夢と絶望と…時々皮肉屋の名前のない猫―家になった「ある樹」の物語
ふじの白雪
静かなる日常
第一章『眠れる山の記憶』
彼はかつて、山の麓で静かに呼吸をする一本の樹だった。
風の囁きが一日の始まりを告げ、鳥たちが気まぐれにその腕へと舞い降りる。
ある日、鋭い鉄の音が静寂を切り裂いた。
倒され、切り分けられ、皮を剥がれ、磨き上げられる。
彼は、家という生命体を支える「大黒柱」――すなわちその家の心臓になった。
山の記憶は、深く太い木目の奥底に、静かに沈んでいった。
第二章『厚塗りの理想郷』
最初の住人は、若い夫婦だった。
「自分たちの理想」を形にするため、彼らは彼に過剰なまでの装飾を施した。
大理石の床、金色の取っ手、重厚な彫刻が施された扉。
「ここが、私たちの成功の証ね」
彼自身も、特注の艶やかな塗料で塗り固められ、本来の肌を隠された。
重たいシャンデリアの光が彼を照らし、背伸びした希望が家中に溢れていた。
彼はその重みを、慣れない誇らしさとともに受け止めた。
第三章『ひび割れた誇り』
だが、月日は静かに積もっていく。
――返済、疲労、すれ違いという名の、重み。
豪華だった外壁は色褪せ、自慢のドアノブは錆びつき、自慢の床材は湿気で反り返った。
「こんな家、買わなければよかった」
夫婦が去った後、残されたのは、剥げかかった塗料と、埃を被った豪華な残骸だけだった。
彼は、自分の節(ふし)に食い込んだ重厚な装飾が、今はただ痛ましかった。
第四章『琥珀色の傍観者』
住人が入れ替わるたび、家はさらに古びていった。
かつての輝きは見る影もない。誰もが彼を、使い捨ての器として眺めるだけで、その奥に眠る価値を見ようとはしなかった
そんな空っぽのリビングに、一匹の野良猫が居座るようになった。
「期待しすぎなんだよ」
猫は、ひび割れた壁を見上げ、琥珀色の瞳で彼を射抜いた。
「人間は、あんたの表面に貼られたキラキラした紙にしか興味がないのさ。その奥で、あんたが今も静かに脈打っている『心臓』だなんて、誰も気づいちゃいない」
彼は沈黙したまま、猫の言葉を反芻した。
猫は、錆びついた金色の手すりに背中を擦りつけ、鼻で笑う。
「……猫よ、お前はなぜここへ来る。もっと新しくて、暖かい家なら他にあるだろう」
柱の問いに、猫はあくびをして、わざとらしく視線を外した。
「どいつもこいつも中身が空っぽなんだよ。……それに、俺がいなくなれば、あんたは寂しいだろ?」
その皮肉混じりで本音を隠す猫の言葉に、彼の心臓は、ほんの少しだけ熱を帯びた。
第五章『呼吸を許す手』
やがて、新しい住人が現れた。静かな老夫婦だった。
彼らは、家を飾り立てようとはしなかった。
崩れかけた壁を補強し、軋む床を直し、雨漏りする屋根を塞ぐ。
それだけで十分だと、老夫婦は考えた。
錆びついた金色の装飾も、厚く塗り重ねられた塗料も、そのまま残された。
無理に剥がす必要はない――今はまだ。
「ちゃんと立っているわね、この家」
妻はそう言って、彼の幹にそっと手を当てた。
飾りの奥で、確かな手応えが返ってくる。
彼は、まだ覆われたままの自分の姿を受け入れながら、それでも久しぶりに、安堵という感覚を知った。
老夫婦は、家を変えようとはしなかった。
ただ、この家と共に、静かに暮らすことを選んだのだ。
第六章『老いゆく温もり』
ある日の午後、夫が庭先で足を滑らせた。
小さくうめき、妻が肩を貸す。
「情けないな」
「家も人も、ガタが来るものよ」
老夫婦はそう言って、笑った。
その夜、猫は棚の上から床へと降り、夫の足元で丸くなった。
喉を鳴らしながら、どこか言い訳めいた声で呟く。
「勘違いするなよ。人間なんて、脆くて、放っておけないだけだ」
彼は、その様子を黙って包み込んだ。
第七章『選ばれた家族』
ある夜、隣家からの失火で、赤い光が壁を舐めた。
彼は初めて恐怖した。自分は逃げられない。この心臓が止まれば、家は崩れ去る。
「猫は?」
「まだ中だ!」
老夫婦は一度は外へ逃げたが、名前のない猫を思い出し、煙の立ち込める家へと引き返した。
猫は、激しく爆ぜる火の粉を冷めた瞳で見つめ、それから、彼(大黒柱)を見上げた。
助けに来た老夫婦の腕の中に飛び込んだ時、猫は決めた。
この家とともに灰になるのではなく、この温かな腕に抱かれ、彼らの家族として生きることを。
幸い火は食い止められ、夜は再び、深い静寂に包まれた。
第八章『脈打つ心臓』
翌朝、彼は朝陽の中で立っていた。
老夫婦は特別なことは言わなかった。ただ、猫のために新しい皿を用意し、彼の煤けた表面を優しく拭った。
彼の節に食い込んでいた錆びた金色の装飾は、いつの間にか姿を消していた。
夜、猫はベッドの足元で丸くなり、老夫婦の寝息が静かに重なる。
人間は儚く、時に愚かな夢を見る。
だが、すべての人間が虚飾を必要とするわけではない。
こうして、ただ寄り添い合うことに幸せを見出す者たちがいる。
飾られた自分ではなく、ありのままの自分を愛してくれる者たち。
大黒柱としてこの家族を抱きしめる。
「……これで、十分だ」
彼は、心の底からそう思った。
夢と絶望と…時々皮肉屋の名前のない猫―家になった「ある樹」の物語 ふじの白雪 @lavendersblue
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