空と風
ヤネウラ
空と風
その学校には、やべー番長がいるらしい、ともっぱらの噂だった。
「おい、ショウ、俺カレーパンな」
「こっちはサンド!」
「おら早く走れよ、昨日のこと忘れたのか?また間に合わないマヌケかましたら……」
「わ、わ、わかってるっ……」
嘲笑。嘲笑。嘲笑。……大爆笑。痛いほどの声に躓きそうになりながら、チャイムの終わりと共にかけ出す。それでも、またどうせ間に合わないことくらいわかってるのに、またボコボコにされるのに。それでも奴らの「玩具」は、望まれるように、ネジを巻かれて、あるいは少し地面に付けたまま後ろに引かれたように、走り出す。
「こう」なってしまってから、一体どれくらい経ってしまったのか。俺は完全に、高校デビューを失敗した。
底辺の高校にもやっとひっかかるかどうかという学力で俺がなんとか決められた行先は、不良校で有名な冷抄高校。通称はレイコー。深い緑色の学ランをまともに着てるやつはほぼいない。チャイムを守るようなやつも。それから……喧嘩の出来ない俺みたいな奴も。
その全てを数奇にもクリアしてしまった「異端」の俺は、いまやパシリ、サンドバッグ、脅されてはヒヤヒヤしながら、感情を殺して見世物になる……。
『高校は離れてしまうけど、ショウならきっと大丈夫だから。頑張ろうね』
入学式の日、初めて双子と別れた時に交わした言葉。
見分けなんてほとんどつかないのに、頭の出来は悲しいくらい違った俺たちは、初めて自分たちの足で踏み出したのだ。
……それを俺は、盛大に踏み外した。
食堂。足だけは早い自信があっても、終わりのチャイムが鳴る前から並ばれてちゃ、どうしようもない。人だかりと商品の残りのラインナップを見て、わかりきっていたことにため息をつく。
クラスの皆様方の、もっと言えば隣のクラスだとか、先輩だとか、なんかもうそういう人たちのご注文にはとうてい応えられない売れ残りたちに、ついに……その日の俺は、体が動かなくなった。
邪魔だ、とその間も色んなやつが俺にぶつかりながら、そんな事気にせずに食堂戦争へ挑んでいく。男子校の食堂は戦争だ。
「……もう、終わりだ……」
一体、今日は何をされるのだろう。ついにじわりと目頭が熱くなり、脱がされるのか、殴られるのか。皮肉なことに、嫌がらせの選択肢は無限大だ。ふらふらと、それでも最後尾に並ぼうと、いやそれより追い抜かして早く会計に名乗り出ようと、しかし足取りは重く。
……どん、とぶつかった。激しい衝撃と、尋常ではない音がして、俺は反射的に大きく謝る。
「すみません、すみません……!」
……と、しばらく頭を下げていた俺は、食堂の異常に気づいた。
俺の声以外、なにも聞こえなくなっていたのだ。さっきまであんなに、戦争が起きていた食堂は?おそるおそる、ゆっくりと頭をあげ、周りを見回すと……俺と、ぶつかったその人、その周りの人間が皆、こちらを見つめている。
……みんな、息を飲んでいる。俺もその人を見上げて……言葉を、無くした。
「あ……」
すみません、という言葉だけでは足りない。その人の名前と姿を知らないほど俺も馬鹿ではなかった。
制服を大幅に着崩して、下に着たパーカーのフードは深く被り、無造作に伸びきったままのくせっ毛の間からは片目しか伺えない。……両手には、尋常じゃないデカい袋。食堂のパンやらなんやらが、死ぬほど詰まっている。
その人は俺の顔を確認してから、一度、大きく欠伸を吐いた。
俺はもう板に着いた下っ端しぐさで、超速で頭を再度下げた。
「あの!俺が!……持ちます!」
「……いや、本当にもういいんだけど」
「いえ!いえ!いいんです……」
「……重いだろ」
「こ、これ、どこまで……」
「屋上。だから、もうちょっとだな」
「え?屋上は施錠してませんでしたっけ」
必死に重すぎる食料を運びながら階段を登っていると、その人は施錠してある錠を、両手で外した。
……力づくで。
「……ほら、これで。」
「あは、は……」
これは殴られたら痛いな、と思いながら、袋を破らないように必死に、俺も屋上へと向かった。
「……助かった」
「い、いえ、俺、ぶつかっちゃったし、その……」
「ぶつかった?ああ……怪我、したか」
「いえとんでもない!むしろ、番長様、いや、その、先輩が……」
「……俺は丈夫だから、大丈夫だ」
「そ、それは……よかった」
食料袋を渡すと、その人……もとい番長は、少し口元を緩めたように見えた。同時に、番長の腹から音が鳴る。
「お前、昼飯は?」
「え、あ……」
俺はそこで、様々な人々のパシリも自分の食事も買い忘れたことに気がついた。番長は手ぶらの俺を見ながら首を傾げた。
「なんかお前、顔色悪いぞ」
「い、いや……はは……その……」
「……もしかして、このメモ、お前のか」
「え」
言われて、急いで上着のポケットを探ったが、そういえばメモを手に持ったままだったので、番長の食料袋に入っていたらしい。番長はなんだか眠そうなようすのまま、それを見つめる。
「これ、お前が食いたいやつか?」
「いや……ええと……友達のための……メモ、です……あは……」
「そうか」
メモを返して欲しい、と言うか迷いながら、もっといえばいつこの場を離れていいのかとか、色んなことを悩みながら、とりあえず番長と目を合わせないように傍に控えていると、番長は、ん、と……3つほど小分けにした袋を俺に差し出した。
「……は?」
「いや。お前らが食いたいもん俺も買ってたから」
「そ、そ、そんな。番長……先輩が食べたかったんでしょ!?」
「俺がいっぱい買っちゃったんだし、食いたいならいつでも買えるから。お前、それ持って帰らないとヤバいんだろ」
「え……」
思わず、今度こそはっきりと番長の顔をしっかりと見た。うっすら見える片方の目からは、毅然とした強さと……見透かされていることが、わかる。
「ただ、家族はいるんだろ。顔は殴らせるな。心配かけるから」
「……え、っと」
「運んでくれて、ありがとう。それじゃ。行ってやれよ、パシリたちに」
「……で、では……失礼、します……」
再度頭を下げる時、そっと相手の名札を見た。
レイコーの番長。会ったら生きては帰されない。喧嘩は負け無し。目が合ったら終わり。そんな噂ばっかり聞いていて、俺は何があっても「番長に会わない、番長よりマシだ」と思って過ごしてきた。
でも……。
「……あの……キノシタ、先輩」
「どうかしたか」
「……また……」
また、ここへ来ていいですか。
既に屋上で寝転びながらホットドックを頬張り始めた先輩は、少しだけこちらを見つめながら、言う。
「シドウ。名字で呼ばれると家に怒られるから、そっちで頼む」
「シドウ、先輩……」
俺はもう一度屋上に礼をしてから、もらった袋を大事に持って帰った。
結果として、パシリたちは今日、俺をどうのこうのする理由を失ったことになる。数量限定のサンドイッチですら、シドウ先輩が渡してくれていたからだ。俺を殴る理由がひとつ減って、連中は不服そうだったが、俺はふう、と教室で一息だけつくことができた。
そっと、頬を触る。ざらざらとしたガーゼの感触。昨日、家で双子のコウが貼ってくれたガーゼだ。
『階段から落ちるなんて、疲れてるんじゃない?ねえ、ちゃんと自分を大事にしてね』
……よく出来た片割れは、こんな現実なんか知らないだろう。
『顔は殴らせるな。心配かけるから。』
シドウ先輩の言葉を思い出して……そっと、ガーゼを優しく手でなぞった。
「今日も来たのか。何が食いたいんだ」
「ああ、いや……今日はないんですよ、パシリ。そーとー昨日の完璧な注文が来たこと、気に入らなかったみたいで?」
「食いたいものが食えたのに不満なのか?リンチやパシリにしか頭が行かないやつのことはわからないな」
「はは……俺もそう思いますよ……」
それはそうとして俺には他のパシリが課せられているのだが、その前に昼休み、そっと開いている屋上にやってきたのだ。
シドウ先輩は相変わらず、山のような袋の中のものをどんどん食っていく。ペースは普通に、しかし量は異常だ。
「そいや、名前」
「へ」
俺もひとつ、シドウ先輩が分けてくれたメロンパンを開けたところだった。
「お前の名前、聞いてなかったから」
……番長、に名前を聞かれる、これはプラスマイナスどっちのイベントなんだ。
わからないが、断る訳にもいかず、しばらくもじもじしてから、答えた。
「……フタバダショウ、です……」
「ショウか」
「は、はい……」
「なら、ショウ、一個頼みたいことがあるんだけど」
「は、はい」
ヒヤ、と冷たいものが背筋を這った。なんだ?パシリか、サンドバッグか、それとも。そう構えていると、シドウ先輩は食べていたものと食べ終わったものをまとめている袋を傍らに置いて、陰になるところで横になって、更にフードを深く被った。
「俺、寝たらなかなか起きられなくて。チャイム鳴る前に、起こしてくれるか」
「……は?」
「授業。今年こそ卒業したいから」
その言葉は、こんな荒れ果てたレイコーの生徒には、特に__番長には、相応しくないものだった。だけど、俺は……そんなシドウ先輩のことが、この学校で恐れられているこの人のことが……もっと知りたい、と、思った。
「……わかりました。何分前に起こしますか」
「十分」
それから俺は、すうすうと寝息をたてるこの学校の番長と時間を過ごした。
この学校で一番恐れられている人の隣は、この学校で一番穏やかに時間が進んで行った。
それから俺は、シドウ先輩の補佐役になった。正確には、ほとんど目覚ましアラーム代わりだけど、シドウ先輩は俺をそう誘うと「俺と一緒にいる時間が長くなれば、お前は悲惨な目に遭いづらくなるはずだ」と言った。いいものか悪いものかわからないまま、番長の提案を拒否できず、俺はその通りにした。
実際、効果はてきめんだった。あれだけ辛かった毎日が嘘かのように、「番長の隣」にいる奴に、誰も手を出そうとはしなくなった。代わりに避けられるようになっていたが、まあ、毎日殴られるよりも、一言も誰とも話さない一日を過ごしていく方が気が楽だった。
「シドウ先輩、起きてください!寝過ごしちゃいます、この前も数学、行かなかったでしょ!」
そんなわけで、すっかりシドウ先輩の補佐となった俺は、先輩が学校に来てからの生活をサポートした。ただし、シドウ先輩が口を酸っぱくして言っていた条件は「俺もちゃんと単位をとること」で、一緒に進級を__留年しているらしいシドウ先輩は卒業することだが__目指していた。
「ああ、そうだな……えっと……教科書……」
「ここにありますよ。まったく、先輩、寝過ごすならどこか教室にいたほうがいいんじゃないんですか。どうして休み時間のたびに屋上にいるんですか」
「……空が見えるから」
ほら、今日は雲ひとつない晴れ空だ、と言いながら、シドウ先輩は大きく伸びをした。
俺はシドウ先輩を送り届けると、自分も次の授業の用意をしに行った。その繰り返し。
相変わらず教室で真面目に授業を受ける奴なんかほんのわずかで、私語だのなんだので授業がちゃんと聞こえる訳でもない。教師たちは諦めているのか、こちらにはまったく興味もないように、授業を進めていく。
「……シドウ先輩の噂って、本当なんですか?」
「どれ」
「えっと……全部?」
毎日穏やかに過ごしているシドウ先輩を見て、俺はある日、先輩にそう聞いてみた。空は夕焼け、起きたばかりで寝ぼけまなこの先輩は、体をコキコキ鳴らしながら、息をつく。
「だいたい本当」
「……で、でも!一人でチームを壊滅させたとか、入学して一日で全員のして番長になったとか……信じられないです、俺。だって先輩、この学校の誰よりも穏やかじゃないですか」
「……穏やか?俺が?」
「そうですよ!」
そう言って、先輩の方を見て……目が、合った。__あまり笑わない先輩が、笑っていた。俺は思わず、それ以上、言葉が出なくなる。シドウ先輩は帰り支度をしながら、少し楽しそうに、俺を振り返った。
「タイマンなら、いつでも受けるから。俺、けっこう喧嘩好きだし」
はあ、と答えるのが精一杯だったけれど、結局家に帰っても、あの先輩が喧嘩をするところなんて、まったく想像もつかなかった。
それから俺は、それとなくシドウ先輩の情報を集めるようになった。その頃には俺はいじめられなくなり、特に先輩たちからは「シドウに認められている」ということで一目置かれるようになっていた。本当に言われている武勇伝が本当なのか、シドウ先輩は喧嘩なんかするのか、もっといえば悪いことなんかしてるのか、不良なのか……たまに話せる人に会ったら、聞いてみる。そんな繰り返しをしてみたが、ある日聞いた先輩は、俺のそんな質問を聞いて、笑った。
「お前、なんでシドウに気に入られたんだ?」
「え、いや……たまたま、俺が先輩にぶつかって、パシリやって、そしたら俺がいじめられてるのに気づいて……うーん。情け、なんでしょうか」
「へえ。俺は違うと思うね。あいつにそんなのない」
「違う?なら、俺はなんでシドウ先輩に目かけてもらえてるんでしょう」
「……目じゃねえの」
「目?」
廊下の分かれ道で、先輩は片手をあげ、俺と別れる。別れ際に、俺の方を振り返って、小さく頷いて、言った。
「お前、あいつが好きそうな目してるもんな」
夜、風呂に入る前にじっと鏡と睨み合っていると、双子のコウが割り込んできて、風呂場に洗濯物を出しに来た。コウは部活に入ったらしく、毎日山のように洗濯物が溜まる。俺は部活には入らなかったが、結局シドウ先輩の付き添いをしてたら部活をしているような時間になるから、あまり変わりないと答えていた。
「ショウ、最近怪我も減ってよかった。どうしたの、鏡じっと見て」
「いや……なんか、目……俺ってどんな目してる?」
「どんな目?俺と変わらない目をしてると思うよ。瓜二つだし」
言いながらケラケラと笑うコウに、俺も同じように笑って返した。俺はそのまま風呂の支度をし始めたが、コウは去り際、「あー、でも」と振り返った。
「ショウってさ、意外と目、ギラついてるって感じするかもな」
「……なんだ、それ」
「いや、わかんないけどね」
無責任な言葉を残しながら去った片割れを見送りながら、俺はもう一度、鏡を見つめてみた。
何の変哲もない俺が、映っているのに変わりはなかった。
ある日、いつも通りに登校した俺を待っていたのは、もう忘れたくらい久しい地獄だった。俺が教室に入ったのを見計らって、仲が良いとは言い難いクラスメイトたちは扉の鍵を閉めた。そのまま、文字通りリンチが始まった。
因縁はこうだ。番長にわざと気に入られるような真似しやがって気に食わない、喧嘩も出来ねえくせに、と。しまいには、お前をボコボコにすれば番長もキレるか、いやあんなやつが強いわけないもんな、などとシドウ先輩を侮辱して。俺は殴られながらも、ある種諦めが脳裏に浮かび、やり返すことはせず、ただ黙って時間を凌いだ。
地獄のような時が終わり、教室の鍵を開けてホームルームへ来た教師も、こんな学校で喧嘩なんて珍しくもないから、俺が特別扱いされるようなことはなかった。痛みに蹲りながらぼんやりと、俺は朝、シドウ先輩を起こしに行けなかったな、とだけ思っていた。
「……えっと。食べるか」
「……いえ」
昼休みにやっと体を起こし、屋上へ行くと、シドウ先輩は食いかけのカツサンドを差し出そうとした。俺はそれを手で制して、精一杯笑って見せた。
「慣れてるんで」
「……そうか」
シドウ先輩はあまり喋らない人だった。その日俺はしばらくの間、俺がお喋りだからいつも屋上が賑やかだったのだと気づいた。見てくれからもう「やられた」ことが丸わかりな俺に、シドウ先輩が大丈夫か、とか、そういう言葉をかけることはなかった。
昼休み途中から、雨が降ってきた。俺たちは気持ちばかりの屋根の下に場所を移動して、また黙ってその雨を見ていた。
「……あ、あの」
「どうした」
「……情けなくて、すみません。俺があなたに目かけてもらってるの、みんな知ってるのに。俺が不甲斐ないと、あなたの顔を汚してしまうのに……殴られっぱなしで、俺、やり返すことも……」
ぽつぽつと紡ぐ言葉を、シドウ先輩はこっちは見ず、しかしいつものように昼寝することなく、じっと聞いていた。すみません、と、それしか紡げる言葉が無くなった頃、俺の目からぽたぽたと涙が溢れ始めていた。
……情けない。そう呟いた頃、そっと先輩が、俺の肩を、背を……撫でた。
堰を切ったように、それから俺は泣き続けた。とんでもない学校デビューをしてもずっと泣かなかったのに。授業開始のチャイムが鳴っても、先輩は動く気配を見せなかった。
その日はそのまま、二人で一日雨の中、黙ってサボって過ごした。
それからリンチは続いたが、翌日からは俺はシドウ先輩のサポートに復帰した。シドウ先輩は何を言うことも無く、いつも通り俺に起こされては授業へ行った。身体中ボコボコでも、制服がボロボロになってても、シドウ先輩が言うのはただ一つ、「顔だけは家族に心配をかける」だけだった。俺は最初のうち、シドウ先輩がどこかでやり返してくれるとか、そんなことを期待していたが、そんなことはまるでなかった。その事実がより、俺を諦めへと導いた。
顔に傷を作らない術を得てしばらくしたある日、俺の背を蹴り飛ばしながら、クラスメイトの一人が言った。
「番長なんてのも大したことねえよな。お気に入りがボコられても、俺らに文句のひとつもつけに来ねえ。お前なんざ所詮、その程度ってこったな」
周りも次々に、今まで手を出すことを控えていたことが馬鹿らしい、番長は腰抜けだ、とまで言い出した。
「番長も俺らでのしちまうか。呼び出そうぜ、今日」
一対一と嘘をついて呼び出して、集団で襲う。そんな計画を聞いて、俺は自由になるや否や慌てて屋上へ向かった。
奴らの計画を一生懸命説明しても、シドウ先輩は聞く耳を持たなかった。
「だからその手紙、先輩をおびき出してボコボコにするつもりなんです!行かないでください」
「でも、ちゃんとほら、話し合いがしたいって書いてるだろ」
「だ、だから……」
「……そろそろ時間だし、お前は帰れ。それじゃ」
「あ、あー……」
欠伸をしながら奴らからの見え見えの罠である手紙を手に持ち、シドウ先輩は呼び出し場所の体育倉庫へと向かっていった。馬鹿力のシドウ先輩を廊下に留めておくだけで俺は力を使い果たし、へなへなと三年生の教室前に座り込み、後ろ姿を見送っていた。
いくら喧嘩が強いとしても、一クラス分の不良相手なんて誰だとしても分が悪い。それも、俺はここ数ヶ月シドウ先輩のそばにいたが、一回もあの人は喧嘩なんかしなかった。穏やかなシドウ先輩が、悪意を持った奴らに蹂躙される、そんな映像が鮮明に脳裏を過ぎって、俺は吐きそうになっていた。と、近づいてきた人影は、いつかのあの先輩だった。
「よお、番長のお使いは泣き虫らしいな」
「あ、えっと……そんなことより、大変なんです!」
もう誰でもいい。明日俺が殺されたっていい。ばっと飛びつくと、名前も知らない先輩は驚いた顔をしながら、俺をじっと見つめた。
「シドウ先輩が、はめられて!止められなかったんです。このままじゃ、大変なことに……先輩、シドウ先輩を助けに行ってください!お願いします……!」
「……へえ……どこに?」
「た、体育倉庫……」
「ほーん……で、お前は?」
「え」
先輩は唐突に教室に向けて手を振り、大声で「シドウが一年に呼び出されたってよ!体育倉庫!おもしれーもんが見れるぞ!」と俺の期待とは違う煽りをし、教室からは人が雪崩のようにシドウ先輩を見に行った。もう一度先輩は俺を見て、言う。
「助けを求めるだけ求めて、お前はなんもしないわけ?」
見に行くと、案の定と言ったふうにシドウ先輩はリンチされていた。そんな様子を、様々な階から生徒たちが覗いている。シドウ先輩は無抵抗で、しかし顔だけは確かにしっかり守っていた。
……俺のせいだ。頭がパンクしそうだった。身体中が熱い。しかし、いつまで経っても、どれだけシドウ先輩の制服が汚れても、暴行は終わらない。
俺は、何もしないのだろうか。
ふと、頭にさっき言われた言葉が浮かんで、いやしかし、と首を振った。俺は喧嘩なんかできない。抵抗したところで、やり返されるだけだ。いつだってそうだ。俺がヒーローみたいにあいつらを全員ボコボコに出来るなんて、幻想だ。
__それでも、俺はここで本当に何もしないのだろうか。
何故か朝は早く来て寝てて、昼も寝てて、いつも寝てて、食いしん坊で、それでも辛い日はただそっと一緒に居てくれた。先輩のおかげで、平穏な日々も過ごせていた。
俺は……。
「……うああああああ!!!」
半分以上、悲鳴みたいな声を上げながら、俺は走り出した。一瞬だけ、シドウ先輩をリンチしていた奴らの注意がこちらへ向く。ただ走っていくだけの俺を全員が、ギャラリーも含めて見つめ、そのまま……俺の力ないパンチは、容易く受け止められ、地面に叩きつけられた。途端、連中から大きく笑いが沸き起こる。
「こりゃおもしれーや!正義のヒーロー登場か?」
「よえーヒーローだな!」
連中がゲラゲラ笑っている間に、俺は倒れているシドウ先輩の体を揺すった。
「先輩、先輩……!大丈夫ですか!シドウ先輩!」
俺が呼ぶと、シドウ先輩はゆっくりと目を開け……じっと、俺の顔を見上げて。そして。
「……もう起きる時間か?ショウ」
頓珍漢なことを、言う。
「な、なに言ってんですか!俺……心配で……」
「……よし、じゃ、やるか」
「へ……」
ふあ、とシドウ先輩は、今まで何もなかったかのように起き上がり、立ち上がった。驚いて何も出来ないままの俺にも、そっと手を差し伸べる。
「……自分から喧嘩すると、弟に怒られるんだ。でも、これは別に喧嘩しにきたわけじゃない。呼び出されて、寝てたら後輩が起こしに来て、たまたま喧嘩に巻き込まれただけだ。な?」
「……い、いや、シドウ先輩……?もう何言ってるのか……」
「……何をごちゃごちゃ言ってやがんだ!」
余裕そうなシドウ先輩を見て、頭に血が登ったクラスメイトが一人、こちらへかけ出す。あ、シドウ先輩危ない……。俺がそう、叫びそうになった時。
人が空を飛び、ギャラリーから歓声があがった。
「いやあ、お前のおかげで昨日はいいもん見れたわ。最近シドウ、暴れねえからよ」
「サクラに怒られたくないんだ」
「でも昨日、こってり絞られてたろ」
「……お前らが騒ぐから……」
「……はあ。」
はあ。
心の中で二度目を繰り返しながら、俺は先輩たちに囲まれている人気者のシドウ先輩を見つめていた。普段ひとりで孤立しているように見えていたシドウ先輩に、教室の三年生たちはやけに親しそうだ。
「……シドウ先輩って、仲間多かったんですね」
「ああ。みんな拳を交えた仲だ」
「え」
「ちゃんと正々堂々拳を交えたら、もうダチだろ」
「いや……そんな理論は知りませんけど……」
当然だ、とでも言いたげな顔でシドウ先輩は言って、ほんの少し口元を歪めた。俺はまた、はあ、と同じように答えることしかできなかった。
「シドウの怖さ知ってんのは俺らの代までだったからな、こいつ、舐められてんのに全然やらねーから」
「だから、弟に……」
そう言いながら不服そうシドウ先輩の肩を抱く先輩は留年してないタイプの三年生。となると、シドウ先輩が最後に暴れたのは二年前ということになる。……レイコーにはやべー番長がいるらしい、そんな噂を聞いたのは、そのくらいの時だった気もする。
結局昨日の喧嘩は、シドウ先輩が大暴れ。あれよあれよという間に一年生たちを制圧、全員が動けなくなるまで五分もかからず、あげくシドウさんは「もう終わりなのか」と言いながら大あくび。その瞬間、ギャラリーからはさらに弾け飛ぶような歓声が鳴り響いた。後で聞いたが、シドウさんの大あくびは喧嘩の始まりと終わりの合図になっているらしい。
そんなシドウさんを家に帰ってからこってり絞った弟さんというのは、さぞ恐ろしい人間なのだろうな、と、朝「怒られた」としゅんとしていたシドウさんを見て思った。でも、もし俺が同じようなことをしたなんて聞いたらコウも同じように怒るかもしれない。
そんなワイワイとした教室は、チャイムが鳴り響いても席に座ろうとする人はいなかった。ヤバい、遅刻する、そう思って俺が出ていこうとした時に、人の輪を優しく振り払いながら席に向かっていたのはシドウさんだ。
「だから、今年は卒業するから。俺は授業受けるからな」
「受けてもバカだから何もわかんねーくせに」
「うるせー」
そう言いながらも落ち着いていく人混みの中、ショウ、と呼ばれて、思わず背筋を伸ばして振り向いた。
「また昼な」
「……は、はい!」
授業中寝ないでくださいよ、と言ってから、俺は自分の教室を目指した。
昨日のシドウさんのせいで怪我で欠席の生徒はそれなりにいたし、メンツが潰れたせいで来なくなったやつもいる。半分くらい減った残りの教室の生徒たちも、おいそれと俺に手を出そうとしなくなっていた。むしろ、もう関係を絶とうとしているみたいに。
朝はそれでいいと思っていた。もう俺は、おそらくリンチされる毎日ではなくなるだろう。学校の間教室でひとりでいて、シドウ先輩だって卒業するはずだし、ただそれだけ。ただそれだけの日々で、それなりで。今までの人生のように。
でも、今までの人生とちょっと違うのは、やっぱりシドウ先輩に出会ってしまったことだ。
ばさり、と隣の席の不良が教科書を落とした。俺はそっと落し物を拾って、机に戻す。少し面食らっている不良の名札を見る。今まで覚えようとしなかったクラスメイトの名前を、頭の中で呟いて。
三年生の輪の中にいたシドウ先輩を思い描きながら。
「シドウ先輩、ご飯ですよ……って、あれ」
昼休み、屋上に上がって来たところでシドウ先輩が横になっているのに気づいた。前髪も無造作に伸びっぱなしな上に、フードを被っているから顔は見えない。ただ、黒いフードに何か青いものがついているのが見えた。そのままの流れで、手も真っ青なのが見える。
俺はそっとシドウ先輩を起こさず、側へ近寄った。先輩の周りに散らばっていたのは、ペンキ缶だった。青、水色、白。そして……。
「……すげー」
壁に乱雑に、けれど繊細に描かれていたのは、青空だった。雲の切れ間にある鮮烈で真っ青な空。シドウ先輩が絵を描くなんて話、聞いたこと無かったけれど、きっとそうなのだろう。しばらく見つめていると、うう、と声を上げながら、シドウ先輩がゆっくりと起き上がった。
「今日は、天気がいいからな」
「いいんですか、学校の壁……てか、手……」
「消してまた描くからいいだろ。卒業する時には消すし」
「はあ。……てか、今日はそれなりに曇ってますよ」
俺は空を見上げた。けっこう雲がある日で、快晴ではない。絵にあるような空ではなかった。けれど、シドウ先輩は大あくびをしてから、ゆっくり首を振った。
「今日はいい天気だよ。空も、風も。なあ、ショウ」
「……じゃあ、そういうことにしますけど」
シドウ先輩は珍しく、悪戯な笑みを浮かべているが、何を考えているのかはよくわからない。その真意を話すつもりはないらしいし、俺はうまく汲み取れなかったけれど、並んで本物の空を見上げた。そんな俺たちの髪を、肌を、制服を、優しい風がそっと撫でる。
「……んじゃ、昼飯、食うか」
「あ、その前に手洗ってきてくださいよ。てか取れるんですか、ペンキ」
「水性だから一応……でもこれくらいいいだろ?」
「ダメです。手でパン食べるんだから、ちゃんと手洗ってこないと」
「いいだろ別に……」
「ダメですよ!」
シドウ先輩の手を引っぱるようにして、手を洗いに連れていく。もういいだろ、なんてテキトーに洗おうとする先輩にダメを出して、しっかり洗わせていると、あんな喧嘩好きの強い番長が俺なんかにしおらしくしてるなんてのが妙におかしくなって笑った。シドウ先輩は不満そうな顔で俺を見てたけど、何か聞いてくることも無く、手がすっかり綺麗になった頃には昼休みもだいぶ終わっていた。
それから俺たちは詰め込むように昼飯を食べて、昼寝する間もなく教室へ戻っていく。別れ際、シドウ先輩がまた知らない誰かに声をかけられるのを見た。俺にたまに話しかけてたあの先輩もいて、俺と目が合うと、ニヤッと笑った。
あれから時間が経ち、いつしか留年を繰り返したシドウ先輩は学校を辞めた。一時は俺と同級生になったりもしたが、結局どうしても越えられない学力上の問題があったようだった。そういう人も、いるってことだ。
「卒業する時には消す、かあ」
あの時の言葉をぼんやりと思い返す。もしかしてあの時のニヤニヤは「"卒業"しなかったら消さない」ってことだったのだろうか。どちらにせよ、立ち入り禁止の屋上の壁にはラクガキが並んでいる。大半はシドウ先輩が描いたのだが……中に少し、俺が描いたものもある。
俺も絵を描くのが好きだった。だから、シドウ先輩が絵を描いているのを見た時、本当に嬉しくて、あれから二人でたくさん一緒に絵を描いた。……シドウ先輩の真似をして、手に重たいペンキをいっぱいとって塗った落書きを見て、もうこの学校にはシドウ先輩はいないのだと改めて思い直し。
そして俺もまた今日、この学校からいなくなる。
ガラガラと持ってきた道具を置いていく。制服の裾を捲る。まずはざっと薬品を掛けていって、それから……。
落書きを消していく。落書きが消えていく。苦労して薬品をぶちまけた後シャワーで流すと、青や白ばかりのペンキが流れて、混ざりながら、排水溝へ流れていく。
壁の落書きが消えていく度に、ペンキが流れていく度に、シドウ先輩との思い出が鮮明に蘇る。落として行くのに、消していくのに、逆にひとつずつ、まるで昨日のことであったかのように。
落書きは消える。思い出の彩度は高くなっていく。
「……卒業する時には、って言いましたからね。俺はもう、卒業しますよシドウ先輩……」
今日の空にはそれなりに雲が出ているが、たまに吹くサラサラとしたそよ風が優しく、心地いい。
「……いい天気、だなぁ」
色が混ざってくすんだ落書きを落とした水の色、薄暗い雲のある空、優しげに俺と消えていく落書きを見守る青い空。屋上。大量のパンと、昼休み。昼寝。
さよなら、俺たちの自由帳。
空と風 ヤネウラ @yaneuramagic
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