推し活された私は、実は推し活してた人だった

黒武者響

第1話

タイトル:第一章 観測者の輪郭


 地下二階にあるライブハウスの空気は、湿った熱気と期待感が混ざり合い、独特の重みを帯びている。

 ミカは、前から三列目のいつもの場所にいた。


 ステージの上で、ハルトが踊る。

 彼の指先が空を裂くたびに、照明がその軌跡を銀色の粒子に変えていく。スピーカーから響く重低音は、ミカの肋骨を直接叩き、日々の仕事で摩耗し、薄く透けてしまった彼女の魂を繋ぎ止めていた。


 ミカにとって、ここは娯楽の場ではない。

 この数時間だけが、彼女が「ただの事務員」という記号を脱ぎ捨て、一人の人間として呼吸できる、切実な祈りの場だった。


 ライブが終わり、心地よい耳鳴りと共にドリンクカウンターへ向かう。

 スタッフから手渡されたジンジャーエールのグラスは、指先が痛くなるほど冷たかった。その隣に、場違いなほど真っ白な封筒が置かれていることに気づく。


『三列目で、いつも誰よりも美しく光を振るあなたへ』


 宛名を見た瞬間、心臓が跳ねた。

 自分は「見る側」だったはずだ。誰からも見られない、暗闇に溶け込む観客の一人だったはずなのに。


 震える指で封を開けると、そこには、ミカが今まで一度も想像したことのない言葉が綴られていた。


『あなたがハルトを見つめる横顔は、ステージの誰よりも光を放っています。その懸命な祈りに、私は救われました』


 救われた? 私が?

 ミカはグラスに残った氷を飲み込み、無理やり喉の奥を冷やした。

 彼女にとって、推し活とは「自分を消す作業」だ。自分という取るに足らない存在を、ハルトという輝く偶像に塗りつぶしてもらう時間。それなのに、暗闇の中にいたはずの自分を見つけ出し、あろうことか「美しい」と評した者がいる。


 ――私は、誰かに観測されている。


 帰宅し、コートも脱がずにPCの前に座った。

 画面から漏れる青白い光が、暗い部屋をうっすらと照らす。ミカは使い慣れたエディタを開き、ペンネーム『カノン』としてログインした。

 ライブのレポートは、別の非公開ノートに書き留める。ここ、カノンの場所で綴るのは、もっと純粋で、もっと個人的な、形にならない感情の欠片だ。


『誰かを想うとき、私たちの魂は少しだけ自分の体を離れて、相手の周囲を漂う光になるのだと思う。その光が、相手の影を少しでも薄くできているのなら、私の今日という一日には、それだけで十分な価値があったのだ』


 推敲もせず、一気に書き上げた。

 それはハルトへの愛であると同時に、今夜手紙をくれた「誰か」への、無意識の返信でもあったのかもしれない。

 更新ボタンを押した瞬間、心臓がトクンと鳴った。


 翌日。

 ミカの中に、今まで抱いたことのない感情が芽生えていた。

 それは、一種の「探偵ごっこ」に近い、ひりつくような好奇心だ。


(一体、誰が? いつから?)


 通勤電車の窓ガラスに映る自分を、ミカは初めて「客観的」に見つめてみた。

 お疲れ気味の目元、控えめなメイク、無難なオフィスカジュアル。どこにでもいる、風景の一部のような自分。

 昨日までの世界は、私が彼を見るだけの世界だった。


 けれど今日からは、誰かの視線が私に重なっている。

 ミカは、自分の周囲に漂う「見えない誰か」の気配を探るように、無意識に少しだけ、背筋を伸ばした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

推し活された私は、実は推し活してた人だった 黒武者響 @Aimitty

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ