【短編】分からないままでも、読む
幻翠仁
――
夜明け前の街は、まだ名前を持たない色で満ちていた。
薄い青と鈍い灰の間で、世界は呼吸をひとつ、躊躇っている。
彼は古い書店の奥で、毎朝同じ作業をしていた。
埃を払う。指先で、背表紙を撫でる。破れかけた頁を、破られなかった未来のように、柔らかな手付きでそっと戻していく。
それは修復というより、祈りに近い行為だった。
彼女が店先に現れたのは、雨の午後だった。
傘を忘れ、濡れた黒髪から雫を落としながら、何かを探すような目で敷居を跨いだ。だが、彼女自身も、それが何かを知らないようだった。
「探し物ですか」
問いは、答えを急がない声で、差し出した。
彼女は眉を下げ、首を振る。
「分からないんです。ただ……分からないままでいるのが、少し怖くて」
彼は頷いた。
分からないという状態が、怖いのではない。分からないことを、分かろうとしなくなる瞬間が、一番怖いのだと、知っていたからだ。
二人は棚の間を歩いた。
言葉の重さが違う本。傷の深さが違う物語。
彼女は時折立ち止まり、触れ、首を傾げた。
彼は何も説明しない。ただ、隣に立つ。
やがて、彼女は一冊の本を手に取った。
表紙は擦り切れ、タイトルも読めない。
それでも、彼女の指は確かだった。
「これは……難しそうですね」
「ええ」
彼は柔らかに笑った。
「でも、分からないまま読める本です。途中で投げても良い。見なかったことにしても良い。それでも、また戻ってきたくなる――そんな本です」
彼女は少し考え、そして本を胸に抱いた。
「分からなくても、いいんですね」
「ええ。分かろうとする限りは」
雨が止み、光が戻る。
彼女は代金を支払い、扉を開けた。
去り際、ふと振り返った彼女が彼に問う。
「もし、全部分からなかったら?」
彼は一瞬だけ沈黙し、答えた。
「それでも、頁を閉じないことです。閉じない限り、理解は終わりません」
はにかんだ彼女が、扉に消える。
街はようやく名前を持つ色になる。
彼は棚に手を伸ばし、また一冊、埃を払った。
理解とは、愛である。
そして、愛とは――理解を諦めないこと。
それを知っている者は、説明しない。
ただ、閉じない。本も、人も、世界も。
諦めなければ、夜明けは、いつもその先で待っている。
【短編】分からないままでも、読む 幻翠仁 @gensui_gin
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