第4話:見つからないままでいいもの

 日曜の昼、スマホの画面をスクロールしていた指が止まった。

 毛先が頬に当たって邪魔で、私は髪ゴムを探して指に引っかける。昨日の試験のあとから、こういう細かいことにばかり気が向く。二十歳を過ぎて、落ち着きがないな、と自分で思う。


「……あれ?」


 画面の上に出ている通知でも、メッセージでもない。もっと手前の、身体の側から来た違和感だった。胸の内側に、薄い紙が引っかかっているような感覚。何かを思い出そうとして、思い出せないときの、あの引っかかり。


 私はベッドの端に座り直し、膝の上に置いた参考書を開いた。ページの角が少しだけ折れている。いつもならそこに、挟んであるはずだった。


 しおり。


 ――だった、気がする。


 「しおり、……ない」


 声に出した瞬間、確信の輪郭が少しだけ濃くなった。けれど同時に、具体が逃げた。どんな形だったか。何色だったか。どこに挟んでいたか。思い出そうとすると、霧の中で手を動かすみたいに、指先だけが空を掴む。


 大切だった。


 それだけは分かる。大切だったから、胸がざわつく。


 なのに――

 

 どこが、どう大切だったのかが、出てこない。


 昨日、土曜日。資格試験を受けた。チェックシートの、あの小さな丸。あの選択。試験が終わって、駅のほうへ向かった帰り道まで、たしかに続いているはずなのに、記憶が途中でほどけている。


 「……あれで、よかったのかな」


 答え合わせはまだ先だ。結果が出るまで待つしかないのに、頭の中だけが勝手に先へ走って、間違いを探してしまう。あの問題は別の選択肢じゃなかったか。あの設問はひっかけだったんじゃないか。思い出すたび、胸がじりじりする。


 もう考えたくない。


 そう思った瞬間、自分の気持ちに驚く。考えたくない、って。努力してきたはずなのに、結果が出るまでの時間がこんなに苦しいなんて。


 机の上のマグカップに、昨日のインスタントコーヒーの粉がうっすら残っている。手を伸ばして、触らずに引っ込めた。


 しおり。


 たぶん昨日、失くした。試験を終えたあとの、落ち着かない時間。どこに行った?私は昨日どこへ行った?


 思い返そうとすると、午前中の記憶はまだ繋がる。会場に向かって、席に座って、問題用紙をめくって、鉛筆を走らせた。昼前に試験が終わって、駅へ向かった。そこまでは、線になっている。


 でも――それから先が薄い。


 ページが一枚抜けている。午後の時間が「無かった」みたいに平らだ。


 手の中のスマホを握り直し、思いつくままに写真フォルダを開いた。昨日の写真。レシートの写真。メモのスクショ。どれもあるのに、肝心の「昨日の午後」が映っていない。


 息を吐く。


 「……駅前、だっけ」


 突然、駅前の景色が浮かんだ。白いテーブル。新しい店の白い外壁。コーヒーの香り。そこまで思い浮かんで、はっとする。


 行った覚えはない。けれど、行った気がする。


 駅前の新しいカフェ。


 Café Blancカフェ・ブラン


 名前だけが、妙に正確に出てくる。発音まで頭の中で鳴るのに、そこで何をしたかは曖昧だ。


 「……あそこかもしれない」


 理由は説明できない。ただ、そこへ行かなきゃいけない気がした。昨日の午後が抜けているなら、そこに落としたかもしれない。私はその感覚にすがって、ベッドから立ち上がる。


 財布を取り、髪を束ね直して、薄手のカーディガンを羽織った。鏡の前で口角を上げようとして、うまくいかない。表情が浮かないのは、疲れのせいか、焦りのせいか、それとも別のものか。


 玄関を出た瞬間、外の空気が少し冷たかった。冷たい空気を押し出すように、暖かい風が通り過ぎる。季節が変わりはじめている途中の、曖昧な温度。


 駅まで歩きながら、思い出そうとする。


 しおりは、いつから持っていた?


 答えは出る。中学生のころ、母が作ってくれた。細いリボンと、厚紙と、端の縫い目。部屋の片隅でミシンを踏む音。あのときの母の横顔。


 そこまでは出るのに、今日探している「しおり」の見た目が出てこない。色が浮かびかけて、すぐに白く薄れる。


 駅の階段を駆け上がり、改札を抜けた。


 ホームに着いた瞬間、電車が滑り込んでくる。私は迷わず飛び乗った。急いでいるわけじゃないのに、身体が先に動いた。座席に座って、息を整える。


 揺れ。


 電車の揺れはいつも通りのはずなのに、今日は少しだけ大きく感じた。胸の奥のざわつきが、揺れに合わせて広がっていく。私はスマホのメモを開き、「しおり」と打ちかけて消した。


 何を書けばいい?


 しおり。大切。昨日。駅前。カフェ。


 単語だけが並ぶ。文章にならない。単語の間の「つながり」がない。


 窓の外が流れる。景色が見えないほど速いわけじゃない。なのに、何かが置き去りになる感じだけがある。私の中の記憶だけ、駅を通り過ぎていくみたいに。


 次の駅。さらに次。


 気づけば、降りる駅が近づいていた。心臓が少しだけ速くなる。何かが見つかるかもしれない、という期待。見つからないかもしれない、という怖さ。


 駅前に出ると、風が頬を撫でた。生暖かさがひんやり洗い流される。視界の端で、白いものが横切った気がして、思わず足を止める。


 ――今の、何?


 見ようとしたときには、もう何もいなかった。人の流れだけが続いている。私は首を振って、駅前の通りへ出た。


 すぐに見つかった。


 白いカフェ。


 まだ新しい匂いがしそうな店構え。白い天板。白い椅子。テラス席に落ちる日差し。入口の文字が、白に溶けそうな色で書かれている。


 Café Blanc。


 「……ここ」


 名前は確かだ。ここに来た、という感覚もある。なのに、来た瞬間を思い出せない。私は深呼吸して、ドアに手をかけた。


 その直前、低い音が足元を抜けた。


 電車が一本、店の前を通り過ぎる。ガラスがわずかに震え、金属が触れ合うような乾いた音がした。揺れが収まってから、私はドアを押した。


 ベルが鳴る。


 店内は思ったより静かだった。白い壁。新しい木の棚。奥に、カウンター席。レジの前に、若い店員が立っている。大学生くらい。私より少しだけ幼く見える。


 目が合って、彼女が笑った。


 「いらっしゃいませ」


 その声が、やけに現実的だった。ここは夢じゃない。私は一瞬安心して、すぐに焦る。


 「すみません……忘れ物って、ありませんでしたか?」


 自分の声が、少しだけ高い。言葉が速くなるのが分かる。


 「忘れ物、ですか」


 彼女はすぐにカウンターの下を見た。トレーの位置を確認するみたいな動き。仕事の手順に沿った、きちんとした動作。


 私は続けた。


 「小さくて、でも、絶対に必要で……」


 必要。必要だった。そう言うしかない。どんなものかを説明できないのが、悔しい。恥ずかしい。情けない。


 彼女は困ったように眉を寄せた。


 「えっと……どんなものですか?」


 「……説明しづらくて。昨日……たぶん、この辺りに来た気がして」


 来た気がする。自分で言っていておかしい。来たなら覚えているはずなのに。来たのに覚えていないなんて。私は言葉を探す。


 「……手で作った、しおり、みたいな……」


 その瞬間、しおりの輪郭がふっと浮かびかけた。細いリボン。厚紙。縁の縫い目。


 なのに、色が出ない。模様も出ない。母の手の温度だけが残って、形が逃げる。


 「しおり……ですか」


 店員はメモ用紙を探し始めた。ペンを取って、連絡先を書いてもらう準備をする。その動きは落ち着いているのに、どこか急いでいるようにも見える。彼女の背後で、次のお客さんが入ってきた気配がする。小さく咳払い。


 私は焦って言った。


 「もし、見つかったら……連絡、いただけますか」


 「はい、もちろんです」


 彼女は笑った。でも、その笑いが少しだけ硬い。私の必死さが、店の白さの中で浮いているのが分かる。


 私はカウンター越しにペンを受け取った。手が少し震えている。連絡先を書く。字がいつもより乱れる。


 書き終えた紙を渡そうとして、彼女が一歩横に動いた。


 そのとき、彼女のすねに、何かが触れたのを見た。


 やわらかいもの。


 足元に白い影がある――ような気がした。けれど、彼女は床を見なかった。気づいていないみたいに、上を向いたまま動き続ける。


 私は見ようとしたのに、視線が上に引っ張られた。


 「ありがとうございます。……こちら、控えますね」


 彼女の声。レジの音。カップが置かれる音。店内に満ちるコーヒーの香り。


 香りだけが、妙にはっきりしている。深く吸い込むつもりはないのに、胸の奥まで入ってくる。私の焦りを、香りが薄めるみたいに。


 カウンターの奥から、男性の声がした。低くて落ち着いた声。


 「うん、忘れ物ね」


 店長らしい。四十代くらい。白いシャツ。静かな動き。


 「まあ、そういう日もあるよ」


 “そういう日”。


 人じゃなく、日で片づける言い方が、なぜか引っかかった。けれど私は、その引っかかりを握りしめる余裕がない。


 「……分かりました。すみません」


 私は頭を下げた。彼女は「いえ」と言った。店長は何も言わなかった。私の必死さだけが、白い店内に残っている。


 ドアを押して外に出ると、風が顔に当たった。さっきより少し冷たい。私は店の前で立ち止まった。


 ここじゃなかったのかもしれない。


 そう思った途端、肩の力が少し抜けた。必死で探していたはずなのに、期待がふっと軽くなる。軽くなるのが、怖い。


 私は歩き出した。駅前の通りを抜けながら、記憶を探す。


 どこで失くした?昨日、どこへ行った?

 葉擦れの音。電車の音。人の声。温かい手触りがあった気がする。

 

 ……試験会場から家までの「つながり」が見つからない。


 足元に、白い影がすっと横切った気がした。


 「……え」


 見下ろしたけれど、何もいない。白い石もない。白い袋もない。影だけが残ったみたいに、視界の端が少し白む。


 電車が一本、通り過ぎた。


 低い音と振動。アスファルトの上を滑るような音。私はその音に合わせて、呼吸を整えた。胸の奥のじりじりが、少しだけ薄くなる。


 交番が見えた。


 ここなら、手続きをすればいい。やることが決まっている場所。私は自分の足で交番に入った。


 「すみません、落とし物を……」


 お巡りさんが顔を上げた。年齢は分からないけれど、制服が少しだけくたびれて見える。優しい目。


 「どうしました?」


 私は説明しようとした。


 しおり。手作り。大切。昨日。


 言葉にしようとすると、ほどける。形が残らない。私は焦って、同じ言葉を繰り返す。


 「小さくて……でも、すごく大切で……」


 「うん。落ち着いて。どんなものですか」


 「……しおり、です。たぶん。母が昔……」


 母が昔。そこで、続きを言えなかった。母が作ってくれた。それが大切だった。そう言いたいのに、「大切だった」の理由が言葉にならない。母の顔は浮かぶのに、しおりの色が浮かばない。


 お巡りさんは手帳に書きながら頷いた。


 「手作りのしおりね。形は? 大きさは?」


 「……名刺より小さくて……リボンが……あった、気がします」


 “気がします”。


 自分で言っていて変だ。気がする、って。本人なのに。私はだんだん自分が信じられなくなっていく。


 お巡りさんは、責める顔をしない。


 「大丈夫。届けがあったら連絡します。連絡先、書いてください」


 私は紙に名前と電話番号を書いた。字はさっきより落ち着いている。落ち着いていることが、怖い。


 「……すみません。お願いします」


 「はい。気をつけて帰ってね」


 交番を出ると、外の光が少し白かった。夕方に差し掛かっているのに、昼の残りがまだ空にある。駅へ向かう足取りが、さっきより軽い。


 なぜ?


 探しているはずなのに。失くしたものは見つかっていないのに。


 改札へ向かう途中、電車が何本か通り過ぎた気がした。一本、二本、三本。数えたわけじゃないのに、「何本か」という感覚だけが残る。低い音が足元を抜けて、そのたびに胸の中の何かが薄くなる。


 足元を、白い影が静かに横切った。


 さっきよりはっきり見えた気がする。白い毛。小さな背中。尻尾。


 ――ネコ?


 そう思った瞬間、温かい手触りが思い出された。


 あのやさしい触感。指先に残った温度。撫でたのか、触れたのか、抱えたのか。分からない。ただ温かかった。


 私は立ち止まり、追いかけようとして、やめた。


 追いかけたかったはずなのに。追いかけなきゃいけない気がしていたのに。今は、そこまでの必死さがない。


 代わりに、コーヒーの香りがふっと戻ってくる。


 Café Blanc。


 あの店の白い壁。白いテーブル。店員の硬い笑い。店長の低い声。「そういう日」。


 それだけは、妙にはっきり覚えている。


 なのに。


 しおりの色が出ない。


 母の指先が作った縫い目の感触も、どこか遠い。大切だった、という感覚だけが、薄い紙みたいに胸に貼り付いている。理由が分からないまま、感覚だけが残る。


 それすら、だんだん軽くなる。


 私は改札を抜け、ホームに立った。時刻表通りに電車が来る。ドアが開き降りる人がいないことを確認して乗る。ゆっくりとドアが閉まり電車は発車する。

 

 揺れる窓に映る自分の顔は、昨日の試験前より少しだけ楽そうに見えた。口角が、さっきより上がっている。


 「……いいのかな」


 呟いた声は、揺れに溶けた。


 いいのか悪いのか、判断する材料がない。結果もまだ出ていない。しおりも見つかっていない。


 それでも。


 重荷がなくなったみたいに、胸がすっとしている。


 家に着くころには、私は「なぜあれが大切だったのか」をほとんど思い出せなくなっていた。


 思い出せないのではなく、思い出そうとしない。そういう距離に変わっている。探すこと自体が、もう面倒に感じられる。


 玄関の鍵を開け、靴を脱ぐ。部屋は昼の温度を引きずっていた。


 机の上の参考書を見て、私は一瞬だけ笑った。


 しおりがないページを、指で押さえる。


 押さえた指先に、何も残らない。


 「……まあ、いっか」


 口に出してしまって、少しだけ驚いた。


 本当に、まあいっか、なのだろうか。


 答えは出ない。出ないまま、私は冷蔵庫から水を取り出し、一口飲んだ。喉を通る冷たさが、頭の中を空っぽにする。


 電車の音が、遠くで一度だけ鳴った。


 その音に合わせて、胸の奥の引っかかりが、ふっと薄れた。


 見つからないままでいいもの。


 それが何なのか、もう確かめようがなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白む街は、何も言わない 朝凪 つばき @Tsubaki_Asanagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ