そのマフラーは、まだ温かかった

魔王の囁き 

第1話

 雪は、音を立てずに世界を覆っていた。

 段ボールの隙間から吹き込む冷気が、骨の奥まで染み込む。


 もう指の感覚はなかった。

 何年ここで冬を越したかも覚えていない。人は数えることをやめると、時間からも切り離される。


 ――このまま、朝が来なければ楽なのに。


 そう思った瞬間だった。


「……あの」


 小さな声。

 見上げると、制服姿の女の子が立っていた。赤いマフラーを首に巻き、手袋をはめている。頬は寒さで少し赤い。


「これ……使ってください」


 彼女は、首からマフラーを外し、差し出した。


「い、いいのか……?」


 声が震えたのは寒さだけじゃない。

 女の子は小さくうなずいた。


「今日は、すごく寒いから」


 それだけ言って、彼女は足早に去っていった。名前も、顔も、よく見えなかった。ただ、手渡されたマフラーの温もりだけが、確かに残っていた。


 その夜、彼は眠った。

 久しぶりに、ちゃんと。


 マフラーは、命だった。

 身体だけじゃない。人として、まだ見られているという証だった。


 春が来ても、彼はそのマフラーを手放さなかった。

 洗って、畳んで、大切に抱えていた。


「返さなきゃ」


 理由は分からない。

 でも、返さなければならない気がした。


 駅前に立てば、視線が刺さる。


「不審者がうろついてます」

「子どもに近づくな」

「ホームレスは排除しろ」


 警察にも止められた。


「何してる?」

「マフラーを……返したいだけで」


「誰に?」

「……分からない」


 笑われた。

 信じてもらえなかった。


 それでも彼は毎日、同じ時間、同じ場所に立った。

 赤いマフラーを抱えて。


 足は痛み、喉は渇き、心は何度も折れかけた。


 ――やっぱり、俺には無理だったのか。


 その日も雪が降っていた。

 あの日と、同じように。


「……あ!」


 聞き覚えのある声。


 振り向くと、少し背の伸びた女の子が立っていた。制服は同じ。首元は、寒そうに空いている。


「そのマフラー……」


 彼は慌てて差し出した。


「これ、君のだ。あの冬の日に……助けられた」


 女の子は目を見開き、次に、泣きそうな顔で笑った。


「よかった……ずっと気になってたんです。ちゃんと、生きてるかなって」


 彼の目から、何かがこぼれ落ちた。


「ありがとう。あれがなかったら、俺は……」


 言葉にならなかった。


 女の子は首を振った。


「返さなくていいです。でも……これからは、ちゃんと暖かいところで」


 彼は、うなずいた。


 マフラーは、彼女の首には戻らなかった。

 けれど、その代わりに、世界が少しだけ優しくなった気がした。


 雪は、静かに降り続いていた。

 冷たく、そして確かに、すべてを包み込むように。

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そのマフラーは、まだ温かかった 魔王の囁き  @maounosasayaki

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