第37話「春馬の変化」
若宮家への訪問を翌日に控えた夜、箕島家のリビング。春馬は、蒼奈から受け取った水色のパーカーを、ごく簡潔な荷物(筆記用具、観測ノート)と共にバッグに詰めていた。母の春那が、そのパーカーに目を留めた。
「春馬、そのパーカーは?」
春那の声には、驚きと、わずかな警戒心が混じっていた。春馬の服装の『孤独の最適解』(グレーや黒)から著しく逸脱した、非論理的な明るさを持つ異物だったからだ。
「最近買ったんだ。観測ツールとしてな」
春馬は、感情を排除した『論理的な調達経費』という事実だけを報告した。
「春馬が服を買うなんて……珍しいわね。極めて非効率な行動だったでしょう?」
「その通りだ。だが、俺のシステムにとって、必要な経費だった」
「必要な経費……。あ!もしかして、この前蒼奈ちゃんとショッピングモールに行った時に買ったのかしら?」
春那の推測は、春馬の観測データを正確に追っていた
。
「……そうだ」(声は小さく、観測データへの入力のような囁きだった)
春那の静かな問いかけに、春馬は、あの時の「論理的な屈辱」と「蒼奈の防御」という、トラウマの符号にまつわる一連の出来事を報告し始めた。
「若宮と俺がショッピングモール内を歩いている時、同じ高校の女子グループと遭遇した。その時、女子は俺を侮辱した。若宮といるという事実がありえない、罰ゲームで俺と一緒にいるのではないかと言われた」
春馬の声には、過去のいじめの記憶がフラッシュバックしたような、微かな震えが混じった。
「そんな時に若宮は俺を守ってくれた。論理的な防御壁を提供してくれた。それに進路を含めて色々な話をした。そんな事があって俺は若宮に対して、感謝というか助けてもらった礼儀として何かしたいことに付き合うと言った」
「若宮はアパレルショップで服を買うと言ったが、結果的に俺の服を選ぶことになった。そして、俺は若宮が選んだこのパーカーを観測ツールとして買った」
春那は、春馬の言葉を静かに聞き終えると、目尻を細めた。
「そう。蒼奈ちゃんはいい子ね」
「春馬が今まで見てきた女の子と比べて、違うんじゃないのかしら?優しさを『計算された悪意』だと定義する春馬のシステムが、防御壁として承認した子よ」
春馬は、春那の核心を突く質問に、長い沈黙で応じた。彼の脳内では、「優しさ」と「脅威」の演算が激しく衝突していた。
「そうだな。脅威だ」
「ふふっ。『脅威』。それは春馬なりの褒め言葉ね。いつもの春馬なら、何も言うことがないから」
春馬は、母のからかいを無視し、最も重要な高リスクな報告へと移行した。
「そんなことはどうでもいい。それよりも……」
春馬は言葉を濁し、わずかに視線を逸らした。
「何かしら?」
「今度、若宮の家に行くことになった」
春那は、一瞬信じられないという顔をした後、からかうような笑顔になった。
「え?!春馬が女の子の家?」
春馬の動揺を十分楽しんだ後、春那は真剣な顔に戻った。
「春馬、大丈夫なの?」
「女性不信な春馬がずっと蒼奈ちゃんと関わっていることは知っているけど、家だなんて……無理してない?アンタの生存戦略に反する行動よ」
春馬の女性不信のトラウマの根源を知る母の言葉は、春馬の本音を引き出した。
「正直、不安が大きい。俺のシステムが、制御不能な非論理的な変数に晒されるのは、最大のリスクだ」
箕
「ただ、二時間だけだと言われた。もし、少しでも悪いことが起きたら、観測を中断してすぐに帰ってくるつもりだ」
春那は、春馬のその言葉を聞いて、しみじみと頷いた。
「春馬は変わったわね。今まではどんな事があっても、女の子の接触を拒絶していたのに」
「『不安』を抱えながらも、『二時間だけ』という制限付きの承認を出した。それは、春馬にとって、蒼奈ちゃんといることで得られる『楽しさ(E_{fun})』という利益が、『不安(L_{anxiety})』という損失を上回ったという論理的な結論が出たということよ」
春那はからかうように、優しく微笑んだ。
「春馬を変えた蒼奈ちゃんは、相当魅力的な女の子なのね」
「俺は脅威と言っただけだ。そんなことは一言も言っていない」
「ふふっ。口にはしなくても、ちょっとは思っているんじゃないのかしら?」
春馬は、母の論理的なからかいから逃れられず、小声で答える。
「……分からない」
春那は水色のパーカーに目を移した。
「このパーカーは、これから着るのよね?」
「あまり着ることはないが、たまに着る」
「その『たまには』というのは、今度蒼奈ちゃんの家に行く時かしら?」
「そうだ。若宮に着ろみたいなことを言われたからな。観測ツールとしてだ」
「そう。『観測ツール』ね。ふふ、春馬は本当に変わったわね」
「とりあえず、今度若宮の家に行くということだけだ。俺からは以上だ」
春馬は会話を打ち切り、パーカーをバッグに押し込んだ。春那は、春馬の論理の裏にある動揺と、わずかな期待を愛情深く観測するのだった。
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