毒使いと、小さな弟子【短編】

キタノユ

第1話 龍の毒使い

 その夜、ただひとりの手によって、砦は落とされた。


 月明かりさえも厚い雲に遮られた、凪之国の辺境。

 濃密な闇が、おりのように森の底へと沈殿していた。


 湿った草いきれと土の匂いが立ち込める中、繁茂はんもする羊歯しだの陰に、十数の影が息を潜めている。

 凪之国軍による、匪賊ひぞく討伐隊である。


 視線の先、木々が切り開かれた開けた場所に、粗末な柵で囲われた砦があった。

 周辺の村々を襲い、略奪と非道を繰り返す盗賊団の根城である。


 隊を率いる隊長は、苛立ちを抑えるように革の甲当てをきしませた。

 膠着こうちゃく状態は数日に及んでいる。


 砦は山間に点在する集落への喉元をやくするように築かれていた。

 力づくで攻め立てれば、きゅうした賊どもは背後の村々へと雪崩なだれ込み、そこを新たな盾として暴れ回るだろう。

 集落そのものを人質に取られているに等しい地理的条件が、討伐隊の手足を縛っていた。


 深更しんこうの静寂の中、聞こえるのは虫の羽音と、賊たちの下卑た笑い声のみ。張り詰めた緊張が、隊の体力をじりじりと削いでいく。


 その時だった。

 音もなく、気配もなく。

 闇が凝縮したかのような人影が、隊長の背後に現れた。


「うっ」

 隊長が喉の奥で悲鳴を殺し、反射的に柄へ手をかける。

 だが、相手の姿を認めるや、その手は空中で止まった。


 闇から現れたのは、一人の男。


 漆黒の半袖装束。無駄な装飾を一切削ぎ落とした戦衣の上から、使い込まれた革帯が腰と二の腕にきつく巻き締められている。

 腕章の革帯は刃物差しを兼ねていて、研ぎ澄まされた苦無や千本を差されていた。


 そして最も特徴的なのは、顔を覆う、禍々しくも美しい、黒豹の仮面だ。


「……一師いっしか。驚かさんでくれ」

 壮年の隊長は、無精髭の上にため息を吹きかけた。


「隊を動かせるか」

 仮面の奥から響く声は、夜気のように冷たく、抑揚がない。

「ああ。いつでも」


 男の片手が、木々の向こうに見え隠れする砦を、指し示した。

 雲の切れ間から漏れた微かな月光が、男の手甲を照らす。

 鈍く光る銀盤に刻まれているのは、珠を抱く龍の紋章。


 周囲の兵たちが息を呑む気配が伝播でんぱんする。

「龍……」

「ありがたい、これで、勝てる」

 畏怖と安堵が入り混じった囁きが、さざ波のように広がった。


「風は回った。次の鐘が鳴ると同時に突入を」

「本当か」

「問題ない。俺も後に続く」

 それだけ言い残すと、藍鬼は隊長に背を向け、砦を見渡せる高枝へ飛び移った。


 やがて、遠くの集落から時刻を告げる鐘の音が響いてきた。

「突入!」

 ときの声と共に、討伐隊は柵を乗り越え、砦へと雪崩れ込む。


 だが。

 死闘を覚悟していた隊員たちの目に映ったのは、異様な光景だった。


 見張り台にいたはずの弓兵は、白目を剥いて床に崩れ落ちている。

 広場で酒盛りをしていた賊たちは、泡を吹き、痙攣けいれんしていた。


 襲撃に気づいて砦から飛び出してきた賊たちも、尋常ではなかった。

 刀を抜こうとして立てず、自分の足で絡まって転倒する者。

 見えない敵に怯え、虚空に向かって悲鳴を上げ続ける者。


 砦の中は、微温ぬるい地獄と化していた。


 討伐隊は刀を振るうことさえなく、無力化された賊たちを次々と縛り上げていく。

 戦いと呼ぶにはあまりに一方的な、掃除のような制圧劇だ。


 隊長は、縛り上げられた賊の頭目が、脂汗を流して震えている様子を見下ろした。

 外傷は一つもない。

 だが瞳は焦点が合わず、口端からは泡があふれ、うわ言を繰り返している。


 すべてが終わった後、隊長は森の入り口へと振り返った。

 言葉通り、悠然とした足取りで砦へ足を踏み入れる仮面の男の姿がそこにある。


「これが、龍の実力……」

 誰かの呟きが、森の静寂に吸い込まれていった。


 その夜、ただひとりの手によって、砦は陥落した。

 黙々と、己の成果を眺める仮面の男の姿を、討伐隊たちは畏怖の念で見送った。

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