のこと全然わかんないんですけど」


「おう」


「泥とか、レアアースとか……何がすごいのか、あと何に困ってるか、ピンとこなくて」


嘉門は笑った。


「だろうな。専門家じゃなきゃわからん。だから説明する」


嘉門は、さっきまでいた子供の忘れ物だろうか。プカプカ浮いていた水鳥のおもちゃを手に取った。


「いいか、深海六千メートルに泥がある。持ち上げたい。だが重い。

普通にポンプで吸い上げようとすると、パイプが詰まる。水圧で機械が壊れる」


「……」


「実は、物理学的にストローや掃除機で水を吸い上げられる高さは、約10メートルが限界なんだ(大気圧の関係)。

数千メートル上から吸うのは、物理的に不可能……」


優斗は黙って聞いていた。


聞きながら、退屈まぎれに水鳥のおもちゃを手桶で沈めて遊んでいた。


おもちゃを底に押し込み、手を離す。


ボコッ、という泡と共に、水鳥が勢いよく水面に飛び出した。


嘉門の目が、釘付けになった。


「……キミ。もう一回やってみろ」


「え? こうですか?」


優斗が手桶を逆さまにして、お湯の中に空気を押し込む。

その空気(泡)が、お湯を巻き込んで浮き上がってくる。


「……これだ」


嘉門が目を見開いた。


「モーターで吸い上げるんじゃない。

パイプに空気を送り込み、泡の浮力で泥を『軽く』して浮上させるんだ!」


「泥に浮き輪を、つけてやりゃいいのか!」


嘉門がバッと立ち上がる(全裸で)。


「エアリフト方式だ!

これなら深海6000メートルでも故障しない!

ゴミだと思っていた『空気(泡)』が、泥を宝に変えるんだ!」


その熱量は、冷めきっていた学生たちに伝播した。


文哉が猛然と語りだす。


「深海の強烈な水圧(指先に乗用車が乗るレベル)の中に、電気で動くモーターやポンプ沈めると、確かにすぐ故障する。

だけど、エアリフトなら、海の中にあるのは『ただのパイプ』だけ。

故障する機械部分が海中にないので、トラブルが起きにくい……!」


壁の向こうから、いずみの声が聞こえた。


「パイプなら、うちの親父の工場に廃材があるよ。繋げりゃ実験機くらい作れる」


嘉門がニカっと笑った。


「決まりだ。俺たち『マッドメン(泥の男たち)』が、世界をひっくり返すぞ!」


---


## 5.エピローグ:監視者の影


その夜、研究室は大騒ぎだった。


廃材と計算式と、それぞれの小さな希望を持ち寄って、プロジェクトが動き出した。


だが、その様子を廊下の陰から見つめる男がいた。


商社マン、史郎だ。


彼はスマホで誰かと通話していた。


「ええ。嘉門先生は諦めていません。……新しい採掘法を思いついたようです」


史郎の目は、研究室の温かい光を見つめながらも、凍りつくように冷たかった。


脳裏をよぎるのは、かつて自分が信じ、そして裏切られた「アパレル工場」の記憶。

盗まれた型紙。横流しされた生地。


「はい、恐らく……ハイエナは来ます。

だから、先に“入口”を固めましょう。

部局の窓口と線を引きます。通知は、監査用にだけ——あと俺にも飛ぶように」


史郎はスマホをしまった。


「ここから先は、“守り方”も研究になる」


史郎は電話を切ると、ポケットから一枚のカードキーを取り出した。


そこには――


『Security Clearance Level: Top Secret』


「先生、学生ごっこはここまでだ。……ここから先は、国を賭けた戦争ですよ」


史郎は踵を返し、闇の中へと消えていった。


誰もいない廊下に、チャオのヘッドホンから漏れる微かなクラシックの旋律だけが残響していた。


* * *




やさしい用語解説

嘉門先生と優斗の「マッドメン・ラボ」




Theme 01:なぜ中国は強いのか?


優斗

「先生、よくニュースで『中国がレアアースを独占してる』って聞きますけど、具体的にどれくらいヤバいんですか?」


嘉門

「『独占』というのは大袈裟じゃないぞ。世界のレアアース生産シェアの推移を見れば一目瞭然だ」


優斗

「2010年に何があったんですか?」


嘉門

「尖閣諸島漁船衝突事件だ。あの時、中国は日本に対する事実上の報復措置として、レアアースの輸出を止めた。

(通関が滞り、事実上ストップになった)」


嘉門

「その結果、価格はどうなったと思う?」


〖レアアース価格指数の変動(イメージ)〗

- 事件前(2010年初頭):基準値 100

- 事件後(2011年夏):最高値 1,000以上(約10倍に急騰)


嘉門

「特に、EV(電気自動車)のモーターに不可欠な『ジスプロシウム』などは、一時期急騰した。

日本のメーカーは悲鳴を上げたよ。『素材が入ってこないから、車が作れない!』とな」


優斗

「たった一つの素材を止められただけで、ト●タやホ●ダが止まっちゃうってことですか……」


嘉門

「そうだ。これを

『エコノミック・ステイトクラフト(経済的手段による政治工作)』

いわゆる『資源の武器化』と呼ぶ」


嘉門

「史郎があんなにピリピリしているのは、この時の恐怖を知っているからだ。

『他国に生殺与奪の権を握られている状態』から脱却するには、日本独自の資源を持つしかないんだよ」


---


### Theme 02:深海6000メートルとは? ~指先に軽自動車~


優斗

「あと、エアリフトの話で『ポンプじゃ無理』って言ってましたけど、深海の圧力ってそんなに凄いんですか?」


嘉門

「想像してみろ。水深10メートル潜るごとに、気圧(圧力)は『1気圧』ずつ増えていく」


優斗

「……じゃあ、水深6000メートルだと……?」


嘉門

「ざっくり600気圧だ。

指先に換算すると、約600キロの荷重がかかるようなものだ」


優斗

「600キロ!? 指先に軽自動車が乗ってるようなもんじゃないですか!」


嘉門

「その通りだ。普通のモーターや電子回路は、この圧力で一瞬でペシャンコになるか、あるいは浸水してショートする」


嘉門

「だから『海中に精密機械を置かない』という、エアリフト方式が最強なんだ」


嘉門

「エアリフトなら、海の中にあるのは『ただのパイプ』だけ。

パイプは外からの水圧と同じ圧力で内側からも押し返せば、潰れない」


優斗

「なるほど……!

『壊れるなら、壊れるものを海に入れなきゃいい』っていう逆転の発想なんですね!」


嘉門

「そういうことだ。さあ、次は実際に実験だ。

優斗、お前も泥まみれになってもらうぞ!」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る