キミの笑顔と薄い傷跡

堂本 三つ葉

キミの笑顔と薄い傷跡

 遠く冴え渡る冬空の下、冷えた風に鮮やかな真紅の地に伝統的な和柄の刺繍と絞りの入った振袖が宙を踊った。

 金色の帯の締め付けに林の背筋は自然と伸びた。足の指先で鼻緒をしっかりと挟み、摺り足で静かに進む。

 会場入り口で扉に手をかけた林はガラスに映る自分の姿に自然と目が吸い寄せられた。

 ほっそりとしたシルエット。結い上げられた薄茶色の髪に紅白のつまみ細工が揺れる。横髪は緩くカールを描き輪郭にかかる。

 華やかな化粧が施された顔は、しかし強張っていてどこか不安げな表情を浮かべていた。

 大きく息を吸えば冷えた空気が肺を満たす。その冷たさに目が覚めるような心地に、息を吐けば白い空気が頬を撫でた。

 林は頬を軽く押さえ、揉むように上下に動かした。指を離してきゅっと口角を引き上げる。林はガラスに反射した楽しそうに笑う自分の顔をみつめ、そっと扉を押した。

 扉の隙間からむわりとした熱気が漏れ、非日常と懐かしい顔との再会を楽しむ声のざわめきが広がる。

 赤、青、緑に差し色の白や金。色とりどりに着飾った振袖の女性たち。落ち着いた色のスーツの群れの中には、時折、袴を履いた男性が紛れる。

 しずしずと足を進めるたびに、髪飾りが揺れてしゃらりと鳴った。

 その音を興奮気味に話す女性たちの声がかき消した。林は彼女たちが口にする高橋の名前に一瞬足が止まった。

 林の脳裏を静かな目をした高橋の顔がよぎる。

 ……高橋君、来ているんだ。彼は、私を見て驚くだろうか。

 ぼんやりとしたまま林が受付で名乗ると隣から声がかかった。

「え、もしかして林? ユーフォの?」

 受付の隣の列に、同じ吹奏楽部だった今井が戸惑ったような顔で立っていた。

「あ、今井君。 久しぶり! そうだよ、林」

 林の肯定に今井は安堵したようで、昔と変わらないにこやかな表情を浮かべた。

 二人は受付を済ませるとその場を離れて会場の隅に落ち着いた。

 ブルーグレーのスーツを着た今井の華やかな雰囲気はそのまま、少し大人びた顔つきになっていた。しかし、制服からスーツへ姿が変わっていても、昔と同じ気やすい空気をまとう今井に林は目を細めた。

「えー、むっちゃ変わったじゃん! 髪染めて眼鏡じゃなくなると全然わかんないな。あと……いや」

 目を丸くした今井は声に興奮をのせて話していたが、急に口籠った。

 そんな今井の様子に林は吹き出しそうになった。結局、抑えきれずに、笑い混じりに林は今井が言いかけただろうその先を口にした。

「へへ。うん、結構ダイエット頑張ったんだ」

 格好つけるように、林は意識してにこりと軽く口元を引き上げた。

 今井は目を見開くとからりと笑った。

「ははっ。男からコメントにくいこと言うなって! ま、林に限らず変わったやつ結構いるしな」

 明るい調子で、今井は指折り数えながら数人の名前を口にした。

「あ、ダンス部の林さん見た?」

「ううん」

 林は小さく顔を左右に振った。

 林と同じ苗字の彼女は、明るい性格でクラスでも中心となって周囲を盛り上げるタイプだった。

 おしゃれにも気を遣ってキラキラと輝いていた彼女は林にとって眩しい存在だった。

 彼女もこの場にいると聞き、林はちらちらと周囲に視線をやった。

 しかし、色の洪水とも呼べる振袖の波の中に彼女らしき姿は見つからなかった。

「看護系に進んだらしくって、髪が真っ黒になっててさ。化粧や爪で遊べない〜って嘆いてた」

「え! そうなんだ」

 林は軽く目を見張り、首を傾けた。林の視界の端でゆるく巻かれた茶髪が小さく揺れた。

「そうそう。……あ。おーい! 高橋!」

 話している途中で、今井は大きく左右に手を振った。

 その名前に、咄嗟に林は背後を振り返った。髪飾りの揺れが林の頭に伝わる。長い振袖がふわりと円を描き、数瞬遅れて林の体に巻きついて元に戻った。

 十数メートル先に、グレースーツ姿の高橋がいた。軽く手をあげてゆっくりとこちらに近づいてきた。

 その姿に林は喉の奥から胃にかけて何かが落ちるような違和感を覚えた。

 とくとくと林の心臓の鼓動が速くなった。

「や、昨日ぶり。今来たところ?」

「いや」

 気軽に声をかけた今井に対して、高橋の表情はどこか冴えなかった。

「……なんか、くたびれてない?」

「ちょっとね。その辺歩くだけで、やたら声をかけられて……」

 眉間に小さく皺を寄せた高橋は細く長いため息をついた。

「あ〜……。まぁ、みんな気になったんだろ」

 何か心当たりがあるのか、眉を下げた今井は取りなすようにフォローらしき言葉を口にした。

「……」

 むっつりと黙ったままの高橋に、今井は苦笑いを浮かべると軽く肩をすくめた。

 何事かあったのかと、林が二人の顔を伺うようにちらちらと交互に見ていると、今井と目があった。

「っと、ごめん。ほら、林さん。同じクラスだった」

 今井の紹介に林が高橋へと顔を向ける。一瞬だけ目が合ったが、高橋はすぐに目を逸らした。高橋は軽く頭を下げると、そのまま林に見向きもしなかった。

 高橋の静かに拒絶するかのような硬い態度に林は目を伏せた。

 真っ白な足袋と金糸が織り込まれた豪華な鼻緒がどこか白々しく林の目に映った。

 林の胃がずんと重くなった。

 林は両手の指先を擦り合わせた。つるりとしたネイルとラインストーンの硬さが指先に残った。

 高橋の態度を想像しなかったわけではない。

 たまたま同じクラスだっただけで、ちゃんと会話したこともほとんどないのだ。だから……。

 指先がカツカツと小さく硬質な音を立てた。林ははっと指を止めた。

 そう。あの時の言葉や会話は、私だけの大切な思い出だった。ただ、それだけの話だ。

 林は左手でそっと右の袖を撫でた。

 手のひらに感じる絞り染めの凹凸や刺繍が施された生地の凹凸と滑らかな絹の手触り。

 林はぐっと袖の上から右腕を握る。

 振袖の奥から筋肉の弾力と少しの骨の硬さが返ってきた。


 ぱしんと右手で受け取ったバトンを左手に持ち替えた瞬間。林の脚がもつれ、咄嗟に右手を地面につけた。

 林の手のひらから腕にかけて焼けるような痛みが走った。

「いっ! いった〜……」

 林は呆然と校庭に座り込んだ。

 むちむちとした腕に広がる傷口に砂や小石が入り込み、じわりと血が滲みはじめていた。

 鉄の匂いが林の鼻をつく。

 遠くのスタート地点から林を心配するクラスメートの声が上がった。

 その声にかっと林の頬が熱を持った。

 真っ青の夏空から降りそそぐ強い日差しが林を熱した。

 注目を集めていることや高校生にもなって転んだことに、さまざまな感情が入り混じった。体育祭の本番ではなくてよかったんだと林は自分に言い聞かせた。

 鼻の奥にツンとした痛みを感じ、林は咄嗟にすんと鼻をすすった。

 ふっと座ったままの林の数十センチ先に影が落ちた。

「……大丈夫? 傷口、砂が入り込んでるし水道水で洗い流した方がいいよ」

 じゃり、という砂音とともに林の頭上から冷静な声が降ってきた。

 驚いて林が見上げれば、高橋がすぐそばに立っていた。

「えっ、あ、うん。……手洗い場……?」

 咄嗟に返事をしたものの、林はすぐに途方に暮れた。周囲を見渡すも、サッカーゴールやバックネットが目に入るだけでそれらしき場所は見当たらなかった。

 高橋はあぁ、と小さくなずくと、校舎の方を指差した。

「あっち。……案内するから、着いてきてくれる?」

「う、うん」

 慌てて林が立ち上がった。それを確認すると、高橋はすぐに歩き始めた。

「ご、ごめんね……」

 高橋の後ろ姿を追いかける。ほどなくして校舎近くの校庭の片隅に辿り着いた。

 そこには、4口の蛇口があるだけの手洗い場があった。

 林が高橋を追い越して蛇口に右手を伸ばすと、ポタリと血が滴り、地面を汚した。

 林は右手を引っ込め、空中で手をさまよわせた。左手を伸ばしかけると、林の横から伸びた高橋の手が蛇口のハンドルを捻った。

「あ、ありがとう……」

 林は微かにカルキ臭のする流水に右腕を当てた。腕を流れる水の生ぬるさとともにピリピリと痛みが広がった。

 数秒もすると水温が下がり、傷口の熱を奪う。

 赤みを帯びた水が勢いよく排水口に螺旋を描きながら流れ込んでいった。

「あの、ごめんね」

 近くで黙って待つ高橋に申し訳なさを覚えた林は蛇口から手を引いた。

「待って。もうしばらく流してて。あと、砂利が傷口に入り込んで取れないなら病院も行った方がいいよ」

 高橋が静かな口調で告げた内容に、林は大人しく流水に腕を再び当てた。

「う、うん。……詳しいね?」

「……まぁ。親が医者で、たまにそういう話を聞くからかな」

「そうなんだ……」

 そのままプツリと会話が途切る。

 蛇口から流れ落ちる水音だけが辺りに響き、跳ね返った水しぶきが林の脚を濡らした。

 遠く、校庭では生徒たちの声援や歓声があがり、随分と盛り上がっていた。

 林の体が微かに動いた。

「……あの、そろそろ大丈夫かな?」

 林が傷口を確認すると、砂利が少しだけ残っていた。流水ではこれ以上は取り除けなさそうだった。数秒後、わずかに血が滲み始めた傷口に林は肩を落とした。

「どうだろ。ある程度は洗い流せたとは思うけど。少なくとも保健室に行って消毒はした方がいいかな」

 高橋はきゅっと蛇口のハンドルを閉めながら淡々と返した。

「傷跡が残るかもしれないし、心配なら病院も念のため行ったら?」

「……うーん、放課後は部活があるから」

 小さく首を傾げて林は右手を軽く握っては開いた。

 手のひらに痛みはあるが、指自体に怪我はない。だが、手のひらの違和感で演奏はしにくいかもしれない。それにしても……。

 林はちらりと腕から肩にかけて視線をやった。

 白い半袖の体操服から林の太く生白い二の腕がのぞいていた。

 普段は夏場でも長袖を着て隠していた林の腕に太陽光が突き刺さる。ジリジリと熱を感じる腕から手のひら、指先へとぼんやりと眺めていると、乾燥で荒れた指先のさかむけが目についた。

 クラスメートの女の子たちのほっそりとした腕や体のシルエット。プリントを渡してくる指先のピカピカに磨かれた爪。

 林はキュッと爪を隠すように手を握りしめた。気がつけば、林は小さくため息を漏らしていた。

「……傷跡は別に。……誰も気にしないと思うし」

 林の自嘲に返ってきたのは沈黙だった。

 林はきゅっと軽く唇を噛み、俯いた。黒髪が頬を撫でて林の視界を狭めた。

「っごめん。変なこと言っちゃった。ありがとう。楽器を吹くのに違和感があるのも嫌だし、病院に行ってみるね」

 明るい調子で林は早口で捲し立てる。頬にかかった髪の毛を耳にかけて顔を上げた。

 すると、高橋は、何かを考えているように上に視線をやりながら口元を手で覆っていた。

「……人の新陳代謝は」

 沈黙して数秒ののち、高橋はひとつ頷くと、ゆっくりと口を開いた。

「肌なら一ヶ月弱。骨だと数年。数年で人の体ってほとんど入れ替わるんだ。……仮に傷が残ってもそのうち薄くなって消えるよ。……だから、その」

 その先を言いあぐねた様子で少し眉を顰めた高橋に林の口元がほころんだ。

「……うん。……ふふ、体、全部入れ替わるんだ? 新しい自分になる?」

 チリチリと傷口に広がる痛み。

 転んだ時より幾分か痛みが治まった傷口も、そのうち瘡蓋になっているだろう。そうして、数年かけて新しい体にゆっくりと、だが確実に変わっていく。

 ジリジリとした太陽光のせいか、林の体がじわりと熱くなる。

「……そういう考え方もできるってこと」

 相槌のようにも独り言のようにも聞こえる調子で高橋はつぶやいた。ふと、宙を見ていた高橋がちらりと林の手を見下ろした。

「……林さんは吹奏楽部だよね? だから指は大事でしょ。……同じように、例えば、スポーツの選手が急に走れなくなったとして」

 目を伏せた高橋の足先が地面をなぞる。

 乾燥した地面がじゃり、と砂の擦れる音を立てた。

 その音に、林は開きかけた口を閉じた。

「走れない自分なんて、そんなの自分じゃないって言うんだ」

 とんとんと高橋の黒いスニーカーが地面を軽く叩く。

 林も紺色のハーフパンツから伸びる自分のずんぐりとした足を見下ろした。

「……じゃあ、その人らしさって何? 例えば、船のパーツを少しずつ全部入れ替えたとして、その船は同じ船といえる? ……それが、人の体だったら?」

 高橋は静かだがどこか芯のある声で続けた。

「将来的には、iPS細胞で作られた遺伝子的に全く同じ“新品”の体だって複製できるようになるはずで」

 その惹き込まれるような声に導かれるまま、林は両手を開き、左手と怪我をした右手を見比べた。軽く両手の指先を動かしてみる。

「それを元の本体、に……」

 続きを言いかけて、高橋は言葉を止めた。

 高橋の顔を窺うと一瞬目があった。しかし、高橋は少し眉間に皺を寄せるとすぐに視線を外した。

「……ごめん。こっちこそ、変なことを言った」

 気まずそうに高橋は謝罪を口にした。

 反射的に林は首を横に振った。

「ううん。……なんか、国語の現代文の問題みたいだった。こう、考えさせられるというか」

 林はしみじみとこぼした。

 クラスメートであっても、挨拶した記憶すらほとんどない高橋の意外な一面だった。

 高橋は黙ったまま、戸惑った表情を浮かべた。

「えっと、確か、医学部志望……だよね? 新陳代謝とかiPS細胞とか、やっぱりそっち系に興味があるんだね?」

 首を傾げた林はふと思い出した。

 高橋の家は病院を経営しているはずだ。

 林は納得して小さくうなずいた。

 すると、すっと高橋の表情が落ち着いた。

「……まぁ」

 そのまま、気のない返事が返ってきた。

 その温度のない表情と声に林の背筋が伸びた。ごくりと唾を飲み込んだ。

「えっと、あの」

 林の手が体の前でふらふらと上下に動き始めた。林の額にふつふつと汗が滲み、一筋、こめかみを伝っていった。

「わ、私は! 新しい自分になるのか、とかその人らしさってなんだろう、みたいな話。面白かったよ」

 しどろもどろに話す林の手が宙で小さく円を何度も描く。

「そういう視点で考えたことなかったから。哲学的っていうか……」

 くるくると手を回しながら林は言葉を探していると、高橋は小さく目を見開き口元を手で覆った。

「哲学……」

 口の中で転がすように高橋は小さく復唱した。

「……別に。ちょっとした思考実験ってだけ。考えるのは嫌いじゃないけど、それだけだよ」

 高橋は数秒黙ったのちに、そう結論づけて口をつぐんだ。しかし、自身でも釈然としないのか小さく首を傾げていた。

 沈黙が横たわる。

 林は医学部の話になった時の高橋の無機質な表情を思い返し、気まずさを覚えた。同時に、その人らしさやiPS細胞について静かな口調で、しかし饒舌に話していた高橋の様子も。

「……好き、そうだけど」

 ぽろりと思ったことが林の口から漏れた。

 虚をつかれたように高橋はえ、と小さくこぼした。

「そう、かな」

 高橋は眉を下げてつぶやいた。当惑した表情の高橋に林の眉も下がった。

「えっと、少なくとも、私よりは?」

 林はためらいながらうなずいた。

「……そっか。……うん。好き、かな」

 高橋はひとつうなずくと、噛み締めるようにそっと口にした。

 じわりと滲むように高橋は微かに笑みを浮かべる。その静かで柔らかな表情に林も釣られて笑った。

 ひゅうと二人の間に風が吹き、束の間の涼しさをもたらした。

 林は無意識に緊張していたのか、ほどけた空気にほっと息を吐いた。

「そうだよ。……あ」

 林が大きくうなずいて相槌を打っていると、林の腕を血が伝った。

「っと、ごめん。保健室行こっか」

「え、いいよいいよ。保健室ならわかるし。ここまでありがとう」

 林は怪我をしていない左手で遠慮がちに左右に小さく振った。

「そう?……じゃあ、その、お大事に」

 高橋はさらりと告げると、林に背を向けて校庭へと戻っていった。

 右肘の下に左手をかざしながら、林も小走りにその場を離れる。

 少し息を弾ませた林は保健室の扉の前で足を止めた。

 ぴりぴりと腕に広がる痛み。

 林はあらためて右腕を眺めると、そっと傷口を避けるように肌に触れた。

 指は沈み、ぷにぷにとした弾力が返ってくる。

「数年で、体は入れ替わる……」

 そう呟くと、林は扉に手をかけた。


 パンパンという高い手拍子の音と女性たちの笑い声が会場に響いた。

 はっと林は左手の力を緩め、そっと握っていた右袖の皺を直した。

「ちょ、お前、感じ悪いぞ」

 今井は慌てた様子で高橋を嗜めると、ヒョイと片眉を上げてにこりと笑った。

「あ、知ってる? こいつ、哲学科に行ったんだよ」

 今井は高橋の腕を軽く引いて、明るい声音で林に話題を振った。

 その言葉に林はパチリと一度瞬いた。林は口を開きかけたが、今井から腕を取り戻そうと身を捩る高橋の眉間の皺をみて言葉を飲み込んだ。

「……おい」

 低い声で高橋は今井を睨みつけた。

「ごめんごめん」

 今井はぱっと高橋の腕を離した。高橋は軽く笑って流す今井を一瞬見て、そのまま林に視線をやった。高橋の顔に気まずげな表情が浮かんだ。

「俺と一緒に医学部へ進むと思ったのにさ〜」

 今井はおどけたようにはぁと息を吐き、頭を大袈裟に左右に振った。

「なのに、受験の時に、飄々と哲学科を受けるとか言われてマジで裏切られた! って思ったんだよね」

 今井は高橋の肩を軽く小突き、からかうように続けた。

「......別に、いいだろ」

 高橋はまだ少し硬さの残った表情のまま、依然として小突いていた今井の手をうっとおしそうに払い除けた。

「人間には、向き不向きがある」

「ま、ね。一生物の仕事だし、興味や情熱もある程度は必要だよな」

 わずかに眉をひそめて淡々と告げた高橋。今井は同調しながら肩をすくめた。

「それを、外野があれこれと......」

 高橋は辟易した様子で声を尖らせた。今井は苦笑いを浮かべ、宥めるように高橋の肩をぽんと軽く叩いた。

 高橋は意図的なのか、振り切るように太く短い息を吐いた。高橋はすっと雰囲気を落ち着かせると、林に謝罪した。

 林が慌てて顔と手を軽く左右に振った。高橋は申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 先ほどより幾分か険のとれた高橋の顔は、高校生の頃より少し精悍さが増していた。

 しかし、それ以上により深みを増したようなその静謐な目が林の印象に残った。

 同時に、滲むように笑った高橋の顔が林の脳裏をよぎる。

 そうか、あの笑みを引き出した哲学の道に高橋は進んだのか。

「そうなんだ。哲学科に……」

 思い出の中の高橋の笑みに釣られるように、林は自身の顔が緩んだことを自覚した。

「いいね。高橋君、哲学のことが好きかなって言ってたもんね」

 すると、高橋が手で口元を覆い、真っ直ぐに林を見つめてきた。その目の力強さに、林は思わず視線を落とした。

「……もしかして、林さん? 吹奏楽部の」

 数秒の間を空け、不思議そうに問うてきた高橋に林はぱっと顔を上げる。まじまじと見つめてくる高橋と林の目があった。

「え? う、うん。あの、覚えてなかった、かな? クラスメートだった、林 美咲」

 つっかえながら林は名乗った。

 すると、高橋は腑に落ちたようにひとつ頷くと目元をやわらげた。

「いや……。覚えてる。そっか、林さんだったんだ」

「う、うん。あの……今更だけど。久しぶり、だね」

 改めて挨拶をしながら、林の頬がじわりと熱くなった。

 もしかしたら、ダンス部だった彼女だと思われていたんだろうか。

 あの明るく華やかな彼女と間違えられるくらいに。

 くすぐったい気持ちが湧き起こり、林は緩みそうな口元を引き締めた。

「うん。久しぶり」

 高橋は懐かしそうに目を細めた。

「……林さん、変わってないね」

 林は息を飲み、顔が強張ったのを感じた。

 変わってない、だろうか。

 林が身じろいだ瞬間、髪飾りがかすかに揺れた。

 ゆっくりと息を吸い込もうとするも、それを妨げる振袖の締め付けに林はひどく煩わしく思った。

「そ、そう? 結構、今井君には驚かれたんだけどな」

 笑え。笑え。鏡の前で練習した、あの顔で。

 目元を緩め、頬から口角にかけて高く上げる。ぐっと握った手のひらに爪を立てた。

「う〜ん。確かに。はじめは気づかなかったし」

 軽く続けられた高橋の言葉に林の体の緊張が緩んだ。

「でも……」

 さらに何かを言いかけた高橋に、こくりと林の喉が鳴る。林はより深く手を握り込んだ。

「見た目は変わったけど……うん」

 首をかしげた高橋はひとつ頷いた。

「笑い方とか。……変わってないなと思って」

 しみじみと告げられた高橋の言葉に、林の手のひらの痛みが遠のいた。

 ふいに、高橋は真剣な表情になると背筋をスッと正した。

「……ありがとう」

 熱のこもった深く重い声だった。

 突然の高橋の感謝の言葉に林は虚をつかれた。

「え? な、何が……? 何かしたっけ?」

 林は言葉に詰まりながら返しつつ、心当たりを探す。しかし、思い当たる節がなかった。

 そんな林に、高橋は微かに笑みを浮かべた。

「……ずっと。……いや。なんとなく言いたくなって」

 何かを言いかけた高橋は、軽く頭を振るとそのまま黙った。

 わずかに浮かんだままの高橋の笑みとどこか柔らかな雰囲気に、林は疑問が残っていたものの、聞き返すことはなかった。

 黙り込んだ二人の間で、今井は林と高橋を見比べて首を傾げた。

「え〜? なになに? 二人って仲よかったっけ?」

 今井の明るい声がその場の空気を変えた。

「あ……」

「別に」

 笑みを引っ込めた高橋は静かに答えた。

 口を開きかけた林は口を閉ざすと、視線を泳がせた。

「……ただ」

 口籠った高橋は手の甲で口元を隠した。さっと高橋の視線が逸れる。

「……ただ、人間、ちょっとした会話で変わるものがあるってだけだ」

 そう照れ臭そうに話す高橋の目尻は確かに笑みの形をしていた。

 その笑みに林の肩の力が抜けた。

 もしかしたら、自分と同じように高橋もあの時の会話を大切に思ってくれていたのだろうか。

 気がつけば、林は息がしやすくなっていた。

「……ふ〜ん?」

 にやにやと笑う今井に高橋の眉間に皺が寄った。

 その時、遠くから今井を呼ぶ声がした。

「お〜、久しぶり! ……悪い、ちょっと行ってくる」

 声のした方向に今井は手をひらひらと振ると、その場を離れていった。

 笑いさざめく会場から切り取られたかのように、二人の周囲に静けさが広がった。

 残された二人はぎこちなく顔を見合わせるとどちらともなく視線を逸らした。

 自然と林は親指で人差し指のネイルを何度か撫でていた。

「……林さん、ネイルしてるんだね。まだ楽器は吹いてるの?」

 ぽつり、と少し困ったような声音で高橋は尋ねてきた。

 ホッと小さく林の口から息が漏れた。

「っうん。大学でも吹奏楽部に入ってるよ。だから、今日はネイルチップ……つけ爪なんだ」

 ぱっと林は両手の甲を上にして高橋に向けて胸の前で爪がよく見えるように指を広げた。

 小さく指先を揺らすと爪のラインストーンが天井のシャンデリアの光を受けてキラキラと輝く。

「そうなんだ。綺麗だね」

「! ありがとう! 実はこれ、自作なの」

 林の声が弾み、自然と口角が上がった。

「その、端の細かいところとかちょっと失敗してるけど、気に入ってて」

 林は右手を軽く握りネイルを見ようと顔に近づける。その動きに袖が数センチ下がり、袖口から少し傷跡がのぞいた。

 高校の時よりもほっそりした腕に残る薄く傷跡が残っていた。

「……ねぇ、高橋君。昔、私が転んで怪我をした時に新陳代謝の話、してくれたでしょ」

「うん……?」

 急に話題を変えた林に高橋は片眉を上げた。不思議そうに首を少し傾けた。

「数年で人の体の細胞は入れ替わるっていう話」

「……した、ような」

 あの時、林の中に深く印象に残った言葉。それを今度は林から高橋に告げた。

 高橋は口元に手を当てると、眉間に少し皺を寄せた。

「ふふ。したんだよ。怪我の跡の話で」

 生真面目な表情で考え込み始めた様子の高橋に林は思わず笑った。

 高橋にとっては本当に何気ない一言だったのだろう。

「跡は残っちゃったんだけど、確かにだんだん薄くもなってて」

 改めて、林は随分と薄くなった傷跡をしげしげと見つめた。

「人体ってすごいって時々思うんだ」

 気がつけば林は実感のこもった声で語っていた。

「……うん」

 高橋の軽い同意とも単なる相槌ともとれる返事。

 その軽さに、なぜか林は心地さを覚えた。

 林の腹の底からむずむずとした衝動が湧き上がってきた。

「このまま、消えずに残るのもそれはそれでアリかなって」

 それに突き動かされるまま、林はふと浮かんだ言葉を口にした。

 抑えきれない何かが体から溢れ出る。

 気がつけば、林の口角は大きく上がり、頬にも力が入っていた。

 あぁ、やだな。きっと、鏡の前で練習したような笑顔じゃない。

 完璧とは程遠い、くしゃっと崩れた顔をしているはずだ。

 でも、堪えきれなかった。

 林は笑いながらうっすら残る傷跡をそっとなぞった。

 すると、正面からふはっと笑い混じりの息が聞こえてきた。

「……そっか」

 高橋はどこか楽しそうに、くしゃりと笑った。

 林の指がぴくりと跳ね、傷跡を軽く引っ掻いた。

 かすかな痛みが林の肌を走り、消えていく。

 林の記憶の中の滲むような高橋の淡い微笑みが、今の笑顔と重なり溶けていった。

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