ホワイト・アウト
イツミン⇔イスミン
ホワイト・アウト
目が覚めたら、窓の外が真っ白だった。
それだけならば雪が降ったのだろうと言い訳もつくが、振り返ると慣れ親しんだ私室もすべて真っ白だった。
まるでマンガの手を抜いたのみたいな、ペンで描いた線だけでスクリーン・トーンを貼るのを忘れたみたいな、ちょうどそんなだ。
「――」
じっと手元をみると、自分自身の手のひらも、「手抜きのマンガ」である。
どうやら理屈は分からないが、世界中から色が、抜け落ちてしまったようである。
寝間着姿のまま、俺は私室を出て、リビングに向かった。
本来なら学校に行くため、着替えなければならないが、果たしてそんな場合だろうか。
リビングではすでに家族が、真っ白い姿で真っ白い椅子に腰かけ、真っ白いテレビを神妙に眺めていた。
「――おはよう」
リビングのテーブルの、定位置となった椅子を引き摺り、腰かける。
いつも通りの椅子のはずが、いつも通りのテーブルのはずが、色がないというだけでなんとなく落ち着かない。
「――おはよう」
「――おはよう」
父親と母親が、テレビに食いついて、俺のほうをちっとも見ないで言った。
「――おはよう」
二つ年下の妹が、テレビに食いついて、父親と母親からやや遅れて、俺のほうをちっとも見ないで言った。
「――」
普段は家族は、朝の情報番組なんて、まったく興味を示さない。
朝の時間はあわただしくて、テレビなんてBGMでしかなくて、どうせ眺めたって箸にも棒にもかからない。
ところがこの日ときたら、目が覚めると世界が真っ白だったのである。
普段はろくろくテレビを見なくとも、ほんのちょっとでも手がかりが欲しくて、さすがにみんなテレビに食いつく。
「……」
おそらくは今頃は、どこの家でも、どこの国でも、おなじ光景が広がっているだろう。
俺たちだって、俺も妹も学校なんて行ってられないし、父親も仕事なんて行ってられないし、母親も家事なんてやってられない。
テーブルの上には、菓子受けのせんべいくらいしか乗ってなくて、朝食は当然どこにもない。
パッケージの中の、真っ白なせんべいなんてのは、色が悪いのか、なんだか湿気っているような気がして、食指が伸びない。
「――」
「――」
「――」
「――」
朝の情報番組は、結果から言うと、てんで役立たずだった。
番組の司会もアシスタントもそろわず、裏方のスタッフが画面に映っているだけで、しどろもどろで、得る物はなにもなかった。
テレビの中でだって、俺たちとおなじように、動揺が広がっているのだろう。
それを考えたら、出演者がそろっていなかろうと、裏方のスタッフが画面に出ていようと、放送しているだけたいしたものだ。
「――どうしよう」
妹が言って、眉間にしわを寄せる。
「わたし昨日、美容院で髪を染めたばかりなのに」
妹が言って、眉間にしわを寄せる。
確かに昨日、妹はプリンみたいだった髪の毛を染め直し、ご機嫌で家に帰ってきた。
世界中でパニックになっているというのに、心配するのが染めたばかりの自分の髪の毛というのが、可愛らしいと思えばいいのか、神経が太いと思えばいいのか、俺にはわからない。
「……それはタイミングが悪かったな」
俺に言えることとしては、それくらいだ。
正直な話、色がなくなってしまったことは、ちっとも整理がつかなかった。
色が戻るのかもわからないし、髪の毛を染め直したことを心配出来るほうが、よっぽど目鼻がついているとさえ思えた。
正直な話、色がなくなってしまったことは、ちっとも整理がつかなかった。
俺たちはもしかして、マンガの中の登場人物で、作者が締め切りを飛ばしてしまったのだろうかと、なんとなく思った。
「――朝ごはんにしましょう」
母親が言って、席を立つ。
「……」
父親が無言で、テレビを消す。
なんとか食事を摂り、リビングで無言でいるのも息がつまるので、みんな私室に引き上げる。
学校も仕事も、家事も全部、ほとんど投げ出してしまう。
「――」
色がなくなる前から、ほとんど真っ白だったベッドに俺は飛び込んだ。
困ってしまうのは、すべてが真っ白になったことで、区別がつかなくなったことだ。
牛乳とオレンジジュースの違いが分からずに、コップを鼻に近づけてくんくんにおいで確認するのは、家族ながらに滑稽な光景だった。
洗濯ものだって、汚れすらも真っ白になってしまっているので、洗う前か洗った後かもわからなかった。
外に出てみれば、信号も赤も青も分からないので、出勤を試みた自動車がたちまち立ち往生して、結局みんな引き返した。
「――」
ベッドでごろんと、寝転がる。
落ち着かなくて、右を向いたり、左を向いたり、あお向けになる。
ベッドでごろんと、寝転がる。
落ち着かなくて、左を向いたり、右を向いたり、うつ伏せになる。
このまま世界が終わってしまうのだろうかと、なんとなく俺は思った。
世界から色が抜けて、マンガ家が手抜きをして、その次はペンで描いた線だと思った。
このまま世界が終わってしまうのだろうかと、なんとなく俺は思った。
真っ白けっけになった世界で、牛乳もオレンジジュースも分からなくて、コップに鼻を近づけてくんくんと、前後も上下も不覚になると思った。
神様が人類の悪さに辟易して、じっくりと真綿で首を絞めるみたいに、絶滅させようとしていると思った。
このまま世界が終わってしまうのだろうかと、なんとなく俺は思った。
世界から色が抜けて、マンガ家が手抜きをして、その次はペンで描いた線だと思った。
このまま世界が終わってしまうのだろうかと、なんとなく俺は思った。
「……」
胎児のように、丸くなって眠る。
夢を見るように、夢も見ないように、真っ白なシーツに沈んでいく。
胎児のように、丸くなって眠る。
いずれもう一度生まれることがあれば、きっと人類は上手くやるので、今度ばかりは許してほしいと神様に祈る。
胎児のように、丸くなって眠る――。
やがて世界が白くなり、しばらくの時間が経った。
世界が滅びるのだと俺は思ったが、なんてことはない、日常が戻った。
世界はいまだに真っ白で、牛乳とオレンジジュースはくんくんやらなくては区別がつかないが、その程度でだからなんなのだ。
人間は叡智の生き物で、生活に立ち往生するような困りごとは、学者たちがたちまち解決してしまうのだ。
人間は慣れる生き物で、マンガの線画みたいになってしまっても、繋いだ手に温もりがあればほっとするのだ。
「――おはよう」
朝起きて、着替えを済ませて、リビングにやってくる。
時間割をそろえた、薄っぺたい鞄を放り出して、椅子に座る。
「――はい、おはよう」
朝食の準備が、すっかり整っていた。
母親はえらいもので、真っ白けっけの世界だろうと、変わらず朝食をこしらえた。
「――はい、おはよう」
朝食の準備が、すっかり整っていた。
父親はえらいもので、真っ白けっけの世界だろうと、変わらず家族のために働いた。
「――お兄ちゃん、これ牛乳?オレンジジュース?」
妹は――どう言えばいいのか、可愛いと言えばいいのか神経が太いと言えばいいのか、すっかり真っ白けっけの世界に馴染んでしまった。
「……知るか、においを嗅げ」
「えー、牛乳だったら、鼻についたらくさいじゃん」
「――貸してみろ」
妹からコップを受け取り、鼻を突っ込むみたいにして、くんくんやる。
少なくとも俺には、柑橘系のちょっとツンとした、目が染みるようなにおいはしなかった。
「――牛乳だ」
コップを妹に突き返す。
「ありがと、お兄ちゃん」
ご機嫌になって、前髪をなぞって、妹は牛乳を飲む。
「――」
俺はこの世界に、馴染んでいるだろうか。
なるだけ平然としようと努めているが、ちゃんと上手くできているだろうか。
俺はこの世界に、馴染んでいるだろうか。
本当はみんな、心の奥にまだ不安を感じていて、上手く隠しているだけなのだろうか。
目が覚めたら、窓の外が真っ白だった。
それだけならば雪が降ったのだろうと言い訳もつくが、振り返ると慣れ親しんだ私室もすべて真っ白だった。
まるでマンガの手を抜いたのみたいな、ペンで描いた線だけでスクリーン・トーンを貼るのを忘れたみたいな、ちょうどそんなだ。
目が覚めたら、窓の外が真っ白だった。
「――なんでこの世界から、色がなくなってしまったんだと思う?」
俺が尋ねたら、妹がひとこと、ぽつりと――。
「さあ、天国から絵の具がなくなったんじゃない?」
――そういう考え方も、たまにはある。
ホワイト・アウト イツミン⇔イスミン @itsmin0080
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