10キロのスーツケースと数グラムの希望

猫小路葵

10キロのスーツケースと数グラムの希望

 10キログラム。それが、この星から持ち出せる、一人あたりの「手荷物」の最大重量だった。


 搭乗ゲートは避難民たちで溢れ返っていた。一人一人の手が、大型スーツケースや登山リュックを必死に握りしめている。小さな子供たちでさえ、その体には明らかに大きすぎる荷物を背負わされていた。上限ぎりぎりまで「財産」を持って出るために、親たちは我が子の小さな肩にも、可能な限りの重さを詰め込ませていた。


「次」


 ゲートの係官が無表情で乗客を呼ぶ。その都度、行列の先頭がカウンターに進み出た。

 待機列に並びながら、この期に及んでまだ荷物の整理をしている者もいる。床に寝かせたトランクから溢れ出した札束、彫刻の施された銀食器、文豪の名作。そして、今はもう誰も見上げることのない地球の空を描いた、黄金の絵。

 往生際の悪さを見かねた職員が、マイクを通して無機質な声で言う。


「鞄は必ず閉じた状態で列に並んでください。入らない物は『不要品』の箱に入れてください」


 諦めた誰かの「荷物」が箱に投げ入れられる。誰かの執着が、歯噛みとともに切り捨てられていく。それを頂戴しようと群がる者たちを、職員が追い払った。


「次」


 係官の男は、手元のモニターを見つめたまま、ぶっきらぼうに言った。その目の前に立ったのは、ワンピースを着た小さな少女だった。彼女の細い両手は、胸元にある「それ」をぎゅっと抱きしめていた。

 それは、一匹のクマのぬいぐるみだった。足の肉球には、少女の名前と誕生日が刺繍されていた。少女は一人でぽつんとカウンターの係官を見上げていた。


「ひとり?」


 係官が問うと、少女はこくりと頷いた。


「荷物はそれだけ?」


 少女はぬいぐるみと、もう一つ、ペンダントのように首に掛けていた財布を係官に見せた。ウサギの顔をかたどった財布だった。

 周囲の大人たちは、自分たちの持ち物を少しでも多く鞄に詰め込もうと血眼になっている。少女は誰からも気にされず、ぬいぐるみを抱いて立っていた。

 係官は無言でチケットに電子スタンプを押した。荷物はクマのぬいぐるみとウサギの財布だけ。重量を測るまでもない。係官は腕を伸ばし、チケットを少女に差し出した。少女は小さな声で、


「ありがとう」


 そう言って、ゲートの中に入っていった。




 避難先の星は、地平の果てまで荒野だった。そこに仮設の小屋が立ち並び、人々は家族単位で入居した。各地に点在する集落に食糧を積んだ車が巡回し、人々に配った。色々な不満の声も上がったが、言ってどうなるものでもなかった。


 その内に、配給車が来る回数は減っていった。燃料が底をつき、夜間は気温が急激に下がるこの星で、人々は暖をとるために、燃やせるものは何でも燃やした。貴重な本も、絵も、札束も燃やした。

 ここに来る前、空港の搭乗ゲートで、誰も彼もスーツケースに馬乗りになって詰め込み、死守した「財産」だった。それが、今となっては寒さを凌ぐ燃料に変わった。メラメラと昇る炎は、かつて名作と呼ばれた物語やキャンバス、そして『世界のすべて』とまで言われた紙幣を、大口を開けて呑み込んだ。


 子供らは飢えや寒さを紛らすために、必死で遊んだ。母親が愛用していた高級口紅や眉墨で絵を描き、宝石を小石代わりにして石蹴りをした。金塊などは使い道がなく、部屋の隅に打ち捨てられていた。

 避難所は各地にあり、所によっては物騒な事件も起きていた。やがてその時期も過ぎると、人々は次第に動く力をなくしていった。ただぼんやりと開いた目に、どこまでも続く荒野だけが映っていた。


 クマを抱いた少女は、岩に背中を預け、一人で座っていた。

 首から提げていたウサギの財布はもう無かった。


 とても寒かった夜、少女は、ある小屋の戸を叩いた。室内では人々が火を囲んでいた。そこは家族用の小屋だった。

 少女は一人きりだったので、単身者用の小屋に入った。そこで邪魔にされると、また別の小屋に入れてもらった。

 けれど、その夜訪ねたのは、家族連れが住む小屋だった。外から見えた親子の影や火の明かりがとても暖かそうに思えて、少女はつい戸を叩いでしまった。

 わずかに開けた戸の隙間から、大人が言った。


「燃やせる物は持ってるのか?」


 少女は、ウサギの財布から紙幣を一枚取り出した。折り紙のように四角く折りたたまれた紙幣。両親が少女を庇って死ぬ間際、渡してくれた紙幣だった。


「まだあるだろう」


 大人はウサギを覗き込んだ。そして、残りも全部出させた。

 火を囲み、何家族かが集まっていた。皆それぞれの家族で体を寄せ合っていた。少女は一人だったので、クマを抱きしめた。ほんのり温かいような気持ちになった。


 火の勢いが少し弱まったとき、皆の視線がウサギに集まった。一人の大人が無言で手を出す。少女も黙って、首からウサギを外した。

 ウサギが火の中に投げ込まれると、束の間、火は強まった。少女はじっと、燃えていくウサギを見つめ続けた。


「それも燃やせばいいじゃないか。よく燃えそうだ」


 皆の視線がクマに移動した。

 丸々としたクマ。ふわふわの毛皮。ぎっしり詰まった綿。

 四方から手が伸びてきた。少女はクマを胸に抱き、急いで立ち上がった。


 クマの片足を誰かに掴まれ、引っ張り返すときに糸がほつれた。少女は靴も履かずに玄関を飛び出して、裸足で走った。

 暗く冷たい荒野を、クマと手を繋ぐようにして、夢中で逃げた。吐く息は白く、クマの片足がブラブラと揺れていた。


 寒風が吹きすさぶ荒野を、少女はどこまでも走って、岩山の麓に行き着いた。地平線の上の空が薄明るくなっていた。

 何もなく、誰もいない。

 その分、怖い人もいなかった。

 ここなら大丈夫、と少女は思った。この子を取り上げる人はいない……少女は親友を胸に抱え直した。


 息が整ってくると、裸足だったことに気がついた。素足で土を踏む感触に、保育園の園庭で、みんなで裸足になって遊んだ思い出がふと顔を覗かせた。先生の笑顔、お友達の笑顔。赤、青、黄色に塗られた遊具――

 足元に視線を落とす。夜明けの空と同じくらい、足の先が赤紫色になっていた。クマを両手でぎゅっと抱きしめたら、さっきみたいに、少し温かいように錯覚した。


 少女は、大きな岩の下に座った。見上げると、岩もこっちを見ている気がした。何となく、両親に抱かれるような安心感があった。

 少女は岩に凭れて、両親のことを思い返した。少女の父母は街で花屋を営んでいた。店の中はいつもいい香りがしていて、色とりどりの花でいっぱいだった。少女はお手伝いをするのが好きだった。親友のクマを椅子に座らせておき、自分は母の隣で花の世話をした。


 クマのぬいぐるみは、少女が生まれたときに父親が玩具屋に注文して作らせたものだった。足の裏には少女の名と誕生日が刺繍されている。クマと少女は親友になった。

 少女が少し大きくなった頃、四六時中ニュースで星間避難について報じられるようになった。そんなある日、父が少女のクマを「ちょっと貸してくれるかい?」と言った。少女からクマを預かった父は、クマの腹を少しほどいて、中に何かを入れ、また縫い付けた。

「よし。これでなくさない」

 父は少女にクマを返すと、言った。


「この子のお腹には、『希望の種』が入っているんだよ」

「きぼうのたね?」

「いつか時が来たら、この種を蒔くんだ。地球が滅んでも、希望までは滅ばない」


 あれは、なんのことだったのかな――と、少女はぼんやり考えた。けれど、そうして何かを考えることも、少女は億劫になってきていた。

 クマを抱いていた少女の手が、はらりと地面に落ちた。支えを失ったクマは、乾いた大地に転がった。そうして少女が岩に凭れたままの格好で、何日も何日も過ぎたけれど、少女を気に留めることができる人類は、もう一人もいなくなっていた。


 避難当初はあった「子供の泣き声」や「大人たちの罵声」が、日を追うごとに消えていった。今ここで聞こえる音はもう、「風の音」だけだった。子供たちが母親の口紅で描いた絵が、砂嵐に削られて消えていった。


 野晒しのクマは、しばらくしてお腹が破けた。強い紫外線が、クマを少しずつボロボロにしていった。するとある日、お腹の中から何かが零れ出た。


 それは、植物の種だった。様々な植物の種だった。

 風に乗り、遠くへ飛んだ種もあったが、少女のまわりに残った種もあった。何日かして、雨が降った。雨を吸った種は、大地に芽を吹いた。


「この子のお腹には、『希望の種』が入っているんだよ」


 芽は育ち、根を張って、枝葉を伸ばす。花が咲き、昆虫によって実を結び、また種ができる。そうしていつか、この荒れた星は緑で埋め尽くされるのだ。

 少女の父親が当時、どんなことを思ってクマに種を仕込んだのかはわからない。けれど、それらは今たしかに「希望の種」となった。


 少女のそばにも、小さな芽が顔を出していた。親友のクマもそちらを向いて横たわっている。少女の手は、まるでその芽を守るかのように、静かに置かれていた。



 

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