第7話「調査をしていたはずが」


翌日、午前の授業中。


【第六話】の宣言通り、俺の『若宮蒼奈の論理的解体記録』は、授業中も継続された。


俺は、黒板に書かれた数学の公式 y = ax^2 + bx + c ではなく、隣の席でノートを取る若宮蒼奈の微細な行動に意識の大部分を割いた。これは、論理の証明のために必要な、最も優先度の高い活動だ。

蒼奈は、黒髪のハーフアップを揺らしながら、時折ペンを止めて考える素振りを見せるが、その表情は常に穏やかで、警戒心や悪意は全く検出されない。


解析プロトコル:

『クラスメイトへの接触パターン』。彼女は、休み時間になると数人の女子グループと楽しそうに会話するが、その中心に居座ろうとする自己顕示欲は見られない。受け身で、相手の話題を増幅させることに注力している。これは、絶対評価を持つ者としては極めて非効率な行動であり、パターンB(メリット追求)の行動原理と矛盾する。


俺は、観察結果を鉛筆の先で極小の文字にしてノートの隅に記録した。


その時、異変が起きた。


蒼奈が、ノートに何かを書きつけた後、小さく折りたたんだ紙切れを、俺の机の中央に、わざと先生に見つからないように滑らせてきたのだ。


俺の心臓が、微かに跳ねる。


接触コード! 目的不明。紙幣、メモ、脅迫文か? すべての可能性を計算しろ!


俺は、一瞬で紙切れを掴み取り、不敵の笑みを微動だにさせないまま、それを開いた。


そこに書かれていたのは、論理でも、脅迫でも、愛でもなかった。


『今日の給食、鯖の味噌煮だよ!やったね!』


――鯖の味噌煮?


俺の論理回路は、その非論理的な情報の処理に一瞬フリーズした。なぜこの女は、無益極まりない給食のメニューを、わざわざ秘密裏に俺に伝えようとする?


「何を馬鹿なことを」


俺は、極力声を殺して吐き捨てた。


「こんな非効率で無意味な情報を、なぜ俺に伝達する?君の研究に、何のメリットがある?」


蒼奈は、まるで秘密の作戦が成功したかのように、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、俺の全ての論理を無力化する。


「だって、春馬くん。あなた、鯖の味噌煮、好きでしょ?」


俺の身体が、一瞬硬直した。


なぜ、それを知っている? 俺の給食の嗜好は、どこにも公開されていないプライベートな情報だ。


「な、何を根拠に言っている」


「根拠? うーん……だって、前の週に鯖の味噌煮が出た時、春馬くん、口だけじゃなくて、目がちょっとだけ笑ってたから」


蒼奈は、まるで秘密の暗号を解読したかのように、無邪気な勝利を宣言した。


俺は、愕然とした。彼女の『研究』は、単なる論破合戦ではなかった。それは、俺の微細な感情の揺らぎを、論理の外側から徹底的に観察し、データ化していたのだ。


そして、彼女の非論理的な優しさ(鯖の味噌煮の事前伝達)は、俺の個人的な嗜好という、最もプライベートな部分にまで浸食してきた。


「君のその行動は、論理的な境界線を越えている。プライバシーの侵害だ。即座にその研究をやめろ!」


俺は、感情を露わにして警告した。健気な論理の鎧に、彼女の優しさという名の非論理的なナイフが、深々と突き立てられたからだ。


「やめないよ」


蒼奈は、俺の警告にも全く動じない。


「だって、研究の結果、春馬くんが少しだけ嬉しい顔をするという、論理的なメリットが見つかったんだもん」


俺は、彼女の「論理的なメリット」という言葉遣いに対し、強く反発した。感情を論理の範疇に収めようとするこの行為が、何よりも許せなかった。


「何を馬鹿なことを!俺が嬉しいか嬉しくないかなど、君に分かるはずがないだろ!」


俺は声を潜めつつも、強い拒絶を込めて言い放った。感情の主権は、俺自身にある。


「分かるよ。だって私、研究者だもん」


蒼奈は、まるで当然の事実を述べるように、にっこりと微笑んだ。


「春馬くんが『嬉しい』と感じた時の傾向は、

『口角が微かに上向き、同時に目の周りの筋肉が一瞬緩む』というデータが、昨日のお絵かきしりとりで取れている。今の春馬くんは、その傾向値の52%に達している」


春馬の脳内で、緊急アラートが鳴り響いた。


傾向値の52%? この女は、俺の微細な表情筋の動きを、全て数値化し、『嬉しい』という感情の定義を、俺の知らないところで勝手に完成させていたのか? 冗談ではない。俺の感情の主権は、完全に彼女に奪われつつある!


「それは、統計的な誤差だ! 一過性の筋肉の痙攣で、感情を定義しようとするな!」


俺は必死で、蒼奈のデータを論理的に切り崩そうとする。


「そうだね、誤差かもしれない。でもね、春馬くん」


蒼奈は、紙切れが置いてあった机の中央を、そっと指でなぞった。


「春馬くんが、『嬉しいかどうかなんて分からない』と論理的に反論し、目を逸らさなかったというデータは、100%、今、取れたよ」


そして、彼女は、俺の論理的拒否を、『研究』の成功データとして書き込むために、自分のノートにペンを走らせた。


「今日の研究結果:『箕島春馬の感情は、論理的な否定と同時に身体的な肯定を示す矛盾を持つ』。

これも貴重なデータだね!」

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