絶望の冬

「……開かない。この扉は、私を拒絶するのか」


 ウィーン美術アカデミー、その巨大な石造りの門。仰ぎ見るほどに高いその扉は、歴史と権威の重みを湛え、微動だにせず私の前に立ちはだかっていた。指先に伝わる「不合格」の通知が、冬の湿った風に震えている。それは単なる紙切れではなく、私のこれまでの人生を、そしてこれから歩むはずだった未来を断罪する死刑宣告のようであった。


 一年前、一度目の失敗を私は「単なる不運」として処理することができた。まだ若く、情熱という名の絵具が十分にパレットに残っていたからだ。しかし、二度目だ。今回は試験を受ける権利すら与えられなかった。提出した作品だけで、私の人生というパースペクティブ遠近法は「見る価値さえない」と判定されたのだ。


 視界が白く霞み、豪華な装飾を施された街の並木道も、着飾って談笑する紳士淑女たちも、今の私には私を嘲笑う「色彩の汚点」にしか見えなかった。


 かつて、私の世界にはまだ正しい色が、守るべき秩序があったはずだった。オーストリアとドイツの国境にある田舎町、ブラウナウ。そこで私は、父アロイスの規律正しくも冷徹な統制のもとに育った。父は税関役人であり、家という名の小さな『空間ラウム』を、軍隊のような厳格さで管理する男だった。父の怒鳴り声は、私にとって常に安らぎを乱す不快なノイズであった。私はその重圧から逃れるために、自分の内側にある静謐な風景画の中に、一ミリの狂いもない建築図面の世界に逃げ込んだ。


「絵描きなど、食えもしない夢を見るな。お前は公務員になるのだ」    

父はそう言い放ち、私の手に握られた鉛筆を折り、その代わりに帳簿と印鑑を持たせようとした。私はその「決められた構図」に激しく反発した。父が望む安定したキャンバスを破り捨て、自分の人生は自分の手で描くと誓ったのだ。唯一、私の理解者であったのは母クララだった。彼女だけは、私の描く線に魂が宿っていると、いつかこの才能が世界に認められる日が来ると信じてくれていた。だが、その母も昨年の冬、乳癌という名の病魔に蝕まれ、私の目の前で灰色の亡骸へと変わった。母の死は、私の世界から最後の「温かみ」を奪い去った。  私は母を救えなかった無力感を抱えたまま、彼女が守ってくれたわずかな遺産を握りしめ、この芸術の都へやってきた。画家として成功すること、それだけが亡き母への、そして私を否定し続けた父への、唯一の復讐になるはずだった。


 しかし、ウィーンという都が私に用意した椅子は、どこにもなかった。


「魂がない、だと……?何が足りないというのだ。私はただ、正しい姿を描きたいだけなのに」


 私は通知をコートのポケットに押し込み、震える足で歩き出した。 一九〇八年の冬。ウィーン。石畳の上を馬車が駆け抜け、煤煙を吐く蒸気機関の音が響く。一見して華やかなこの街の裏側には、多民族が混じり合い、無秩序な言語が飛び交い、私の完成された美学を侵食する耐え難い『ノイズ』が充満していた。路地裏に目を向ければ、貧しい移民たちがたむろし、理解し難い言語で叫び、私に物乞いの手を差し向ける。かつて父の家にもなかった自由を求めて辿り着いたはずの場所は、今や私の耳を打つ、ドブネズミのような汚濁した音の溜まり場となっていた。


(どこへ行けばいい。私の居場所は、この世界のどこにあるのか)


 煤煙に汚れた雪が、私の肩に降り積もる。金は底をつきかけていた。下宿の家主からは催促の視線が向けられ、明日からはパン一つ買うのにも躊躇う生活が始まるだろう。かつて父に反抗し、胸を張って家を出たあの日の情熱は、今や凍てついた石畳の上に虚しく散らばり、誰に踏まれることもなく泥に塗れている。私は、自分の内側に宿る「才能」という名の怪物が、行き場を失って餓死しようとしているのを感じた。私の描く建物に人間がいないのではない。私の生きる世界に、私の認めるべき人間が一人もいないのだ。


 ドナウ川を渡る冷たい風が、外套の隙間から私の最後の手がかりである体温を奪っていく。 この時、私の心に小さな、しかし決して消えることのない「黒い点」が打たれた。それは悲しみではなく、底冷えするような憎悪だった。私を拒絶したアカデミーへ。私の美学を理解しない民衆へ。そして、この私の完璧な空間を汚し続ける、すべての不浄なノイズへ。


 この日の私はまだ知らない。 支配したいなどという大それた野心など、この時点では欠片もなかったことを。ただ、誰にも邪魔されない静かな場所で、完璧な建物の絵を描いていたいだけだったことを。だが、現実はそれを許さない。世界が私の筆を折るというのなら、私は別の道具を探さねばならない。 父の規律を憎み、母の死を嘆き、ただ美を求めて彷徨うこの惨めな青年が、やがてその憎悪をエネルギーに変え、歴史という名の巨大なキャンバスを真っ赤に塗り替えていく……。


 その序曲は、この冬の静寂の中で、すでに鳴り始めていた。


 私は凍える指先をポケットの奥で握りしめ、灰色の霧が立ち込めるウィーンの路地裏へと、消えるように足を踏み出した。  そこは、光り輝く宮殿の影。  これから数年間にわたる、地獄のような「潜伏期間」の始まりであった。

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