第5話「脅威」


昨日の出来事、若宮蒼奈との『お絵かきしりとり』――は、俺の人生の汚点だ。


そして何より、「楽しい」という、あの極めて非論理的で脆弱な感情を、わずか数分で彼女に引き出されたという事実は、俺の論理の絶対的な敗北を意味していた。


箕島春馬は、席に着くなり、隣で穏やかに参考書を開いている若宮蒼奈に、顔も向けずに静かに問いかけた。その声には、徹夜の分析で得た確固たる論理の剣を込める。


「若宮」


「はい、研究対象さん」

蒼奈は顔を上げず、楽しそうに返事をした。その能天気な応答こそが、俺への明確な非論理的干渉だ。


「君の行っている『研究』は、学術的な定義から見て、複数の重大な倫理的・論理的な欠陥を抱えている。まず、研究対象への説明責任の欠如だ。君は『負けの恐怖から解放する方法』をテーマとしたが、これは俺の自由意思に基づく承諾を得ていない。これは研究倫理の観点から見て、許容されない明白なルール違反だ」


蒼奈は、ようやくペンを置き、くるりと俺の方へ体を向けた。その瞳は、怒りや困惑ではなく、獲物を見つけたかのような純粋な興味で満たされている。


「ふむふむ。ルール違反、ね。じゃあ春馬くん。昨日『実験として付き合おう』って言ったのは誰かな?」


彼女は一言で、俺の倫理的防御の根拠を、俺自身の過去の言動によって打ち崩した。


「そ、それは……限定的な実験としてだ。恒常的な『研究対象』としての承諾ではない!」

俺は即座に言葉を修正し、論理の穴を埋めにかかる。


「次に、非効率性だ。君は昨日の実験で『楽しさ』という極めて主観的で再現性の低いデータを得た。このデータは客観的な論証に耐えられず、君のテーマである『解放』という結論に導くには、あまりに非効率的だ。その無駄な時間と労力があれば、君の絶対評価を維持するための、より有意義な学術的活動を行うべきだ」


俺は、彼女の行動のコストを突きつけ、合理的ではないことを示唆した。マドンナの行動原理は、常に合理性にあるはずだ。


「なるほど。春馬くんが言いたいのは、『研究が非効率で、私のメリットにならないから、いますぐやめろ』ってことだね? 自己保身ではなく、私を心配しているという論理?」


蒼奈は、俺の論理の裏側にある自己中心的ではないフリという偽善を指摘した。


「そうだ! それが、君にとっての最適解だ!」

俺は、焦りを隠しながら不敵の笑みを強く引き結んだ。

「でも、春馬くん。非効率性についてだけど、質問があるよ」


蒼奈は、ノートPCに向かい、SNSの画面を眺めている俺の横顔をじっと見つめる。


「春馬くんが、その『論理的な再構築』と称して

SNSで費やす時間と、私が春馬くんから『楽しさ』という新しい感情のデータを得るのにかかった時間、どちらが、箕島春馬という人間の『負けの恐怖からの解放という究極のゴールに対して、真に効率的だと思う?」


蒼奈の「論理のブーメラン」が、俺の最も痛い急所を正確に射抜いた。彼女の「研究」は、俺の自己の存在意義という、最も重要なテーマと、より直接的につながっている、と定義されてしまった。


「それは、比較対象が異なる! 俺のSNS活動は、破綻のない論理の優位性を証明する、自己肯定の儀式だ!」

俺は、テーブルを叩きたい衝動を抑え、机を強く握りしめた。


「比較対象は同じだよ。どちらも、箕島春馬という人間の、自己の存在意義を証明するための時間でしょ? そして、非効率な行動をしているのは、新しいデータを得ようとしない春馬くんの方じゃないかな?」


俺の頭の中で、全ての論理回路が赤く点滅する。この女の天真爛漫な洞察の前では、俺の論理は、ただの古いデータでしかなかった。

「……幼稚な論点すり替えだ。君は、論理をユーモアで誤魔化しているに過ぎない」

俺は、それが精一杯の抵抗だった。


「じゃあ、倫理と効率性の論破は、私の勝ちでいいかな? 研究対象さん」


蒼奈は悪意なく、勝敗のない遊びに、再び勝敗という概念を持ち込んだ。


そして、その言葉を聞いた瞬間、春馬の心に湧き上がったのは、論理的な敗北への激しい屈辱と、それを遥かに凌駕する得体の知れない感情だった。


それは怒りではなく――


若宮蒼奈という女、いや……人としての器の大きさを見せつけられたのか? 余裕感? 俺がこんなにも容赦なく、倫理と論理の欠陥を突きつけているのに、彼女はそれを感情的に拒絶せず、笑顔で対処し、論理的なブーメランとして正確に投げ返してきた。この反応は、彼女の絶対的な地位や過去のデータで得られた「計算高い女性像」から逸脱している。天然なのか? 天然という一言では、この一貫した知的な対応は片付けきれない。予測不能で、分類不能で、定義不能な、新しい種類の脅威だ――そんな、一つでは片付けきれない複雑な感情が、俺の中に生まれた。


春馬は、動揺から逃れるように、固く目を閉じた。


「今日の研究は終わりかな?」


蒼奈は、まるで何も起こらなかったかのように、穏やかな声でそう問いかけた。


「……勝手にしろ」


春馬はそれだけを絞り出すのが精一杯だった。


「ふふ。今日の研究結果。『箕島春馬は、論理的な敗北よりも、予測不能な感情に直面した時、より深く動揺する』。これも貴重なデータだね!」

蒼奈は満足そうに頷くと、鞄から帰りの準備を始めた。


「じゃあ、明日も研究を続けるね、研究対象さん!」


彼女はそう言い残すと、何事もなかったかのように扉へと向かい、静かに教室を出て行った。


俺の脳内は、再びアラートで満たされた。


【警告:予測不能な感情パターン検知。】

【警告:既存の論理体系との矛盾確認。】

箕島春馬は、論理と悪意で構築した自身の世界に、『人としての器の大きさ』という名の、最も強固な非論理的要素を組み込まれた。

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