おかえりなさい

御戸代天真

おかえりなさい

 私の日常は、常に薄い膜に覆われているような、漠然とした重みに満ちていた。

 例えば何の変哲もない廊下で、突然足元が崩れたように盛大に転んだり、筆箱からボールペンが勝手に無くなったり、友人との待ち合わせにはいつも土砂降りの雨に遭った。

 ある日などは、誰もいないはずの自室の隅から凍えるような冷気が肌を這い上がり、同時に目の前で黒い靄が揺らめいたような錯覚に、思わず気を失った。

 学校での陰湿ないじめも、私が知らず知らずのうちに引き寄せているのかもしれない、とぼんやり思っていた。

 そんな奇妙な運の悪さは、もはや私の個性のようなものだった。 

 でも、そんな日々の終わりにはいつも決まって、母が笑顔で私を迎えてくれた。

 

「おかえりなさい!」

 

 穏やかな母のその声を聞くと、なぜかいつも、まとわりついていた目に見えない澱みがすっと薄れていくような気がした。

 その言葉が私を守ってくれていたのだと、当時の私は知る由もなかった。

 

 ある日、遠方に住む祖母が体調を崩し、母が数日家を空けることになった。

 その日の夜。トイレに起きた私は、リビングで父と母が何かを話しているのが聞こえた。

「お父さん、数日家を空けるけど、いつもの言葉を忘れずにね。あの子にしっかりと言ってあげてちょうだいね」

 何を話しているのか分からなかった私は、そのまま自室に戻って横になった。

 母がいなくなった家は、私にとっては切り離された別世界のように、輪郭がぼやけて感じられた。

 母がいない間、父が仕事を早く切り上げて私を迎えてくれていた。その日も学校から帰ると、帰宅していた父がいた。

「おう、おかえり」

 父のその言葉は、まるで空気に溶けるようにあっさりと消えた。私は頷いて自室へ向かったが、いつもと違う奇妙な感覚に襲われた。体が鉛のように重く、頭の芯がずんと痛む。部屋の空気は妙に冷たく、肌に張り付くような嫌悪感が全身を這い上がってくる感じがした。

 普段なら母の「おかえりなさい」で払われていたはずのものが、今日はそのまま私にまとわりついているような不快な感覚だった。

 早く布団に潜り込みたい一心で、私は父とろくに会話もせず、そのまま自室で横になった。

 微睡みの中で、部屋の隅から奇妙な音が聞こえる。カサカサと、硬い鱗が床を擦るような音。いや、もっと粘りつくような、湿った音にも聞こえた。視界の端で、黒い染みが揺らいでる気がした。それは壁を這い、天井に滲み、形を変えながらゆっくりと迫ってくるような錯覚を覚えた。

 きっと風邪を引いたんだ、熱があるのかもしれない。私は自己暗示をかけるように誤魔化したが、心臓は不気味なほど速く脈打っていた。

 

 深夜。

 自室の戸が、ゆっくりと開く音がした。眠い目をこすりながら見上げると、そこには母が立っていた。しかし、その表情はいつもの穏やかさとはかけ離れ、どこか緊張した神妙な顔つきだった。

 

「お母さん……おかえり」

 

 私が掠れた声でそう言うと、母は私の言葉を遮るように「……お帰りなさい」と言った。その瞳は、暗闇の中でも鋭い光を放っていた。

 

「お母さん……ただいまでしょ」

 

 そう言った私の言葉を遮るように、母はすっと人差し指と中指を顔の前に立てた。その細い指先から、まるで目には見えない光の矢が作られてるように感じた。そして獲物を射抜くかのように私の背後を見据え、凛とした声で言い放った。


「お帰りなさい!!」

 

 母のその一言が発せられた瞬間、バチッという乾いた音と共に、ゾワッと肌を撫でるような冷たい風が部屋中を吹き荒らした。私は反射的に身を縮め、布団の中で訳も分からず震えていた。

 私の耳元で、何かが叫びながら遠ざかっていくような、奇妙な音が聞こえた。それは単なる風の音とは違う、不気味な響きを帯びていた。

 一瞬の嵐のような混乱の後、目の前には、何も変わらない見慣れた私の部屋があった。

 

 その時、廊下からバタバタと足音が聞こえ、父が慌てて部屋に駆け込んできた。

 

「ごめんお母さん、俺のせいだ。俺がちゃんと言わなかったから」

 

 父は何が起こったのか分からずに呆然と座っている私と、ただ静かに佇む母に頭を下げた。父の話を聞き入れた母は、私をそっと抱きしめ、耳元で優しく囁いた。

「もう大丈夫よ。おかえりなさい」

 その腕の中で、まとわりついていた重苦しさが消え去っていることに気づいた。普段の生活で、母の「おかえりなさい」を聞くと、いつも心が軽くなるような気がしていた。あれは単なる気のせいではなかったのかもしれない。ひょっとして、私の不運と母の言葉には、何か関係があるのだろうか……。 

 心身の疲労が限界に達していた私は、そのまま母の腕の中で深く眠りに落ちた。

 

 翌朝。母はいつもの笑顔で、朝食を用意してくれていた。昨日の夜の出来事をどう切り出していいか分からずにいると、母は私の心を見透かしたようにテーブルに手招きして私を座らせ、静かに語り始めた。

「今まで言わなかったけど、『おかえりなさい』という言葉には、二つの意味があるの。一つは、無事に我が家へ帰ってきた者を迎える、文字通りの意味。

 でも、もう一つはあなたのように、知らず知らずのうちに『何か』を連れて帰ってきてしまった人へ、いえ、その『何か』に対して、家に入らず元の場所へ帰りなさいという、退けるための言葉なの」

 私はその時、帰省した祖母の家で聞いた話を思い出した。母の家系は古くから霊力が強く、霊が見える者が多いのだという。強い霊力を持つ分、目に見えない存在を引きつけやすいという宿命もあるが、それらを自らの力で追い払う術も受け継がれているはずだったが……。

 私の無言の疑問を母が説いた。

「あなたも私と同じく、霊力は持っているの。でも残念ながら、霊を見る力がないのよ。だから知らず知らずのうちに、地縛霊や浮遊霊といった、目に見えない存在を引き連れて帰ってきてしまっていたの。

 私の『おかえりなさい』は、あなたの後ろに引き連れてきた霊達に、ここにはあなたの居場所じゃないから、元の場所へ帰りなさいって言ってあげてたのよ。お父さんにもそのことは話してたんだけど、忘れちゃってたみたい」

 あの日の父のおかえりという一言だけでは、私にまとわりついていた邪気達は払われず、そのまま家に居座ろうとしていたのだと母は続けた。


 私は長年私を悩ませてきた『運の悪さ』の正体と、母の深い愛情が自分を守ってくれていたことを初めて理解した。あの夜抱きしめられた時の温かさと、その後感じた清々しさが、すべてを物語っていた。

 

 それ以来、私は家に帰ると玄関の戸を大きく開け、腹の底から声を出すように

 

「ただいま!」

 

 と叫ぶようになった。

 すると、玄関の奥から必ず聞こえてくる、母の変わらない声がある。

 

「おかえりなさい!」


 その声は私から邪気を払い、私の心を安堵で満たす魔法の言葉だ。私はかつてのように、ただ漠然とした不運に怯えるだけの私ではない。

 これからも目には見えないけど確かに存在する世界の澱みと向き合い、母から受け継いだ言葉を信じて生きていく。きっといつか、私自身も誰かの『おかえりなさい』になれるようにと、心の中でそっと誓いながら。

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