汚濁の共生

 一九一〇年、一月。  マイドリングの浮浪者収容所を支配しているのは、凍てつくような「停滞」の色だ。


 昨年の冬、私は公園のベンチで夜を明かし、文字通り死の淵を彷徨った。あの時、私の指先は凍傷寸前で、鉛筆を握る感覚すら失いかけていた。這うようにしてたどり着いたこの収容所は、清潔さや尊厳とは無縁の場所だが、少なくとも凍死という「物理的な消滅」だけは免れることができた。


 だが、ここはあまりにも不潔だ。男たちの吐き出す脂ぎった呼吸、安スープの敗臭、そして石壁に染み付いた何年分もの絶望。私の理想とする『空間(ラウム)』からは最も遠い、無秩序の極致。私は、自分がこの泥の中の一部になりつつあることに、激しい嫌悪を覚えていた。


「おい。あんた、いい腕をしてるじゃないか」


 不意に、背後から声をかけられた。私は、膝の上で動かしていた小さなスケッチブックを隠すように閉じた。振り返ると、そこには薄汚れたコートを羽織り、ずる賢そうな笑みを浮かべた男が立っていた。ラインホルト・ハニッシュ。それが男の名だった。


「……何の用だ」


「怒るなよ。あんたが描いている建物の絵、あれをじっと見ていたんだ。人間がいない、冷え冷えとした風景。だが、線が正確だ。まるで生きた設計図だな。ここじゃ宝の持ち腐れだよ」


 ハニッシュは、私の横に厚かましく腰を下ろした。かつての私なら、こうした下層の人間との接触を本能的に拒絶しただろう。しかし、空腹はプライドよりも切実な痛みを伴う。私の手元には、もうパンを買うための銅貨すら残っていない。


「俺に預けてみないか。あんたが描き、俺が売る。あんたはここで座って描いていればいい。外を歩き回る泥臭い仕事は、俺が引き受けてやる。稼ぎは折半だ」


 ハニッシュの提案は、合理的ではあった。私にとって、自分の「聖域」である絵を、理解も及ばないような群衆に直接手渡すのは耐え難い苦痛だった。私の才能と、俗世間の欲望を繋ぐための「遮断機シャッター」が必要だったのだ。


「……いいだろう。ただし、作品の扱いは慎重にしろ」


 こうして、私とハニッシュの奇妙な共同生活が始まった。私は毎日、収容所の談話室の隅で、ウィーンの名所をあしらった絵葉書を量産し続けた。シュテファン大聖堂、シェーンブルン宮殿。かつて私を拒絶したこの街の皮を剥ぎ取り、一枚の小さな紙片に閉じ込める作業。それは私にとって、ある種の復讐にも似た快感だった。


 ハニッシュは確かに「道具」として優秀だった。彼は私の絵を持ち歩き、ビアホールや画商を回り、確実な現金を持って帰ってきた。少しずつ、私のパレットに「生気」が戻り始める。だが、それはかつての情熱とは違っていた。私の描く線は、より冷徹に、より無機質になっていった。私は、自分にパンを供給するハニッシュという男を「相棒」とは呼ばなかった。彼は私の才能という機械を動かすための、交換可能な「歯車」の一つに過ぎない。


(……正しい配置だ。私は描くことに専念し、下劣な作業は下劣な者に任せる。世界はこうして、機能別にあるべき場所へ収まるべきなのだ)


 収容所の固いベッドの上で、私はハニッシュが持ち帰った小銭を数えながら、確信した。人は平等ではない。役割が違うのだ。この汚濁に満ちた場所でも、私は自分の「秩序」を作り出せる。ハニッシュという汚れ役を伴いながら、私はこの不潔なスープを飲み干し、次なる筆を執る。だが、この平穏は長くは続かない。なぜなら、私は自分以外の人間が、私の描いた「設計図」から一ミリでも外れることを、決して許せない性分だったからだ。

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