禁猟区のアリス

月城 花宴

第1話

ここは……。


目を開けると、口から大きな空気の固まりが吐き出された。


どこか遠くで、パパが何かを叫んでいるが、わたしには聞こえない。


空っぽの肺は新鮮な空気を欲しがったけど、わたしはもう体を動かす力もなく、そのまま大量の水を吸い込んだ。



痛いことにも、慣れた。

苦しいことにも、慣れてしまった。


でも……。


ママが連れてきた新しいパパには、慣れることができなかった。


ママはわたしよりも、新しいパパが好きだ。新しいパパが来てから産まれたカルナには、とっても優しい。ママのお腹には、今も新しい赤ちゃんが入っている。



ちゃんとしなさい。きちんとしなさい。お姉ちゃんになるんだから。


わたしがちゃんとした子供でいないと、カルナにはアクエイキョウなんだって、パパが言った。ちゃんとした子供でいないと、カルナにアクエイキョウなんだって。だから、わたしが「ちゃんとした」子供になるために、パパがわたしをキョウイクする。


でも、「ちゃんとした」子供がなんなのか、わたしにはわからない。



冷たいお風呂に押し込められるのは、苦しい。叫べば余計に、息ができなくなる。


水に沈んだ耳の中で、トクントクンと鳴るのは、わたしの心臓だ。


その音が聞こえている限り、わたしはまだ生きている。水の中では、わたしが生きている音しか聞こえない。


「やっと目が覚めたかい?アリス」

目の前に座った男の子が、優しげな笑顔で尋ねた。



「アリ……ス?」


「そうだよ、君はアリスだ。目覚めの気分はどう?」



わたしは困って、辺りを見回した。


建物は半分地下になっているのか、四角く切り取られた中庭に、柔らかな午後の日差しが影を作っていた。



「アリスはまだ目覚めたばかり。そっとしてあげるのが、優しさってものだわ。デリカシーのないウサギね」


不機嫌そうなウエイトレスが、私の前に紅茶を置いた。


「また、妙なアリスを拾ってきたものね」と、ウエイトレスがウサギの前に湯気のたったミルクを置いた。



「あの……。わたし…」


「なにかしら?ああ、そう言えば、まだ紅茶は嫌いだったのよね」


黒い制服の胸元に青いリボンを揺らして、ウエイトレスがそう言った。言っただけで、紅茶を下げてくれる気はないみたいだ。



「デリカシーがないのは、黒猫も同じだと思うけど」


片肘をついて、ウサギが黒猫を見上げた。黒猫の青いリボンが揺れる。


「デリカシーの前に、あたしはプロですから」


やっぱり不機嫌そうに黒猫はそう言って、テーブルを離れた。



「どうやら本当に、アリスは僕のことも覚えていないらしい」


気付くとわたしをじっと見つめていたウサギが、ポツリと言った。



わたしは曖昧な笑みを浮かべて、紅色に透き通った液体に視線を落とした。


紅茶は、嫌いだ。でもどうして黒猫は、そんなことを知っていたんだろう。



食事をすることも許されず、小さな檻の中で、パパと、ママと、カルナが、美味しそうにおやつを食べているのを、わたしはただ見ているだけだった。


わたしの視線に気が付くと、パパは「卑しい顔をするな」と言って、熱い紅茶をわたしに浴びせた。


背中にも、足にも。


ヤケドはヒリヒリと痛んだが、ママはわたしを見ることなく、カルナと一緒に笑っていた。



わたしはママが笑っている顔が好きだった。


カルナと一緒のママは、いつも幸せそうだった。わたしを見る時とは、全然違う。



カルナにはタバコを押し付けたりしない。カルナのカラダは傷一つ無く、きれいなまま。カワイイカルナ。イトシイカルナ。


わたしは髪で顔を隠そうとして、それが、顔を隠せるほど長くない事を思い出した。切ったのはカルナだ。


カルナにとってそれは、ただの遊びだった。


檻の隙間から小さな手でわたしの髪を掴んで、はさみで切った。子供用の丸いはさみは、きれいに髪を切ることができず、刃に絡まった髪がブチブチと音を立てて、わたしの頭皮から抜けた。


パパもママも、カルナには何も言わなかった。だってカルナは、イイコだから。


ママは紅茶にレモンを入れる。


カルナはミルクティー。優しくて甘い、ミルクティー。


パパは角砂糖をひとつ。



わたしにとって、紅茶は幸せな家族の象徴だ。


わたしも欲しい。わたしも欲しい。


どんなに望んでも、手に入るわけがなかったが。それでもわたしは渇望した。何度も何度も。



今、目の前で湯気をたてている紅茶は、パパが飲んでいたのと同じものだろう。ソーサーに置かれたスプーンの上に、角砂糖がひとつだけ、乗せられていた。



「アリスは僕のことも覚えていない」

興味深そうにウサギが言った。


「忘れないでって、あれほど言ったじゃないか。僕のミルクには、いつも角砂糖を3つ入れるんだって」


ウサギはテーブルの上に顔を伏せて、ミルクのカップをわたしの方へ押した。組んだ腕の隙間から、ちらりとわたしを見ている。


わたしは仕方なく、テーブルの端に置かれた陶器のキャニスターから角砂糖を取り出して、3つ、ウサギのカップへそっと落とした。



「そんなに入れたら、甘すぎると思うわ」


銀のお盆に、やたら大きなサンドイッチを乗せて、黒猫が呆れたように言った。



「わかってないのは、黒猫の方だろ。何だい、その下品なサンドイッチは。ティータイムには、薄いキュウリのサンドイッチって決まっているじゃないか」


ウサギがわざとらしくため息をついた。



「ええ。ティータイムにホットミルクなのも、どうかと思うけどね。それに、これはカフェカメリアの看板メニュー。変える気はないわ」


黒猫がサンドイッチをテーブルに置いた。


「食べたくなければ、無理することないのよ。でも、キュウリのサンドイッチなんてお断り。どうしてもなら、よそへ行ってちょうだい」



ウサギは黒猫を横目で睨んで、テーブルをコツコツと叩き、迷う仕草を繰り返してから、サンドイッチの皿をわたしの方へ押しやった。食べないことに決めたらしい。



「わたしは、アリス、なんですか?」

小さな声でおそるおそる、わたしは尋ねた。


無意味な言葉は、許されない。ママの機嫌が悪くなれば、タバコだ。


わたしは目をぎゅっと瞑った。肉の焼け焦げる臭いがした気がした。



「君は、どう思う?」

ウサギが問い返した。


わたしには、答えが分からない。でも、わからないと言えば、パパが冷たい水の中にわたしを沈める。



ウサギは、ふぅっと長く息を吐いてから、ソファーの背もたれに体を預けた。


「ここでは、みんながアリスなんだ。君も、君以外も」


「わたし、以外?」


「そう。例外はないね。もちろん、ここから出れば、君はアリスではない誰か、だ」



「わたし以外の、誰か?」



「いいや違う。アリス以外の誰か、さ。アリスじゃなくなった時、君が何になるのか、僕にはさっぱりわからない」


ウサギはそう言って肩をすくめた。



「わからないなんてキレイゴト。本当は興味がないんでしょう」


青いリボンを揺らした黒猫が、意地悪げに言う。失礼な!とウサギが憤慨した。


「アリスがアリスでいる間、僕の興味はアリスだけだ」



誰かがわたしに興味を向ける時、それはいつも哀れみの目だ。その目は、可哀想とわたしに語る。


でも、それだけ。


次の瞬間には何もなかったように、彼らの日常へ戻っていく。わたしを助けてくれる人なんて、誰もいない。


それが、当たり前。


スーツを着た知らないおじさんがカテイホウモンに来た日は、いつも、ママの機嫌が悪くなる。でも。



ママハイツモヤサシイヨ。魔法の呪文を唱えれば、それで終わり。


お腹が空いても我慢するのがママとのお約束。どんなに寒くても、ママのオトモダチが来ている時は、家の中に入れてもらえないのもママとのお約束。


お約束を破ったら……。



カフェ…カメリア、だったかな。店内は暖かいのに、足下からぞわりと寒さが上ってきた。



「紅茶、飲まないの?」と、ウサギが言う。


体よりサイズの大きい真っ白なパーカーは、何度そでをまくり上げてもずるずると細い腕から滑り落ち、そのたびにウサギは袖をまくった。



紅茶はまだ温かそうに、湯気がたっている。


指先までがもう氷のように冷たい。それでもわたしは、カップを手に取ることができなかった。



「君は死んだんだよ、アリス」


くるくるとホットミルクをかき混ぜながら、何でもないことのようにウサギが言った。


わたしは両手で耳をふさぐ。水の中でトクントクンと聞こえていた、わたしの生きている音が、今は聞こえてこない。



「ギャクタイによるデキシ」歌うようにウサギが言う。



聞きたくはなかったが、反面、やっぱりなと、どこか諦めに似た気持ちがした。


デキシ。それがパパのキョウイクのせいだって、そのくらい、ウサギの顔を見なくてもわかる。



「そして罪状は、虐待による殺害」


ウサギは探るようにわたしを見つめて、にやりと笑った。


冷たい指先が、微かに震えた。



コツコツとエナメルのパンプスの靴音を響かせて、黒猫がピアノの前に座った。一音、優しげな音が鳴る。



「罪状……って…」


わたしは冷たい指先を両手で握って、ウサギに尋ねる。


ギャクタイによるデキシ、と、虐待による殺害、がうまく繋がらない。



ウサギは片手で頬杖をついて、ミルクのカップをかき回す。黒猫はしなやかな指先から、ゆったりと優しい音を鳴らす。



耳の中で水の音が聞こえた。


「罪状は罪状さ」



興味なさげに、ウサギが答えた。



「パパに殺されたことが、わたしの罪なんですか?」


声がかすれる。



「それとこれとは、少し違う。いや、同じか?でも、違う」



鳥かごの中では、色とりどりの熱帯魚が長いヒレを美しくたゆたわせて、たぐいまれな美声で唄を歌う。それは黒猫の奏でる音楽とは、微妙にずれた旋律だ。


小さな違いは、無意識の違和感となり、不協和音を奏で始める。



「アリス、君の死因はデキシだ。死んだ時7歳だった君の体重は、3歳児程度だった。体中を埋め尽くす、アザとヤケドの痕。わき腹にはハートのカタチにタバコの火が押し付けられていたよ。アリス。君のパパかママが、ハートのカタチになるように、何度も何度も君のカラダを焼いたんだ」



覚えている。それは、ママのオトモダチがやったんだ。だって、新しいパパは、タバコを吸わないから。


ママに「愛してる」って言いながら、わたしのわき腹に消えない焼き印を捺したのは、ママのオトモダチだ。


痛いと泣くとママはわたしを叩いた。


せっかくのアイのアカシを台無しにする気か、とヒステリックに叫んだ。


オトモダチがママへの愛を証明するために、わたしのカラダにハートの模様を焼き付けた。わたしの痛みなんて知らない笑顔で。



水槽の小鳥たちはみんな寒そうに膨らんで、寄り添い目を閉じている。たまに、クチバシからぷくぷくと小さな空気を吐き出しては、すべてを諦めたように眠りについた。



でも、そのオトモダチが新しいパパになることはなかった。



わたしのわき腹を見るたび、ママは不機嫌になり、わたしを殴る。


「君の死後、アリス。胃の内容物の中に紙おむつのカケラがいくつも混じっていたことは?」



「……思い出したくない」


「そう」



熱帯魚の歌声と、黒猫のピアノ。ひび割れた不協和音はだんだん、広く、深く。



「思い出したくないなら、構わない。僕も全部が知りたいわけじゃない」


ウサギはパーカーのそでをまくって、パチパチとまばらな拍手をした。



黒猫は制服のスカートをふんわり揺らして、満足そうにお辞儀をした。



「へたくそ」


通り過ぎる間際、ウサギが黒猫に悪態をついた。



「あんたよりはマシよ」


黒猫が一瞬顔をしかめてから、ウサギの隣に座った。



「サボってないで仕事をしろよ」


「あら。じゃあもう一曲弾こうかしら」

黒猫が答えると、ウサギは肩をすくめた。



「その前に、アリスに紅茶のおかわりだろ。もう飲み終わってるじゃないか。黒猫、君の次のセリフは、新しい紅茶はいかがですか?だ」


ウサギがわたしのカップを指さした。ウサギの言うとおり、わたしのカップはいつの間にか空になっていた。



角砂糖ひとつはパパの紅茶。


香りの良いその飲み物を、わたしは飲んだことがない。でもカップの中には、何も入っていない。



黒猫は黙って空のカップを銀のお盆に乗せた。


ウサギを見ることもなく、無言。


ウサギは長い黒髪の後ろ姿を見送って、やれやれと呟いた。



「あの紅茶……」


それが不思議だった。指先は、まだ冷たい。足は、氷の上を歩いているみたいだ。



「君が飲んだんだろう」


一呼吸置いて、ウサギが言った。


「だって君はいつも、紅茶には角砂糖をひとつだったじゃないか」



違う。紅茶に角砂糖を入れるのは、パパだけだ。


ママはレモンティー。カルナは甘いミルクティー。


わたしはそのどれも、飲んだことがない。



あの楽しそうなおやつの時間を思い出して、お腹がぐぅっと音を立てた。卑しい顔をするなと怒る、パパの声が聞こえた気がした。


食べたら、いけない。


わたしはとっさにお腹を押さえて前屈みのまま、おそるおそるウサギを見上げた。


ウサギは、やたら大きなサンドイッチの乗った皿に視線を向けて、「食べたければどうぞ」と言った。



「僕は、ティータイムには薄いキュウリのサンドイッチしか認めないけど」


そう言われてわたしは、伸ばしかけた手を止めた。


意地汚い。みっともない。盗み食いするつもりか。


記憶の中でヒステリックなママが怒鳴る。



わたしは目を伏せて、サンドイッチを意識の隅に追いやった。


「ウサギの言う事なんて、気にすることないのよ。食べたければ食べればいいじゃない。これはあなたの物。誰も怒ったりはしないわ」


黒猫が温かそうな湯気のたったマグカップを置いた。



紅茶と違って、入っているのはココアだ。甘い甘い、幸せの香り。黒い液体の上には、半分溶けかかったマシュマロが乗っていた。



「そういうの、シンリテキコントロールって言うのよ」


黒猫が横目でウサギを睨んだ。



「僕は僕の意見を言ったまでさ。アリスはアリスの思うようにすればいい。アリスの行動を決めるのは、僕じゃない」


「表面上はね。でも、あんな言い方をしたら、食べづらいじゃない」



「僕の言うことを気にするなと言ったのは、黒猫だろ?」


不貞腐れたようにウサギが言った。黒猫はしなやかな指先で、マグカップをわたしの正面に向けた。



一度だけ、飲んだことがある。マシュマロの浮いたココア。


やせっぽちのわたしに、同じアパートのおばあちゃんが飲ませてくれたんだ。



ママはその頃はまだ、わたしのことを好きでいてくれていた気がする。


夜のお仕事にいく前は必ず、わたしにハグをしてくれていたから。



ママはいつも優しいよ。本当の心からの言葉。それが、身を守る呪文になってしまったのは、いつのことだったんだろう。


甘いココアの香りが、特別に優しい記憶を引き出した。



「いつまで冷めたミルクを僕の前に置いておくつもり?」


ちくちくとげとげ、ウサギが言った。ミルクには一口も飲んだあとは無かったが、黒猫はイチベツしただけで何も言わず、冷めたミルクをお盆に乗せた。



「アリス。君の死後、たくさんのヒトたちが泣いた。君の死を悲しんだ。君がされたこと全部を、パパとママにも仕返してやれと言うヒトまでいたくらいさ」


生前の君は誰からも愛されなかったのにね、と、ウサギが付け加えた。



わたしの死因は、ギャクタイによるデキシ。


わたしの罪状は、虐待による殺害。



何度考えても、やっぱりその二つが繋がらない。



パパとママにギャクタイされて、わたしがわたしの心を殺したことを、ウサギは殺害と言っているのだろうか。


わたしの心を見透かしたように、ウサギが「ふぅん」と鼻で笑った。



紅茶のカップとは違い、ココアにはすんなり手が伸びた。じんわりとした温かさが、冷えた指先に心地良い。


湯気を一息吹いて口を付けると、心を溶かすほどの甘さが口の中に広がった。


幸せな甘さの中に、忘れていたはずの涙が一粒、こぼれ落ちた。



ママのオトモダチも、新しいパパも、カルナもわたしも、みんな大嫌いだ。



わたしはママが好きだった。ママにはわたしだけを好きでいて欲しかった。新しいパパなんていらない。


ママのハグは暖かかった。アパートのおばあちゃんがくれたココアは幸せの味がした。


あの時あの瞬間で時間が止まってしまえば良かったのに。そうしたらわたしは。



でも……。

新しいパパとケッコンした時のママは一番幸せそうだった。わたしと二人の時よりもずぅっと。



黒猫が、湯気のたった熱そうなミルクをウサギの前に置いた。ウサギは薄く微笑んでいた。


目の奥だけが、氷のように冷たく見えた。



そうだ、角砂糖。


わたしはキャニスターに手を伸ばそうとして、同じ模様の入れ物がテーブルの隅に二つ置かれていることに気がついた。


いつからだろう。わたしが目覚めてから今まで、キャニスターを触った人は誰もいない。そう、たぶん誰もいなかった。



口の中が、べたべたとやたら甘い。


「アリス。君が最後、死ぬ直前に書いた手紙は、世間のヒトたちの心を強く動かした。でもサイバンではパパもママも、君に対するシツケだったと主張した。君を愛していた、と。ママは全てをパパのせいにした。自分もパパに暴力を振るわれてたヒガイシャだ、って。……どう思う?」



どう、と聞かれても、わたしには答えることができなかった。


パパがママに暴力?わたしはそんなこと知らない。だってカルナは傷ひとつ無い、きれいな子供のままだ。ママのお腹には、新しい赤ちゃんが入っている。ママはわたしと二人だけだった時よりも、幸せそうだった。


きっとママにはパパが必要なんだ。わたしよりも。ずっと。そう、思って、いた。



「アリスの沈黙が答えだって、思ってもいいのかな?」


ウサギがくるくると熱いミルクをかき回す。角砂糖はまだ、ひとつも入っていない。



「このキャニスターから、君は迷うことなく角砂糖を取り出したね。どうして君がこれを砂糖壷だと知っていたんだい?」


ウサギは二つのそっくりなキャニスターをテーブルの真ん中に置いて、ふたを取った。


ひとつには角砂糖。もうひとつには……。



「これは塩だ。マスターこだわりの岩塩が入っている。ふたを取れば一目瞭然だけど。どうして、アリスにそれがわかったんだい?」


甘いココアが、胃の中でムカムカと不快に這い上がってくる感じがした。



わたしの死因はギャクタイによるデキシ。


私の罪状は虐待による殺害。

そうか、私は……。



ウサギがじっと私を見つめて、それから興味を失ったようにあくびをした。黒猫が、紅茶のカップを私の元へ運んできた。


ソーサーに置かれたスプーンの上には、角砂糖がひとつ乗っている。


私は熱い紅茶に角砂糖を落とし、いつものようにスプーンでかき混ぜた。その液体からは、上品で芳しい香りが立ちのぼった。



「真冬に水風呂に入れられたことは?」


ウサギが尋ねた。先ほどとは違い、どこか事務的な言い方だ。



「犬用の檻に閉じこめられて、食事を与えてもらえなかったことは?」


黒猫が少し離れたピアノの椅子に浅く腰掛けて、私とウサギの会話を聞いていた。


食事と聞いて、私の腹が鳴った。



「食べたければどうぞ」ウサギは相変わらず冷たい口調で言う。


「僕はティータイムには薄いキュウリのサンドイッチしか認めないけど」



私は皿の上の大きなサンドイッチに手を伸ばし、遠慮なくそれにかぶりついた。


あごが外れるほどの大きさのサンドイッチだ。パンの隙間からはみ出した野菜がボタボタと皿の上にこぼれ落ちた。


離れた場所から見ていた黒猫が、オエッと吐くマネをした。



「君が溺死させた子供がそんな食べ方をしたら、君はきっと彼女に罰を与えただろう」



私が再婚した女には、連れ子がいた。小さくてやせっぽちで、私には笑顔すら見せなかった。


愛そうと努力をしたつもりだ。あのわき腹の傷痕を見るまでは。


私は女を問いつめた。時には手を挙げたこともあった。女は言った、私に。



「元カレがやったのよ」


ウサギが女の声をまねた。



再婚を後悔した。でもすでに、女の腹には私の子供が入っていた。心当たりはあったが、それが私の子供か、確証はなかった。


だが、産まれた子供は私の幼い頃によく似ていた。



産まれた私の子供、夏月(カルナ)が成長するにつれ、連れ子に対する愛情は薄れていった。それは否定できない。


特にあのわき腹。


妻に、私以外の男がいた証し。頭では理解していても。


嫉妬は確か「七つの死に至る罪」のひとつだったか。もっとも、死に至ったのは……。



笑わない子供は陰気くさく、私は、彼女自身のためだと言い訳をして、連れ子につらく当たった。



学力を上げるためという理由で、子供一人では到底できない程の勉強をさせた。


間違えれば罰を与えた。もちろん、決められた日までに課題が終わらなかった時も。



体重が増えたという理由で、食事の量を減らした。


盗み食いをするという妻の訴えで、犬用の檻に閉じこめた。



「アリス。君がシツケた女の子は、死んだ時、後から産まれた異父弟よりも小さかったそうだね」


「学校でデブだとイジメられたら、可哀想だろう?」


「それが理由?」



「ああ、そうだ。星灯(ライト)は女の子なんだ。当たり前だろう」


「彼女の異父弟のことは、随分と甘やかしていたみたいだけど」



「女と違って、男には立派な仕事があるからな。女なんか、美人でスタイルが良ければそれでいいんだ。だから私は、あいつの母親と結婚してやった」


「異父弟は?」


「カルナはまだ4歳だぞ。伸び伸び育てて何が悪い?」



黒猫が一冊のファイルをテーブルに置いた。スクラップブックのようだ。まだ新しい新聞の切り抜きが貼ってあった。



「彼女に大量のドリルをやらせたのも、過度な食事制限も、異父弟より小さい頃から始まったと書いてあるのは、新聞記事の間違いなのかな?」


「男と女は違う」



「ふうん。まあ、いいけど」


ウサギは無表情でスクラップブックをめくる。貼ってあるのは新聞だけではない。


まだ私があの女と出会う前、ライトと二人で楽しそうに笑う写真。


ライトが、知らない婆さんとココアを飲んでいる写真。


幸せそうな寝顔……。



タバコを押し付けられて泣き叫ぶ写真。一緒に写っている男は、それを見てニヤついている。


夜中、暗い部屋でたった一人、悲しみをこらえている表情。


ちらちらと舞う雪に、薄着でベランダに閉め出されている不安そうな顔。



カルナの出産に立ち会うため、ライトに着けた犬用の首輪とリード。


「これは、ライトが勝手に外に出て危ない目に遭わないように保護しただけだ」


私は無意識に言い訳をしていた。



ウサギは何も言わない。


狭い水槽の中を、長いヒレを絡ませて、熱帯魚がもがく。



全てはライトのため。ちゃんとした子供にするため。


少し厳しかったかも知れないが、私には愛があった。



丸い鳥かごの中で、美しい色の小鳥がきれいな声でさえずった。


口の中が、不快なほどに甘い。



「君の罪状は、虐待による殺害だ。それは変わらない。でも……」


冷たい瞳で、ウサギが私を見つめた。心の底まで見通そうとしているようだ。


私は動揺を隠すために、紅茶のカップを手に取った。すっかり冷めてしまったそれは、べたべたと甘いココアの味がした。



「でも今なら、君の死因をギャクタイによるデキシに変更することもできる」


どうする?とウサギが問う。



「アリス。君は7歳の少女として死ぬ。君自身のシツケで死ぬことになるんだ。彼女が耐えた7年間、君が耐えると言うのなら、彼女は君として人生をやり直すことができる」



「……それは…」


私にはウサギの言う意味が分からなかった。ウサギは片手で頬杖をついたままミルクのカップをかき回し続けた。



「アリス。君が7歳の少女になった場合、ギャクタイでデキシするのは決まりだ。ただ、”誰に”デキシさせられるかは、わからない。それは、彼女自身の手でかも知れないし、彼女のママ、もしくはママのオトモダチかも知れない」



「もし……」


声がかすれた。



「私とライトの人生が入れ替わったとして、私とライトが出会わなければどうなる?」



「うーん。その場合、彼女は君として君の人生を歩むことになるだろうな。でも、彼女は君であって君ではない。もしかしたら、彼女のママと出会うことなく、平穏な、何の変哲もない人生を送り、寿命を迎えるかも知れない」



私の人生の失敗は、何だ?ライトの母親と出会ったことか?それさえなければ、ウサギの言うとおりの人生があったのかも知れない。


ただ退屈で何もない人生が。



「君が彼女に対して、愛を持ってシツケをしていたというのなら、答えはひとつしかないだろう。迷う必要なんて、どこにあるんだい?」



私はライトを愛していただろうか。私はライトを愛していただろうか。ワタしは…ワタシは……ワタシハ……。


考えがぐるぐると頭の中を回り続ける。水の中で溺れる熱帯魚のように。



「答えが出ない、ということはそういうことよ。残念だけど」歌うように黒猫が言った。


「もう一人のアリスは何て答えるかしら。マシュマロの浮いたココアの甘さしか、幸せを知らない可哀想なアリスが、あなたを庇ってデキシしてくれるかしらね」


黒猫がホットミルクのカップを銀の盆に乗せた。まだ一口も飲んでいないというのに、ウサギはもう興味を失っている。



「アリスがアリスでいる間、僕の興味はアリスだけだ」


確かウサギはそう言ってなかっただろうか。



「私は……死ぬのか。溺死は……苦しそうだな」


その呟きに答える者は、誰もいない。



***


深海を思わせる青い扉が開いて、黒い制服のウエイトレスが「いらっしゃい」と声をかけた。


胸元には青いリボンが揺れている。


黒いパーカーにジーンズ。足元は素足に下駄という奇妙な格好をしたその客は、右目に白い眼帯を貼っていた。



「あの子供は、一命を取り留めたそうだ」


アンティークのソファーに深々と腰を下ろして、眼帯の客が言った。



「僕としては……。そっか。あの子は新しいパパを許してしまったんだね。……そうなるとは思っていたけどさ」


「相変わらずだな、ウサギは。結局、あの二人の人生が交換されたとしても、義父が娘を溺死させるのは、定まっていたことなのだろう?あの時点ではすでに」



そうだったかな?とウサギはトボケて聞き返した。


「僕は無責任な第三者が嫌いなんだ。もし、あの親子が入れ替わって、被害者が加害者になったとしても、それでも世間は可哀想だって言うのだろうか?ハスミ、君はどう思う?」


ウサギはスクラップブックのページをめくりながら尋ねた。



「さあな。俺にはわからん。そういう話しは、先生にでも聞いてみろ」


「えー。やだよ。僕、古い本のニオイって好きじゃないんだ」



「お前らしい。まあそう言わず、たまには顔を出してやれ。先生も心配しておられた。憎むのは罪だけにしておけ、とな」


それだけ言うと、眼帯の客は席を立った。


お見通しかよと不貞腐れたようにウサギが言う。



銀のお盆に湯飲みを乗せた黒猫が、驚いた顔で客を見つめた。


「もう帰るの?ハスミ。もっとゆっくりしていけばいいじゃない。そろそろティータイムのサンドイッチができる頃だわ」



「すまんな、黒猫」


客は黒猫の頭を軽く撫でて、微笑んだ。


「今は先生からの頼まれごとで忙しくしていてな。落ち着いたらまた顔を出すよ」


そう言うと客は、黒猫の耳元に口を寄せた。



「今回は娘の恩情で義父の罪は許された。だがもし娘がウサギに乗せられていたら、二人ともが子殺しの罪を背負ってしまうところだった。ウサギにはウサギの正義があるのだろう。だが、憎むのは罪だけで良いはずだ。アイツが無茶をしないように、見てやって欲しい」



黒猫は白い頬をほんのり紅く染めて頷いた。


それを確認して客は、来た時と同じように深海を思わせる青い扉から出て行った。



ウサギは不機嫌そうに頬を膨らませて「ホットミルク」と黒猫を呼んだ。



「お生憎様。ホットミルクは品切れです」


黒猫は客の出て行った青い扉をじっと見つめたまま返事をした。



丸い鳥かごの小鳥だけが、楽しそうなメロディーの唄を繰り返しさえずり続けていた。


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