徒労
おもちちゃん
第1話
寝室に入ると、妻は先に寝ていた。寝室は暗く、ひんやりと冷えている。寝室は北向きの部屋なので、家で一番寒い部屋だ。僕は布団に入ると、妻の暖かさを感じられた。
僕は体を縮め、片手で枕元に置いてある睡眠薬を取った。歳をとってからというものの、眠りが浅くなってしまった。それを飲んだ。目が慣てくると、部屋の明かりを消していても妻の顔をぼんやりと見えた。緩やかに目を閉じて、少し空いた口から深い寝息を立てている。その息は少し酒が混じっていた。
睡眠薬が効いてきた。頭は重く、意識は宙を浮かび始めた。何気なく僕は妻の顔に触れ、指の腹で妻の瞼を撫でた。薄い瞼の奥には強い弾力を持った眼球がある。そのまま手を滑らして妻の後ろ髪に指を通した。髪の根本は妻の体温をじんわりと感じるが、髪を乾かさない内に寝てしまったのか、湿っていた。髪から微かにシャンプーの香りがした。
僕は妻の髪から手を離すと、妻の手に置いた。皺の刻まれた手である。心に深い悲しみが訪れた。薬のせいか、記憶は妻と手を握った時のことを思い出した。妻の手は強く握れば折れそうなほど細く、しなやかな女性の手であった。
意識を保つのも難しくなってきた。だが、そのまま寝てしまうのはどこか寂しいように思えた。薬は鈍くなってしまった感覚を取り戻して、眼前に過去を見せてくれるようだった。こうして昔の記憶を有難がって、それにすがるのは年老いたせいだろう。
初恋を思い出すと、いつも彼女の後ろ姿だった。髪を後ろに縛り、一つにまとめている。それは凛としていて、どこか犯し難い、生娘の真剣さを持っていたが、揺れる後ろ髪から見えるうなじは彼女が女であると強烈に示していた。
僕は席に着くと、学生鞄を机に置いて、教科書やら筆箱やらを取り出して授業の準備をする素振りをしながら、彼女を盗み見た。彼女もまた学生鞄を机に置いて授業の準備をしているらしい。教室にはもちろん、僕と彼女の他に大勢の学生がいる。ただ、僕の記憶の中では、彼らは心の遠近法によってふるい落とされて僕と彼女だけの世界だった。
僕はいつも彼女の顔を見たいと願っていた。彼女の席は僕より前にあって、彼女の後ろ姿しか見ることができない。それを口惜しく感じる一方で、彼女の後ろ姿を僕の心の中に独り占めできると仄暗い欲望を満たすのだった。だからと言って僕が何か彼女と会話を交わそうとするようなことをしたかと聞かれれば、しなかった。当時の僕は高校三年生で、女性と接するのを避けていた。ひとたび女性と接してしまえば僕は固まって、言葉がのどに詰まり、啞となって、恥のために逃げ出したくなるのだった。
不意に彼女は振り向いた。それまで彼女の後ろ姿を安心しきって眺めていたのを、脅かされたと思って僕は視線を窓へと逸らした。彼女が早く前を向いてくるのを祈った。彼女の方をちらと見た。ドキリとしてまた窓の外を見たが、耐えきれず彼女に向き直った。目線が交わった。彼女は微笑んだ。誰にも知られないこの小さなやり取りが僕の恋の始まりだった。
夢想家が常にそうであるように、僕もまた現実を空想で補った。空想の中であればあがり症を忘れ、僕は女性と話すことができた。それだけに彼女と話す機会を模索しては、その模様を胸の内に描いた。
もちろん、現実の彼女がこれを知る由もない。彼女はその性格から分け隔てなく人と接した。その様子が僕を深く傷つけたのは言うまでもない。僕は彼女が知らない人と話すたびに寂しさに、知らない人と笑うたびに怒りに圧し潰される思いだった。
この現実と空想のギャップ。果たされぬフラストレーション。僕は心の安寧を空想の中に見出した。空想の中でなら彼女は僕のものだった。あの黒髪も、あのうなじさえ…。
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徒労 おもちちゃん @omoti-motimoti
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