人族の勇者と魔族の勇者の後日談 同じ戦争を記した二つの記録

雪溶晴

人族の勇者と魔族の勇者

 私は最初に、その文書を手に取った。


 表紙は白く、厚い紙で丁寧に装丁されている。角はわずかに摩耗しているものの、破損はほとんどなく、保管状態は良好だった。背には金の箔で簡潔な装飾が施され、王都の記録庫で管理されていたことが一目で分かる。


表紙中央には、整った文字でこう記されていた。


『人族の勇者アルトの記録』





 この文書は、人族領に残されていた戦時記録と、勇者アルト自身の手記、ならびに当時を知る者たちの断片的な証言をもとに再構成されたものである。


・決戦に至るまで


 人族の勇者アルトが前線に送られたのは、まだ二十年にも満たない頃だった。


 彼が生まれ育った村には、小さな石碑があった。欠け、風化し、苔に覆われ、刻まれた文字の半分はもはや判読できない。それでも、残された一文だけは誰の目にも明らかだった。


『魔族に備えよ』


 英雄の名も、勝利の年号もない。ただ警句だけが残されている。その石碑が誰によって、何をきっかけに刻まれたのかを知る者はいなかった。だが村人たちは疑わなかった。疑う理由を持たなかったからだ。


 魔族は恐ろしい。魔族は敵である。それは教えられた知識というより、空気や天候のような前提だった。雨が降れば濡れるように、魔族は憎むべき存在なのだと、誰もが自然に受け入れていた。


 魔族との戦争は、アルトが生まれる以前から続いていた。その時点ですでに数百年の歴史を持っていたとされるが、正確な開戦年を語れる者はいない。年代記は戦火で焼け、写本は都合よく書き換えられ、残されたのは断片的な被害報告と、敵意を正当化する言葉だけだった。


――かつて、魔族は人族を襲った。


 それが、すべての前提だった。焼かれた街。奪われた命。泣き叫ぶ民。アルトは幼い頃から、その情景を繰り返し聞かされて育った。語る者によって細部は異なっていた。炎の色も、悲鳴の数も、登場する英雄の名も一定ではない。それでも、語りの結末だけは常に同じだった。


 魔族は脅威であり、排除すべき存在である、と。


 勇者として選ばれた日、アルトは神殿に招かれた。白い石造りの回廊は冷たく、足音が異様なほど響いた。司祭たちは厳かな声で祝福を唱え、民は期待と畏怖の入り混じった視線を彼に向けた。祝福の言葉は祈りであると同時に、役割の宣告だった。


 人族を守れ。魔族を滅ぼせ。


 そこに理由は添えられなかった。理由を問うこと自体が、想定されていなかったのだ。


 その夜、アルトは眠れなかった。称賛の言葉と期待の重さに押し潰されながら、胸の奥では、何かが静かに削り取られていく感覚だけが残っていた。それが何なのかを理解する前に、翌朝には前線行きが決まっていた。


 前線での日々は、単調で、そして消耗するものだった。魔族の斥候を討ち、村を護り、陣地を奪い返す。戦場は場所を変え、季節を変えながらも、やることは変わらない。勝利のたびに歓声が上がり、敗北のたびに憎悪が深まった。アルトは常にその中心に立たされ、象徴として扱われた。彼が剣を掲げれば士気は上がり、彼が傷を負えば民は不安に揺れた。いつしか彼自身の感情は、戦況の一部として扱われるようになっていた。


 戦場では、敵の顔を見る余裕はなかった。叫び声は意味を持たず、倒れる存在は数として処理された。そうしなければ、心が耐えられなかったからだ。


 ある日、焦土となった集落で、アルトは瓦礫の下から小さな遺体を見つけた。焼け焦げ、年齢も種族も判別できない。その重さを腕に感じた瞬間、胸の奥がきしむように痛んだ。だが報告書には、簡潔にこう記された。


『魔族による被害』


その一文が、疑問の入り込む余地を消し去った。事実よりも、分類の方が重い世界であった。


・決戦前夜


 アルトは、その日を「決戦前夜」と記している。赤く濁った空の下、大地は異様な静けさに包まれていた。風は止み、虫の声すら聞こえない。まるで世界そのものが、翌日に訪れる惨禍を予期して息を潜めているかのようだった。野営地には焚き火が点々と灯り、兵士たちは槍や盾を整えながら、小声で言葉を交わしていた。故郷の話、家族の話、帰還した後の夢の話。そして、決して口にされない明日の話。


 恐怖を認めることは、正義を疑うことと同義だった。


 アルトは剣を膝に置き、炎を見つめていた。その剣は代々勇者に受け継がれてきたものであり、人族を守る象徴でもある。刃に刻まれた無数の傷は、歴代の勇者が積み重ねてきた戦争の痕跡だった。


 なぜ、この戦いは続くのか。なぜ、終わらせられないのか。問いは何度も浮かんだが、答えを探すことは許されていなかった。勇者は迷いを持たぬ存在でなければならない。迷いは弱さであり、弱さは敗北につながる。


 夜半、斥候から報告が届く。魔族の動きは鈍く、陣を固めている様子もない。退却しているようにも見える、と。参謀たちは地図を囲み、罠の可能性、補給線、地形について議論を重ねた。それでも結論は変わらない。


『魔族は脅威だ。逃せば、再び襲ってくる』


 アルトは黙ってその言葉を聞いていた。意見を述べることは求められていない。彼の役割は、翌日、剣を振るうことだけだった。


 夜が更けるにつれ、野営地は静まり返る。眠れぬ者の吐息と、遠くで鳴る焚き木の爆ぜる音だけが闇に溶けていった。


・ 決戦当日


 夜明けとともに、角笛が鳴り響いた。


 低く長い音が空気を震わせ、人族の軍勢は一斉に動き出す。鎧が擦れる音、足並みを揃える音が重なり、巨大な生き物が目を覚ましたかのようだった。勇者アルトは先頭に立ち、剣を掲げる。その姿を見て、兵士たちは進んだ。彼が前にいる限り、恐怖は押し殺される。勇者がいる。それだけで、人族は正義でいられた。


 戦場は、瞬く間に混沌と化した。叫び声、血の匂い、折れた槍、倒れる仲間。地面はぬかるみ、足を取られた者から命を落としていく。アルトは考えることをやめ、ただ剣を振るい続けた。


 一度、白髪の魔族が膝をついた。武器を捨て、何かを叫びながら両手を差し出してくる。その声は言葉として理解できず、周囲の兵士たちは動揺した。


 誰かが叫ぶ。罠だ、と。

 

 次の瞬間、その魔族は倒れていた。アルトは止めることができなかった。止める理由を、見つけられなかった。


 戦線は徐々に森へと押し込まれていく。視界は悪く、足元は不安定だった。森の外縁を巡回していたとき、アルトは一体の魔族と遭遇した。距離は近く、互いの息遣いが分かるほどだった。相手は大柄で、異形の角を持ち、明らかに「魔族の兵器」だった。だが、その魔族はすぐには襲いかかってこなかった。


 武器が、下げられていた。罠かもしれない。時間稼ぎかもしれない。そう理解しながらも、アルトは剣を振るえずにいた。


「……退け」


 通じないと知りながら、言葉を発する。魔族の兵器は首を傾げ、ゆっくりと片手を上げた。その仕草に、アルトは一瞬だけ、別の可能性を見た気がした。もし言葉が通じていたなら。もしここが戦場でなければ、と。


 だが背後から響いた叫びが、その思考を断ち切る。魔族だ、と。アルトは剣を構え直した。それが、自分の役割だった。


 その後の戦闘について、アルトは多くを語っていない。ただ、魔族を退け、人族が優勢を保ったことだけが淡々と記されている。


手記の終盤、文章は急激に簡素になる。


『魔族を退けた』

『被害は最小限だった』

『作戦は成功した』


 最後に、まるで自分自身に言い聞かせるように、こう記されている。


『私は、人族の勇者である。それで十分だ』


・追記:記録に残らなかった出来事


 年代記には記されていないが、アルトが勇者として各地を転戦していた頃、幾度も不可解な出来事が起きていた。魔族の集落を焼いた翌日、その土地だけが異様に早く荒廃したこと。討伐したはずの地で、数年後に再び同じ規模の魔族が現れたこと。補給線を断ったはずの敵軍が、なぜか飢えることなく戦い続けていたこと。


 参謀たちはそれを『魔族特有の性質』と呼び、説明を終わらせた。アルトもそれ以上は問わなかった。問いを立てることは、剣を振るう手を止めることだったからだ。また、戦場で倒れた魔族の遺体を調べた際、幼体や老体が混じっていることもあった。それは報告書では常に『偽装』と処理された。アルトはその処理に違和感を覚えたが、勇者の役割にそれを修正する権限はなかった。


・決戦前夜・補遺


 決戦前夜、アルトは一人で陣地の外に出ていた。星は見えず、空は低く垂れ込めている。彼は剣を地面に突き立て、膝をついた。祈りの言葉は浮かばなかった。人族の神は常に勝利を与えてきた。ならば、今さら願う必要はない。勇者とは、祈られる側の存在だからだ。


 それでも、胸の奥に沈殿する感情があった。それが恐怖なのか、疑念なのか、あるいは疲労なのか、アルト自身にも分からなかった。遠くで魔族の角笛が鳴った。その音は不思議と、威嚇よりも合図に近く聞こえた。


・決戦当日・追記


 戦闘が最高潮に達した頃、アルトは再び“あの存在”を視界に捉えた。


「魔族の兵器」


 圧倒的な魔力反応、異様な静けさ。周囲の魔族兵が距離を取っていることからも、それが特別な存在であることは明らかだった。アルトは剣を構えた。相手もまた、こちらを見ているようだった。ほんの一瞬、戦場の音が遠のいた。


 もし、この距離で言葉が交わせたなら。もし、この戦場でなければ。そんな仮定は、剣を振るう理由にならない。


 次の瞬間、怒号が戻り、兵士が倒れ、視界が血に染まった。二人は再び群衆の中に飲み込まれ、交わることはなかった。


・記録者の注記


 アルトはこの戦いの後も生き延び、多くの戦場に立った。彼は英雄と呼ばれ、銅像が建てられ、名は教本に刻まれた。だが、彼自身が抱いた疑問や、言葉にならなかった感情は、どの文書にも残されていない。それらはすべて、勇者という役割の中で摩耗し、消費されたからである。


以上が、人族側に残された文書の内容である。





私は次に、もう一方の文書を手に取る。


表紙は硬く、黒ずんだ革で覆われていた。人族側の文書と比べると保存状態は悪く、角は欠け、焼け焦げた痕がそのまま残されている。装飾はなく、ただ一行だけ、簡素な文字が刻まれていた。


『魔族の勇者ヴォルグの記録』





 この文書は、魔族領に残されていた戦時記録と、魔族の勇者ヴォルグ自身の記述をもとに再構成されたものである。


・勇者になる以前


 魔族の勇者ヴォルグが生まれた集落は、すでに地図から消えていた。山と森に囲まれた小さな集落だったと記録にはあるが、正確な位置は分からない。なぜならその集落は、人族の侵攻によって何度も破壊され、そのたびに再建され、最終的には完全に失われたからだ。


 魔族にとって、人族は「襲ってくる存在」だった。理由は語られない。始まりも説明されない。ただ、人族は現れ、刃と火をもたらし、去っていく。


 ヴォルグが幼い頃、大人たちは夜になると必ず火を消した。泣き声は抑えられ、怪我をしても声を上げてはならなかった。人族は光と音を合図にやってくる。そう教えられていた。


 ある夜、その合図は突然破られた。


 炎が上がり、理解できない言葉が飛び交い、集落は一瞬で戦場になった。逃げ惑う影の中で、ヴォルグは何が起きているのか理解できなかった。ただ、次々と倒れていく同族の姿だけが記憶に焼き付いた。


生き残った者は少なかった。


 その後、ヴォルグは魔族の軍に引き取られる。そこには彼と同じように、人族によって居場所を失った者たちが集められていた。彼は「勇者」と呼ばれた。だがその言葉に、称賛の響きはなかった。


・正義としての役割


 魔族の勇者ヴォルグは、理由を教えられなかった。教えられたのは指示だけだった。


人族は襲ってくる。立ち向かえ。生き延びろ。


 それが魔族の正義だった。訓練は厳しく、容赦がなかった。武器の扱い、魔術、耐久、集団戦闘。感情は邪魔だと、繰り返し叩き込まれる。迷えば死ぬ。躊躇すれば仲間が死ぬ。勇者とは、迷わない存在であるべきだとされた。


 ヴォルグは従った。従うことでしか、生き残れなかった。


 初めて戦場に立った日のことを、彼は断片的に記している。


 地面が震え、遠くから金属音が響いていた。恐怖は確かにあったが、それを考える余裕はなかった。隣に立つ同族が倒れ、次の瞬間には自分が前に出ていた。


 その日、ヴォルグは多くを守れなかった。それでも「役割は果たした」と記録された。


 それ以降、彼は繰り返し最前線に立たされる。勇者とは、最も危険な場所に配置される存在だ。生き延びること自体が、人族全体への抑止力になると考えられていた。


 人族の軍は統率され、数が多く、何よりも確信を持って進軍してきた。理解できない言葉で何かを叫びながら、迷いなく刃を振るう。倒しても、倒しても、人族は現れた。


 ヴォルグは次第に、「守る」という行為が何を意味するのか分からなくなっていった。守ったはずの土地は失われ、守れなかった者の名だけが増えていく。それでも、戦いは続いた。


・決戦前夜


 その夜、魔族の陣は異様な静けさに包まれていた。昼間まで絶えず聞こえていた斥候の報告や、武器の手入れの音さえ止み、ただ風が森を揺らす音だけが残っている。焚き火は最小限に抑えられ、光は土嚢や岩陰で隠されていた。人族は光と音を目印に襲ってくる。それは、長い戦争の中で魔族が身をもって学んだ教訓だった。


 斥候からもたらされた報告は簡潔だった。人族の大軍が、夜明けと同時に森へ踏み込む。退路は限られ、これ以上の後退は集落そのものの消滅を意味する。


 指揮官たちは短い言葉で意見を交わし、迎撃を選んだ。逃げ続ければ、いずれ滅びる。滅びないためには戦わなければならない。それが魔族の正義だった。


 ヴォルグは武器を整えながら、低く垂れ込めた空を見上げていた。星は雲に隠れ、月の輪郭さえ曖昧だった。湿った空気が肺に重く残り、呼吸のたびに戦場の匂いが近づいていることを実感させる。


 陣の端では、若い兵たちが声を潜めて何かを話していた。故郷の話か、あるいは戦が終わった後の話か。ヴォルグには分からない。ただ、その声がすぐに途切れたことだけが分かった。勇者の前で、希望を語ることは許されていなかった。


 この空を、「人族の象徴」も見ているのだろうか。そんな考えが浮かび、すぐに打ち消した。考える必要はない。勇者は、ただ与えられた役割を果たすだけだ。


 ヴォルグは剣を握り直し、刃の欠けを指でなぞった。何度も研がれ、何度も血を吸った武器だ。これが折れた時、自分の役割も終わるのだろうか。そんな疑問も、記録には残されなかった。


 夜明け前、短い命令が下る。


「準備を」


それだけで、十分だった。


・決戦当日


 夜明けと同時に、戦闘は始まった。森の外縁で人族の軍と激突する。太陽が昇る前から、地面は振動し、遠くで金属同士がぶつかる音が連なっていた。人族の陣形は整っており、旗と号令に従って、迷いなく前進してくる。刃が交わり、叫び声が響き、地面は血と土でぬかるんだ。倒れた者の身体を越えて、次の者が踏み込んでくる。戦場では、個の存在はすぐに意味を失う。


 ヴォルグは最前線に立ち、迫る人族を迎え撃った。考えることはなく、体は訓練通りに動いた。剣を振るい、魔術を放ち、退く仲間の背を守る。時間の感覚はすぐに失われる。倒した数も、失った数も、正確には分からない。ただ、前に進み、押し返し、やがて押し戻される流れの中に身を置いていた。


 一度、人族の兵が膝をついた。武器を捨て、何かを叫んでいた。意味は分からない。だが、その声に恐怖以外の感情が混じっていることだけは感じ取れた。懇願か、怒りか、それとも別の何かか。


 次の瞬間、その兵は背後から討たれていた。


 戦場では、立ち止まることが死を招く。その場に残ったのは、理解できなかった言葉と、動かなくなった身体だけだった。


 戦線は次第に押され、魔族は森の奥へと退いていく。予定されていた防衛線は次々と突破され、地形の利も次第に失われていった。撤退の途中、ヴォルグは何度も振り返った。そこにあったのは、守ると決めた土地ではなく、すでに戦場として踏み荒らされた通過点だった。


 その混乱の中で、ヴォルグは一人の人族と向かい合った。距離は近く、互いの息遣いが分かるほどだった。装備も佇まいも、明らかに特別な存在。


「人族の象徴」


 ヴォルグはそう直感した。同じ役割。同じ立場。同じように、選ばれた存在。


 だが、その人族はすぐには襲ってこなかった。剣を構えながらも、踏み込んでこない。


 その沈黙の中で、ヴォルグは初めて思った。この戦争は、本当に必要なのか、と。


 ヴォルグは、無意識のうちに武器を下げていた。言葉が通じていたなら、何か言っていたのかもしれない。


 「人族の象徴」が何かを発した。音としては聞こえたが、意味は分からなかった。ヴォルグは首を傾げ、片手を上げる。その瞬間、背後から殺気が走る。


 人族だ。


 ヴォルグは身を翻し、戦闘に戻った。それが、勇者の役割だった。


・その後


 この戦いで、魔族は後退した。多くを失い、土地を捨て、森のさらに奥へと追いやられた。


 記録には簡潔にこう残されている。


『人族の象徴の存在により、戦況は不利に傾いた』


 ヴォルグ自身の記述は短い。


『生き残った』

『守れなかった』

『それでも、立ち向かう』


 最後に、こう記されている。


『私は、魔族の勇者である。それで十分だ』


・補記:後年の編纂者による注釈


 この文書は、後年になって魔族領の奥地で発見された断片的な記録をもとに再編されたものである。原本には、現在残されている版よりも多くの行間と、個人的な感情を示す表現が含まれていたとされる。しかしそれらは、編纂の過程で削除、あるいは要約された。


 理由は明確だ。戦争は続いていた。そして勇者は、迷いのない存在として記録される必要があった。


 森で「人族の象徴」と対峙した場面について、原文には沈黙や逡巡を示す描写が存在したと記されている。だが現存する文書では、その出来事は「遭遇」「交戦未満」「戦線復帰」という言葉に置き換えられている。


 個人の感情は、戦況の把握には不要と判断された。こうして、魔族の勇者ヴォルグは、一人の存在ではなく、役割として記録されていった。


 後の年代記において、彼の名は次第に用いられなくなる。


 魔族の勇者。


 それは個人ではなく、周期的に現れる存在を示す呼称となった。


 最後に、編纂者はこう結んでいる。


『勇者は、その時代の正義として機能した』





 私は二冊の文書を閉じ、棚に戻した。人族の勇者と魔族の勇者の物語は、それぞれの文書に残されていた。どちらも正しく、どちらも不完全で、どちらも真実の一部でしかなかった。正義が正義として機能した記録だけだった。


 この二つの文書が、同じ出来事を指していると気づいた者はいない。


 そして、気づく必要もなかったのだろう。


 戦争は続き、それぞれの正義は更新され続けるのだから。

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人族の勇者と魔族の勇者の後日談 同じ戦争を記した二つの記録 雪溶晴 @yuki_doke

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