猫又の恩返し

御戸代天真

猫又の恩返し


 あーあ、人間に生まれたかったな。

 三十階建ての、高層マンションの屋上。都会の喧騒が遠い波のように聞こえる中、温かい日だまりに干された座布団の上で、くはぁとあくびをした。

 

 私には人間も車も家々も、まるで巨大な箱庭のおもちゃのようだった。何が起きても、文字通り人ごと。それなのに、下界で繰り広げられる人間たちの騒がしさは、どこか滑稽で、時にはいじらしい。それを眺めてるのが、この姿になってからのちょっとした楽しみだった。

  

 私はむくりと起き上がり、前足を目一杯伸ばし、硬くなった筋肉や関節をほぐした。別にしなくてもいいけど、猫という生き物の癖はたとえもう必要なくても、体が覚えているものなのよ。

 

 屋上の縁をトントンとリズミカルに歩き、わざと強風に煽られてゆらゆらと揺れてみた。このまま宙返りでもしてみようかと思ったけど、さすがにやめたわ。もしふわりと浮かんで飛ばされでもしたら、待ち合わせに遅れてしまうじゃない。せっかく早く来て待っているのに、無駄になったら大変よ。私は二本の長い尻尾を優雅になびかせながら、あくまで「今来たばかりよ」という顔でご主人を待った。


「お待たせ、ごめんね」

 やっと来た。

 振り返ると、あの頃と変わらない優しい笑顔で、ご主人が私に手を振っている。

 相変わらず明るくて優しい声ね。どれだけ時間が経っても、一番好きな声だわ。でも、ここで犬みたいにタッタと走ってしまっては、私の威厳が台無しね。ここは優雅に歩いていくのが、レディの嗜みよ。私は一歩一歩、まるで水面の上を歩くように、ご主人の方へ向かった。

 ご主人は、私をしゃがんで待っていてくれた。その開かれた手のひらの中へ、私はゴツンと頭を当てて体を預けた。ご主人は黒、白、黄色の三毛でできた私の体を、いつものように、頭から尻尾まで一定方向に優しく撫でてくれる。 

 触ってもらう手が冷たくないよう、ふんわりした毛で心地よく感じてもらえるように、私はさっきまで日向ぼっこをしていたの。気の配れるレディはこうやって相手を思いやるのよ。


 何度か私を撫でるうちに、ご主人の手が少しぎこちなくなってきた。どうしたのかなと顔を上げると、申し訳なさそうにこちらを見つめるご主人の顔があった。 

「……ごめんね、みっちゃん。私のせいで、こんな姿に」

 私は「気にしないで」と言いたかった。けれど、ご主人には「にゃおん」としか聞こえない。だからご主人の手に、私の頭をぐりぐりと押し付けた。

 

 生前のご主人は、私のことをものすごく可愛がってくれた。産まれたばかりで小さく、怪我をして河原で鳴いていた私を見つけ懸命に看病してくれた。

「三毛猫だから、みっちゃん」と名を与えてくれて、何も知らなかった私に教えてくれた。お日様の温かさを、布団の安心さを、ご飯の美味しさを。

 ご主人は毎日一緒に寝てくれた。その時にいつも、「生きててくれてありがとう」と言ってくれた。私からしてみれば「生かしてくれてありがとう」なのに、ご主人はそんなこと気にするそぶりすらなく、十数年の間惜しみない愛を注いでくれた。


 そんな折、私は病を患った。腎臓が機能しなくなって日に日に痩せ細り、歩くのもやっとで、ただ横になっていることしかできなかった。

 ご主人はそのことをひどく悲しんだ。でもご主人はその時既に、今際の際だった。それでもご主人は、呼吸をするのがやっとの状態でも途切れ途切れに「みっちゃん、みっちゃん……」と、私の名を呼び続けた。最後の最後まで、私のことを思ってくれていた。


 ご主人が冷たくなった翌朝。私の尻尾は、二つに分かれていた。少し長くなった二本の尻尾は、ゆらゆらと交互に動き、その先は提灯のようにぼんやりと光を放っていた。

 ああ、これが俗に言う『猫又』に成るということか。親も兄弟の顔も知らないけど、猫としての本能に刻まれた秘密の一つなのか、さすがの私もすぐに分かった。 

 この姿になるのは、諸説あるらしい。

 長生きした猫が化けて妖怪になった姿、猫の地縛霊が具現化した姿。所によっては、招き猫の源の姿や農村の猫神、呪いなど様々に。

 成りたくても誰でも成れる訳ではないし、まさか私が成ると思わなかったから、当初は実感が湧かなかった。

 でもしばらくして、人間や車の動きが、私にはまるでスローモーションのように見えた。かつては聞き取れなかった微細な振動まで私の耳に届くようになって、慣れるまで鼓膜の辺りが気持ち悪かった。

 それからもう一つ。私の指先が触れると、その触れたものの過去と未来の断片が、まるで水面に広がる波紋のように脳裏をよぎるようになった。おかげで色んなことを見れちゃうようになったわ。

 そしてこの姿が慣れてきた頃に、霊界と繋がれることを知った私は、こうして時々ご主人と会っているのだ。 

 そしてふと体を預けた時、ご主人は自身が旅立つ直前「みっちゃんを、苦しみから解放してほしい」と、願っていたことを知った。その願いが叶ってしまい、私がこの姿になってしまったと深く苛んでいるということも。

 私は何も責めてないのに、ご主人から少しだけ、気を遣った匂いがするのが気になってしまう。

「……みっちゃん、ごめんね。こうなるとは思ってなかったの」

 ご主人は、また謝る。

 私は「気にしないで」と、頭をぐりぐりするのを繰り返す。

 

 実は、ご主人はまだ知らないけど、私がこの姿になったのには秘密があった。


 ――ご主人が冷たくなったばかりの夜。私は、とある夢を見た。

 ぼわーっとする光の中から、どこかご主人と似た、安心するような優しい声が聞こえてきた。それは、世界中の温かいものだけを集めたような、清らかな響きだった。

「君は……とても、愛されていたようだねぇ」


「……そうね」

 私は、静かに答えた。

 何者かも分からなかったから、そう答えるしかなかったんだけど。

 

「……楽しかったかい?」

 

「……ええ」

 何を聞きたいのかしら。

 私はまだこの時、ご主人が旅立っていたことを知らなかったから、そう思ってしまった。なんなら、この情景を見ている私がそうなったのかと思ったくらい。

 

「よかったねぇ……君は、とても、幸せだったんだねぇ」

 

 顔は見えないけれど、きっと、声の主は笑っているのだろうと思った。それくらい穏やかに言ってくれた。

 

「ええ、楽しかったわ。それなのに、私は……何もしてあげられなかったわ」

 

 ああ……とうとう、私の番なのね。ごめんね、ご主人。

 本当に何もできなかった。恩返しの一つでも、したかったのになぁ。そう私が心で呟くと、声の主は少し明るい声でこう言った。

 

「……そうかい、そうかい。……それじゃあ、今度は君が、ご主人さんに、それを返してご覧なさい」

 

「え……ちょっと、どういうこと?」

 私は問いかけた。

 

「ほっ、ほっ、ほっ。……まあ、ゆっくりでいいよ。やってみなさい」

 

 そう言うと、声は遠ざかるように小さくなっていった。

 

「ちょっと、聞いてるの? ねえ!」

 会話はそこで、一方的に終わった。

  

 そして次の日。目が覚めたら、私の尻尾は二つに分かれていた。

 

 ご主人は自分のせいで、私がこんな姿になったと思っているかもしれない。でもそれは間違い。私が願ったことが、どこかの誰かに叶えてもらったものなのよ。

 なぜそれが猫又なのか、真意は分からないけれど、この姿になったことで病気は消えたし、時間の概念から外れることができた。だから、私はずっとやりたかった、言葉を覚えるが練習ができるのよ。私が言葉を話せたら、ご主人との時間ももっと楽しくなるし、今まで伝えられなかったこともいっぱい話せる。どうせこの姿になったことだし、ちょっとは猫又っぽいこともやってみないとね。

 私がそんなことを思っているとも知らず、ご主人は変わらず撫でてくれる。優しく、けれど少し気まずそうに。

 難しいものよね、言葉を交わせないのは。

 ご主人、もう少しだけ待っててね。

 私は今できる精一杯の感謝を込めて、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、ご主人に体を預けた。

 

 ふふふ。でも実は、私は知ってるのよ。

 ご主人は昔から、私とお話ができたらいいのになぁって、思っていることを。そして、話すことができた私を見て、びっくりしてる姿も。

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