水滴の告白、重なる体温

淡綴(あわつづり)

水滴の告白、重なる体温

 深夜二時。


 世界から音が消え、ただ冷気だけが支配権を握る時間。


 暖房を切って数時間が経った自室の空気は、肺の奥まで白く染めてしまいそうなほどに研ぎ澄まされていた。


 私はベッドを抜け出し、音を立てないように窓際へと歩み寄る。


 カーテンを少しだけ開けると、そこには外の世界との決定的な断絶があった。


 厚いガラスは室内外の温度差に耐えかねて、真っ白な結露の膜を纏っている。それはまるで、私の心の中に降り積もった、誰にも言えない秘密の形そのもののようだった。


「……寒い」


 小さく零れた吐息が、ガラスの白さをさらに深く上書きする。


 私は自分の右手を見つめた。


 かじかんだ指先は感覚を失いかけ、爪の付け根が微かに紫がかっている。この手で彼女に触れたいと願うたびに、私は自分の指を凍らせ、その熱を殺し続けてきた。


 友人として。あるいは、同じ屋根の下で暮らす家族のような存在として。


 今のこの穏やかな「聖域」を守るためには、私の指先は、常に氷のように冷えていなければならなかった。


 私は、吸い寄せられるように、人差し指をガラスの膜へと伸ばした。


 指先が触れた瞬間、吸い付くような冷たさが指の腹から心臓へと駆け抜ける。


 あまりの冷たさに、思考が一瞬だけ白く弾けた。


 ――けれど、指を離すことはできなかった。


 私は、ゆっくりと指を滑らせた。


 キュッ、という、微かな摩擦音が静寂に響く。


 指がなぞった場所から白い膜が剥がれ、一筋の透明な道が拓かれていく。その向こう側には、冷たい街灯の光に照らされた、夜の闇が透けて見えた。


『す』


 一画を描くたびに、指先の熱がガラスに奪われていく。


 代わりに入り込んでくるのは、皮膚を刺すような鋭い痛み。けれどその痛みが、私にとっては唯一、彼女への想いを形にするための対価のように思えた。


『き』


 二文字目を書き終えたとき、私の指先はもう感覚を失っていた。


 白いキャンバスに浮かび上がった、二文字だけの拙い告白。


 誰も見ていない。誰も読み返さない。ただ一秒だけ、世界に対して私が「私」であることを許すための、水滴の儀式。


 やがて、重力に逆らえなくなった結露が、「す」の書き始めからゆっくりと流れ落ち始めた。


 それはまるで、私の代わりにガラスが涙を流しているようだった。 文字は水滴を巻き込み、輪郭を失い、ドロドロと崩れていく。


 せっかく透明になった視界も、溢れ出した水の筋でまた濁り、何も見えなくなっていく。


(……消えちゃうんだ。いつだって、こうやって)


 胸の奥に溜まっていた行き場のない熱が、冷え切った指先を伝って、外の闇へと逃げていくような感覚。


 私は諦めに似た吐息をつき、その場から立ち去ろうとした。


 その時だった。


「…………っ」


 背後から、不意に柔らかな重みが私を包み込んだ。


 驚きで息が止まる。


 私の背中に押し当てられた胸の鼓動。そして、私の脇をすり抜けて伸びてきた、私よりも少しだけ大きくて、驚くほど温かい「手」。


「……もう、何してるの。こんなところで」


 耳元で、まだ眠気を孕んだ、けれど何よりも愛おしい彼女の声が響いた。


 彼女の掌が、私の凍りついた右手を、包み込むように重ねる。


「手が、氷みたいだよ」


 彼女の体温が、私の皮膚を通じて流れ込んでくる。


 あまりの熱量に、視界が急激に滲んだ。


 彼女は、私の手の甲を優しくさすりながら、そのまま私の人差し指を、自分自身の指先で導くようにしてガラスへと向けた。


 そこには、水滴に紛れて消えかかっていた、私の「すき」の残像があった。


 彼女は、私の指の上に自分の指を重ね、崩れかけたその文字の軌跡を、もう一度、ゆっくりとなぞり始めた。


 冷たいガラスの上で、二人の指先が重なり、一つになる。


 彼女の指が通った場所は、今度は水滴に流されることもなく、くっきりとした「線」になって、世界を鮮やかに切り抜いていった。


「す」「き」


 書き終えた指をそのままに、彼女は私の耳元に唇を寄せた。


 微かな吐息が、凍えていた私の耳を熱く焦がす。


「……私も。……ずっと、知ってたよ」


 囁かれた言葉は、結露の向こう側から差し込む街灯の光よりも、ずっと強く、私の世界を照らし出した。


 彼女の手が、私の指先を離れ、今度は私の掌全体を、指を絡ませるようにして強く握りしめた。


 冷たかったはずの私の指が、彼女の熱に溶かされて、次第に温かさを取り戻していく。


 ガラスの文字は、また新しい水滴を呼び寄せ、ゆっくりと消えていく。


 けれど、もう怖くはなかった。


 窓の向こうの闇がどんなに深くても。


 この「手」から伝わってくる熱だけは、もう二度と、私を一人にはさせない。


 私は、重ねられた手に力を込め、彼女の温もりを確かめるように握り返した。


 冬の深夜。


 真っ白に濁った境界線の前で、私たちはようやく、同じ温度の言葉を共有した。


「……ありがとう」


 私は小さく呟き、彼女の腕の中で、ようやく深く、本当の呼吸をした。


 窓に書いた文字は消えても、手のひらに残ったこの熱だけが、私たちの新しい季節の始まりを告げていた。

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水滴の告白、重なる体温 淡綴(あわつづり) @muniyu

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