第1章 霧深き迷宮と風の精霊

塩塚 和人

第1話 冒険の始まり


霧の立ち込める朝、リアン・フェルドは

村の小さな家の前に立っていた。孤児として

育った彼の肩には、見えない重みがのしかかる。

けれどその目は、決意に満ちて光っていた。


「今日は……行くしかない」

独り言のようにつぶやく声に、北風が応えた。

エルドリス平原の北端、霧に閉ざされた土地に

伝説の迷宮があると、村の老人は言った。


その名は――風の迷宮。

霧と風に覆われ、足を踏み入れた者の多くは

二度と戻らぬという。だが、秘宝と呼ばれる

宝の存在は、彼の胸を高鳴らせた。


幼い頃から孤児だったリアンにとって、

迷宮の伝説は夢のような希望だった。

この地で、何も残せずに終わる人生など

彼は受け入れられなかったのだ。


朝焼けの薄紅色が、村を柔らかく染める。

リアンは背負った小さな革袋の中を確かめた。

食料と水、古びた地図、そして愛用の短剣。

すべてはこの旅のために用意されたものだ。


村の人々は見送るどころか、彼を止めた。

「危険すぎるぞ、リアン!」

「子どもひとりでは無理だ!」

だが、リアンは首を横に振った。


「僕は行く。必ず帰る。だから……見守って」

声には震えもあったが、決して弱さはなかった。

彼の心にあるのは、恐れよりも希望の方が強かった。


村を出ると、北風が強く吹きつけた。

霧は深く、視界は数メートル先までしか届かない。

迷宮への道はすぐに見えなくなり、

孤独と静寂がリアンを包んだ。


歩みを進めるたび、霧の中に微かな気配がある。

それは冷たくも優しい、空気の流れのようなものだった。

突然、風が強く吹き抜け、葉のような音が耳を打つ。

そして、霧の中に一筋の光が揺らめいた。


「……誰かいるの?」

リアンが問いかけると、微かな声が返ってきた。


「……ふふ、久しぶりね、人間」

声の主は霧の中に浮かぶ影のようだった。

次の瞬間、風が渦を巻き、目の前に少女が現れる。


透き通る青い髪と、羽のように軽やかな衣装。

その瞳は空色で、笑うと風が踊るように揺れた。

「私はセリナ、風の精霊よ。あなたを待っていた」

リアンは言葉を失った。精霊――伝説の存在が、

本当に目の前にいたのだ。


「精霊が現れるのは、迷宮に足を踏み入れた者だけ」

セリナは風に乗せて話す。声は耳に心地よく響いた。

「迷宮は生きている。風の流れで道を変えるの」

「それに、迷宮はあなたの心も試すわ」


リアンは深く息を吸い、決意を新たにした。

「わかった……俺、進むよ」

セリナは微笑み、風に乗ってくるくると舞った。


「なら、最初の試練よ」

霧の中、リアンの前に小さな浮遊石が現れる。

石には不思議な模様が刻まれ、触れると風が巻き上がった。

「これを越えられたら、迷宮の入り口に進めるわ」


リアンは短剣を握りしめ、石に一歩踏み出した。

風が顔を打ち、霧が視界を奪う。だが心は揺れない。

幼い頃から培った勇気と機転が、今試されるのだ。


風に導かれるまま、リアンは浮遊石を一つずつ越えていく。

霧は濃くなり、足元の地面すら見えない。

だがセリナの声は、常に背中を押してくれる。

「その調子、リアン。迷宮はあなたの歩みを待っていた」


夜が迫る頃、リアンはついに迷宮の入口に立った。

霧の壁は高く、風が絶えず渦を巻く。

入り口に足を踏み入れると、風の精霊セリナが手を差し伸べた。


「さあ、冒険の始まりよ」

リアンは頷き、手を握った。

心の奥底で、不安よりも大きな期待が膨らむ。

迷宮に立つ一人の少年と、風の精霊の物語は、

ここからゆっくりと動き出したのだった。


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