002 あっという間に溶ける氷

 × × ×



「すみません、企画部の城田です。出張で経費の精算が遅れてしまったので直接提出しにきました」


「あ……っ」



 経理の人が、俺の顔を見て小さく声を漏らす。そして、手に持った時代錯誤の紙媒体をクシャリと歪めて、笑いたいのか泣きたいのか怒りたいのかよく分からない表情で俺を見た。



 目のキレが長い、やや長身の女性社員。かなり整った顔立ちをしている。恐らく、本人もそういうふうに見られたいのだろう。長い黒髪にシュッとしたパンツスタイルのビジネススーツは、なるほど、彼女の容姿を引き立てるコスチュームにも、ナンパな男から身を守る鎧にも思えた。



 そういえば、先日総務部で騒動があったらしい。もしや、あの営業部長を一人で撃退した女性社員とはこの人なんじゃないだろうか。



 そんなことを考え、ふと首から下げられている社員証に目をやる。倣うように、彼女は俺の目線を追って自らの胸の上に目を置いた時、彼女の素っ頓狂な――。



「ダ、ダメっ!!」



 という悲鳴と、俺の――。



「有坂?」



 名前を読む声が重なった。



「なんだ?」


「どうした?」



 総務部のデスクにつく社員たちが、一体何事なのかと俺たちを――というか、有坂を見た。そして、俺もその名前を反芻しながら、学生時代、共に時を過ごした一人の女子生徒のことを思い出していた。



 久しぶり。



 確かに残る微かな面影へ思い浮かんだその言葉を、俺は口にはしなかった。



 なぜなら、今の彼女と思い出の中の彼女の間には、あまりにも時の経過を知らしめる乖離があるからだ。恐らく、彼女が努力とマネジメントの末に手に入れたものなのだろうと一人納得すると、俺は「申請をよろしくお願いします」とだけ残してその場を去った。



 有坂美鶴ありさかみつる



 父親の転勤の都合で田舎の高校へ転校した俺の、最初で最後の友人だ。



 東京から引っ越してきたものの、都会のカルチャーやSNSサイトに興味の無かった俺は、クラスメートたちに大した興味を持たれることもなかった。

 一方で、俺の方はといえば、一人で本や歴史を読み漁り、世間を知った気になって自分の未来を「しょうもない」と決めつける、いわゆる冷笑系のクソガキだった。



 だから、独りぼっちはむしろ心地よかった。



 都会では、どれだけ興味がなくたってありえない角度から無理矢理に比較のフィールドへ引きずり込まれた。金持ちの親に買ってもらった自慢。恋人持ちのイチャイチャ自慢。秀才たちの点数自慢にスポーツマンたちの活躍自慢。



 自慢、自慢、自慢。



 彼らは、誰かに対してマウントを取らなければ死ぬ病気にでもかかっているのだろうか。ゆりかごから墓場まで、あらゆる要素で他者への優位性を解きたがる習性に、俺は常々嫌気が差していた。



 しかし、田舎は違った。



 そこに生まれ落ちたから、自分の未来はこうである。そう決めつけて、ある種の諦めを持って生きる彼らの価値観は、自分の可能性を微塵も信じちゃいない俺と似通っていたように思う。



 生きやすかった。



 そういう奴がいる。こういう奴もいる。だから無駄に干渉せずにいる。彼らがそんなふうに考えられたのは、彼らの親や教師が格差を知っているからなのだと思う。

 無理などしなくていい。優しく育ち、平和に生きていけばいい。諦観に満ちた大人たちの人生観は、比較に晒されて疲弊していた俺の心にじんわりと染みていくような気がした。



 放っていおいてくれ。



 ひょっとすると、俺のそんな気持ちを、言葉にしなくても誰もが理解してくれていたのかもしれない。他の田舎は知らない。ただ、少なくとも俺が住むことになった町には、そういう文化が根付いていたということだ。



「ねぇねぇ、城田君、城田君。一緒に帰ろうよ」



 それは、ある日の駐輪場での出来事だった。



 有坂は、俺の隣の家に住んでいたメガネを掛けた普通の少女で、同じクラスメートであった。初心で素朴なかわいい子。あの学校に通っていた女子たちへ総じて感じていたことを同じように思う、あの町では至って平均的な普通の女の子だった。



「どういう風の吹き回しだよ、有坂。何か用事でもあるのか?」


「よ、用事ゆうかね〜。お隣さん同士なんだから、少しくらい仲良くしたいな〜って思っちょっとったんよぉ。嫌ぁ?」



 有坂は、その土地に根付く方言を使いながら言った。欠片の下心もない。ただ、俺を心配しているような、仲良くなりたいような、とにかく純粋な気持ちの伝わる声色と表情だった。



「嫌じゃないけどよ。俺、市内に寄って帰るから遅くなるぜ?」


「なんでぇ。城田君。寄り道しちゃいけないんだよぉ?」


「今日欲しい本があるんだ」


「えぇ〜。でも、商店街に春風書店があるがね」


「あの店の品揃えは最悪だよ、上野駅のブックキャンパスより置いてないんだから」


「駅!? 上野の駅の中には本屋さんがあるがね!?」



 有坂は、目をキラキラとさせながら言った。



「あるよ。というか、新幹線の止まる駅の構内には大抵本屋があるだろ」


「新幹線乗ったことないから分からないよぉ」


「……まぁ、いいや。俺が言いたいのは、春風書店には思い付きの暇潰しで本を買う場所より品物がないってことだ」


「あ、聞いて聞いて? 私ねぇ、初めて電車に乗った時に市内で大変だったんだよぉ? だって、私たちの町の駅には切符がないでしょお。でも、向こうで降りる時は改札が自動だからさぁ。小銭握ったままみんなで立ち往生しちゃった!! あはは!! 面白かったなぁ〜」


「……それは、大変だったな」



 俺は、なんなんだこの女は、と思った。



「あ、そういえば通学は自転車やがね。市内は無理だよぉ」


「電車で行くに決まってるだろ、チャリは駅前に置いておく」


「ダメだよぉ、生活指導の先生たちが見回っちょるもん。シール見られたら怒られるがね」


「みんなして似たようなハンドルと色のママチャリ乗ってるんだから、学校が特定されてもどの生徒かまでは特定できるわけないだろ。俺らが帰ってくるまでずっと待ってるほど教師も暇じゃないし、仮に張ってたのなら置いて帰ればお咎めなしだ」


「あ、そっかぁ。城田君、やっぱ頭いいんだね〜」


「……そもそも、似たようなことやってる奴がいるから駅前にチャリが止まってるんじゃないか? たまに『心当たりのある生徒は〜』とか言って、ホームルームで言われるだろ。誰もバレてないことの裏付けだ」


「ほんとだねぇ。私、考えたこともなかった〜」



 なんだかんだ言いながら、有坂は俺について来るようだった。駅前まで一緒に来てしまった手前、無理に帰らせればチクリを入れられて犯行を特定されると思い、共犯にした方が安牌だと考えたのは当然だろう。



「隅っこじゃなくて真ん中に停めよう。木を隠すなら森の中だ。隅に置くと帰ってバレやすい」


「うん〜」


「メットは茂みに隠しとけよ。有坂のやつ、名前書いてあるし」


「んふふ。うん〜」


「それと、三つ編み解いとけな。仮に目撃情報が出たとしても、髪型が違えば高確率でトボけられる」


「城田君って、悪い子やったんねぇ。よくそんな、ポンポンいけないアイデアが出てくるよ〜」



 クスクスと笑いながら肘で突っついてくる有坂を無視して、無人改札をくぐり列車に乗る。揺られること三十分。辿り着いた市内で文庫本を三冊購入した俺は、少しだけ繁華街を散歩してから帰りの電車に乗った。



 隣に座って、十数分。ふと、有坂はこんなことを言い始めた。



「城田君って、本当にクールやねぇ。都会の人って感じ」


「無口なだけだよ」


「けど、頭もいいがね」


「頭のいい奴はもっと上手に生きるんじゃねぇの」


「まぁ、城田君の話って難しいもんね〜。こう、パリッとしちょる言うんかね〜。隙のない物の言い方をするから、ちょっぴり取っつきにくいな〜思っちょる子は多いと思うねぇ」


「……すまん、悪気はないんだ」


「知ってるよ!! だって、聞いたらちゃんと答えてくれるし、分かるまで教えてくれるがね!! それに、人が来たら道空けてくれちょお!! みんなの荷物持ちも手伝ってくれるし、優しいよねぇ!!」


「そ、そうか」



 一体、どこで見ていたというのだろう。



「それに、私は気付いちょるよ!! 授業でさぁ、難しい問題があると先生にどこがどう分からないのか説明してくれるがね!! あれ、すごく助かる〜」



 なんというか、有坂には人のことを騙したり傷つけてやりたいという考えが微塵もないんだろうな、と思った。



 道を空けるのは揉めるのが嫌なだけだし、荷物持ちは完全に孤立しないようにするためのポーズだし、詳しく聞くのは自分の頭の中を整理したいだけだ。



 決して誰かのためにやっているのではない。すべてが善だなんて、そんなことはありえないだろうに。



「あと、城田君の学級新聞は面白いね〜!! 知らないやろけど、結構読んどる子いるんよ!! 都会のこと教えてくれるからっ!!」


「……そうか」



 照れくさかった。



 委員会や部活動に所属していない俺が、暇潰し兼活動しているふりの為に書き始めたのが学級新聞だ。



 聞き齧った噂や教師が「テストに出る」と言ったその週の問題をまとめて掲載するだけの、A4サイズのフリーペーパー。そこへ、俺が感じた都会と田舎の違いへの所感を、ネタ切れ防止のために記事としてぶっ込んだのである。



 そんなものが、一部とは言えクラスメートの娯楽になっているとは。自分のために始めたことで褒められるというのは、なんだかむず痒くなる気分だった。



「だから、ありがとうね。城田君」


「……どういたしまして」



 次の日から、俺は有坂と共に登下校するようになった。



 有坂は、自分の所属しているグループに俺を誘うわけでもなく、かと言って一人でボーっとしている俺へ無理に構ってくるわけでもなかった。登下校以外は俺のことを放っておいてくれる。この距離感が、たまらなく心地よかったのだ。



 そんなんだから、俺は彼女が俺をよく理解してくれているのだと思ったし、好意的に見るようになるのも時間はかからなかった。



 放課後は、時々俺の部屋に遊びに来て本を借りていった。パリッとして話しにくい俺の趣味なのだから、当然読み慣れていない者や前提となる知識のない者には読みにくい内容だろう。それを好んだということは、彼女もきっと、内心ではパリッとした小難しい話が好きだったのかもしれない。



 そうやって俺たちは親睦を深めていった。夏祭りだの、文化祭だの、クリスマスだの。そういうラブコメらしいイベントごとでは決して関わらない。ただ、俺たちの間にあったのは、一人の暇を共に過ごすだけの穏やかな関係。



 だからだろう。俺たちが男女であるにも関わらず、清い友人関係を結べていたのは。



 そんなふうに過ごしていたある日、再び父親の転勤が訪れた。卒業式を待たない、火急を要する引っ越しであった。



「明日、行っちゃうんだよね」


「あぁ。ごめんな、一緒に卒業出来なくて」


「……うん」



 素朴で初心なかわいい子。最後の日まで、俺の中で彼女への評価は変わらなかった。



「は〜ぁ。北海道かぁ、遠いねぇ」


「そうだな」


「私、心配だよぉ。城田君って一人でいるのが好きやけど、同じくらい寂しがり屋さんやからねぇ」


「有坂ほどの理解なんて、他の誰にも求めないよ」


「……え?」



 有坂は、ずっと伏せていた目を俺に向ける。夕暮れの太陽のせいか、彼女が頰を赤く染めているように見えた。



「お前より優しくて穏やかな奴には、金輪際会えないだろうって分かってる。お前は特別だ。それを理解せず他人にも同じことを求めるなんて、そんなバカげたマネはしない。だから、大丈夫だよ」


「し、城田君……」


「本当に楽しかったよ、有坂。今日までずっと、ありがとう」



 有坂は、泣いていた。



 でも、俺は男が泣いてる女にするようなことなんてせず、ただ黙ったまま彼女の涙が止まるのを待っていた。



 だって、そうだろ?



 俺たちは、友達だ。



 明日消えてしまうというのに、俺が彼女を好きになってしまったら強い呪いになってしまう。



 そんな苦しみに耐えられるほど、は強くないのだ。



「……えへへ」



 やがて、有坂は泣き止み、俺を見上げていつものように穏やかに笑った。日は沈み、辺りがすっかり暗くなった頃だった。



「それじゃ、有坂。元気でな」


「うん、城田君も元気で」



 きっと、俺がメールや電話の約束をするべきだったのだろう。けれど、別の土地へ行ってまで有坂に寂しさを解消してもらうわけにはいかないと思ったのだ。



 だから、何も言わなかった。俺が電話嫌いであることを知っている有坂が、自分から送ってくることなどないことも分かっていた。



「ならば、忘れてしまったほうがいい」



 鏡に映った自分に言う。有坂には他にも友達がいるのだから、遠い俺より近い彼らと仲良くなった方がいい。それこそが彼女にとっての幸せであり、俺の気持ちは時間が解決してくれるに違いないのだ。俺は彼女に迷惑をかけてはいけない。優しい彼女に、これ以上甘えてはいけないんだよ。



 そう信じて、俺は約束をせず町を出て行った。



 最後まで、俺は自分が世間を知った気になっているクソガキであることを自覚せずに。



「……随分と変わってたなぁ」



 喫煙所(と言っても社屋の外のスペースでしかないが)で電子タバコを吸いながら昔のことを思い出して、少しノスタルジーな気分になった。



 この心を少し押し潰すような切なさが、俺は嫌いじゃない。感動を得る機会というのは、大人になるにつれて減っていくからな。たまには、感傷に浸って遠くを見つめるのも悪くないだろう。



 ソケットからタバコを取り外し、自販機で飲み物を買ってから席へ戻った。残っている書類の整理を終わらせて今日は早めに帰ろう。なんだか、このまま寂しさを噛み締めて寝たい気分だ。



「おい、城田。差し戻しだってよ」



 課に戻るなり、先輩に声をかけられた。彼の隣には、パンツスタイルのビジネススーツを身にまとった黒髪の美女がクリアファイルに挟んだ一枚の用紙を持って立っている。



 メガネはかけていないが、やはり、間違いなく彼女は有坂だった。



「そうでしたか、面倒かけて申し訳ない。どこですか?」



 用紙を受け取り、シャツの胸ポケットに指していたボールペンを取り出して壁に抑えてから訊いた。



「……」


「あの、有坂さん?」



 そう呼んで振り返ると、有坂は、あの日俺が鏡で見た俺と同じ表情をしていた。



 今にも崩れそうな、涙をこらえる無理に笑った表情。俺は、思わず床に落としてしまった用紙を拾うまで、幾ばくか、この場を無事に終わらせるための方法を考える時間を得た。



「……すみません、先輩。修正テープ持ってます? 社内書類なんで、新しくコピーするのもったいなくて」


「あ〜、ちっと持ってないなぁ」


「それじゃ、有坂さん。俺のデスクに来てください」



 彼女を座らせて、改めて書類に目を通す。しかし、自分ではこの書類のどこに不備があるのか分からない。記入漏れはなく、領収書もすべて揃っていたからだ。



 有坂美鶴が、嘘をついた。



 その衝撃を理解出来る者など、この世に俺を置いて他に存在しないだろう。



「慣れないことするんじゃねぇよ、有坂。話があるなら、ケータイ鳴らせば済む話だろ」


「で、でも……」



 言い淀みに、一つの可能性が思い浮かぶ。まさか、こいつは、まだ俺が電話嫌いなことに気遣っていたとでもいうのか。



 ……そうか。



 有坂は、何も忘れてないのか。あんなに突き放すようなことをしたのに。約束もせずに消えていった俺のことを、ずっと忘れないでいてくれたのか。



 ……。



「久しぶり、元気だったか?」


「……うん」


「メガネ、やめたんだな」


「……うん」


「噂で聞いたぜ。この前、大変だったんだろ」


「……うん」


「一人でよく頑張ったな」


「…………うん」



 俺は買ってきたホットの緑茶を有坂に渡した。彼女は遠慮するように首を振ったが、とりあえず落ち着いて欲しかったから、無理矢理飲むよう静かに促す。



 そして、有坂はお茶のを飲んで一息ついた。まだ喋る言葉は見つからないらしいが、表情は幾分かマシになっていた。



「とりあえず戻れ、俺から連絡するから」


「うん。待ってるよ、城田君」



 急激にフラッシュバックした当時の姿。嘗ての純粋で素朴な笑顔と、今の理知的な近寄り難さが重なる。デスクの上に差し出された彼女の名刺の裏には、手書きで「こっちにかけて」とメモされた電話番号。恐らく、あの頃から変わっていない、教えられる必要のないナンバーだ。



 消しているわけがないだろうに。



 こんな間抜けなことをする奴が、事務の人間みんなに頼られるクールな美人なのか? 相変わらず騙したり傷つけたりする能の無い、真っ直ぐで優しいやり方しか出来ない素直過ぎる奴が? 忠犬のように、愚直にルールを守り続けた女だぞ?



「悪い冗談だ」



 俺は、思わず苦笑いしてから彼女の名刺を胸ポケットへしまった。



「……」


「……」


「……」


「……」


「いや、戻れよ」


「えへへ」

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社内で人気な犬系クール美人が俺にベタ惚れなせいで修羅場になった 夏目くちびる @kuchiviru

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