王国が彼女を選べなかった日

みにとまと

第1話 選ばれる前夜

 セレディア王国の朝は、いつも音がない。

 鐘の音さえ、ここでは感情を削ぎ落とされた儀式の一部だった。


 アリシア・ヴァレンティアは、長い回廊の窓辺に立ち、白い手袋を外した。

 指先がわずかに震えているのを、誰にも見せないために。


 ――明日、私は婚約者に会う。


 その事実は、幼いころから知っていた未来のはずだった。

 驚きはない。拒否も許されない。

 それでも胸の奥に、名もない圧迫感が巣食っている。


 彼女は、セレディア王国にとって“必要な存在”だった。

 王権を支える血。

 国を繋ぎ止めるための結び目。


 だからこれは、恋ではない。

 選択でもない。


 ――そう、分かっているはずなのに。


「アリシア様」


 背後から、低く落ち着いた声がした。


 振り返ると、黒髪の青年が一礼して立っている。

 アリシア付き執事、ノアール。

 いつも半歩後ろで、決して前には出ない人。


「本日はお休みになるよう、王命が」


「……ええ、分かっているわ」


 微笑もうとして、やめた。

 その仕草ひとつで、ノアールは察してしまう。


「無理に、心を整える必要はありません」


 慰めでも、命令でもない。

 ただ事実を述べるような声。


 それが、今のアリシアには救いだった。


 窓の外には、王城の庭園が広がっている。

 明日には、この城のどこかで――

 第一王子ディーンが、彼女を迎える。


 会ったこともない王子。

 王国が選んだ相手。


 それなのに、胸の奥で小さく囁く声があった。


 私は、本当に選ばれただけなの?


 その問いに答える者は、まだ誰もいない。


 そしてこの静かな朝が、

 彼女の人生で最後の「何も起こらない日」になることを、

 アリシア自身も、まだ知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る