月詠の刻、君に寄す
星影らむね
月読の 光に来ませ
―月読の 光に来ませ
あしひきの 山きへなりて 遠からなくに―
月の光をたよりにおいでください。あしひきの荒い山道を間において遠いというわけではありませんのに ……。
ふと、こんな和歌が頭の中によぎった。万葉集の中の一首。男性である湯原王が詠んだ、女性の立場に立って恋仲である相手を想う和歌。朧気ながらにこの和歌を思い出したのはあんまりにも綺麗な満月が空に浮かんでいたからだろうか。提灯の淡い光が家の軒先に揺れ、空には全てを飲み込んでしまうような暗闇にまんまるい月だけがぽかりと浮かんでいた。なんだか1人、感傷的な気分になったことが腹立たしく感じられて、先程思い出した和歌をメッセージに送ってみる。しばらく経っても既読はつかず、諦めてベッドに寝転がる。ぼんやりと月を眺めていたらもうとっくに日付を越していることに気がついた。
「……何やってんだろ。あいつ、もう寝てる時間帯だよ。」
そう、メッセージを送った相手は昔っから寝るのが早かった。小学生並みに。プロの世界で生きる彼は早寝早起きのルーティンを崩さない。もうとっくに夢も見ないような眠りに落ちているのではないのだろうか。そこまで考えて、自分の行動がバカバカしくなる。なんで恋人を想う和歌をあいつに送ったんだろう。送信を取り消そうか。いや、あいつがこんな和歌知ってるわけがない。意味が分かるわけもないだろう。だって馬鹿だから。高校生の頃、古文も教えたことがあった。和歌だって訳し方と、解釈と、掛詞とか、枕詞とか色々教えてやったけど覚えているわけが無い。なんせ、あいつの頭の中は吹奏楽とトランペットのことでいっぱいだ。
「ほんっとに、バカバカしい。」
そう呟いて目を閉じた時、来客を知らせる軽快な電子音が鳴り響いた。こんな時間にー僕が言えることでもないがーなんだろうか。誰だろう、
「は、
「あ?お前が会いたいから来いって言ったんだろうが。」
「ちょ、え?はぁ?!お前、あれの意味がわかったわけ?!」
「???アレ……?わかんねーけど、そんな気がしたから」
「……バカ、ほんっと、バカ。これだから単細胞は……」
分からないだろうと高を括って送ったものが、理解されたのかと慌てて問うと首を傾げて返された。何か本能的なもので感じたらしい。自分が送ったメッセージが原因なのにそのまま帰すのもなんだかしのびなくて家の中に入るよう促す。彼は黙って後ろを着いてきた。
「紅茶でいい?」
「あ?なんでもいい。」
「そ。」
いくつか置いてあるなかから何となくアールグレイを選んで丁寧に抽出する。お湯をたっぷり沸かして、カップとポットを温める。1度お湯を捨てて、温まったポットに茶葉をティースプーン2杯。約6g。紅茶の缶を開ければふわりと柑橘系の香りが広がった。沸騰したばかりのお湯を注ぎ入れ蓋をして蒸らす。ティーコジーを付けて、保温しつつ、3分の砂時計をひっくり返す。儀式めいた工程を丁寧にこなしてサラサラと落ちていく砂を見る時間が好きだったりする。気がつけば後ろに代河がいた。
「どうかした?」
「いや、何でも。……お前、ほんとに紅茶好きだよな。」
「……うまい菓子を食べるのに美味しい紅茶じゃないと嫌だったから練習しただけ。今日だって気が向いたからだし、いつもはそんなにちゃんと淹れない。」
普段はティーパックだし。その言葉は聞こえていたのだろうか。興味が無いのか、届かなかったのか。ふーん、と興味がなさそうにリビングに戻って行った。
茶こしを使って漉しながらポットの中身を温めておいた2つのカップに注ぎ入れる。我ながら綺麗な色をしていると思う。砂糖を入れている調味料ポットとミルクを一緒にお盆に乗せて彼を追うようにリビングに戻る。コトリ、と音を立てて紅茶を置けば代河の顔が少し綻んだ気がした。
「砂糖とミルク、使うなら勝手に。」
「いや、
俺は甘いのが嫌いじゃないから、今日の気分的に砂糖をスプーン1杯とミルクを入れる。口に含めば、程よい甘さと温かさが心地よい。しばらく、互いに黙って紅茶を飲んでいた。
「……最近、どうだ?」
「???普通だけど。」
普通に、いつも通りに図書館で司書として働いて、拠点が近くにある楽団で演奏活動をする。大学をでてから何ら変わらない日常を代河が気にすることに疑問を持てば、変わんないならいい、とそこで会話が終わった。別に今更無言の時間が気まずい、なんてこともなく静かに時間が流れていく。お互いにカップの中身を飲みきったころには少しずつ空が白み始めていた。カチャ、と静かな音を立ててカップを置いた代河はスっと立ち上がる。
「帰る。」
「え、はぁ?また急に」
「あのさ、月許。お前ならもっと上のレベル高い楽団入りも目指せるぞ。」
「え?」
じゃ、またな。そういって彼はドアを開けた。なんの脈絡も突拍子もなくて、呆然とした俺は我に返って外に出る。代河の姿はもう見えなくなっていた。
部屋に戻って先程の椅子に座り、ぼんやりとカップを眺めていれば段々と違和感に気づき始める。なんで、代河が来た?なんで、何も思わなかった?彼は既に、この世に居ないというのに―
大学に入ってすぐにプロとして演奏活動を始めた代河は俺らの世代の誰よりも早く音楽の世界で戦っていた。大学4年の時には代河も高校の同期である
のが、つい一年前である。忘れるわけもない、忘れられるわけが無い。ずっと、俺を苦しめている原因だ。なぜ、代河が亡くなったことを忘れていたのだろう。先程まで居た代河は幻なのか?俺にとって、都合の良い夢だったのか?混乱する頭をなだめつつ彼が使っていたカップを覗き込む。
―中身は無くなっていて、紅茶が入っていたとわかる茶渋がのこっていた。
代河がそこにいたのだ。さっきまでいたのは確実に代河菊だった。ふと、今が8月の中旬であることを思い出す。8月の中旬、お盆。一般的に8月の13日〜16日のことを指し、死者がこちら側に帰ってくると言われる期間。代河も帰ってきていたのかもしれない、なんてぼんやりと思った。決して恋人なんていう甘やかな関係性ではなかったけれど、互いに一番大切な人、ではあったのだと思う。代河の死を忘れるように就職活動に励んで、大学を卒業してからは吹奏楽に仕事にと二足わらじを履いて、やっと落ち着いたのがつい最近。改めて代河の死を目の当たりにしたのだ。別に代河の死を信じていなかったわけではないのに少なからず、いや。多大にショックを受けた。返ってくるはずのないメッセージアプリにメッセージを送り続けたり、どこかまだ足がつかないような気持ちで今までの事を思い返したり。そんな日々をこの数週間過ごしていた。そんな俺を心配してくれたのかもしれない。あの
ヴーっというスマホの振動音に現実にひきもどされた。1回きりであったからメッセージが入ったのだろう。フラフラとスマホを取りに戻り、ソファーに座り込む。指紋認証でロックを開ければ代河とのメッセージ画面のままであった。もう二度と既読がつかないはずのメッセージ画面。確かに既読は付いていなかったし、先程の俺が送り付けた和歌で止まっているはずだった。
―形見には 我が面影を 追わずとも
君進むよに 月は輝く
それだけ、たった一首の和歌だけが代河側から送られてきていた。一瞬、イタズラかと思ったけれど既読は付いていない。なのに、新しいメッセージが届いている。ありえないことだけれど、代河がなにかしたのだろうか。
知っていた。この和歌は既に、知っていた。忘れられるわけが無い。この
「なんで、この和歌なんだよ。なんで……」
小さくそうこぼれた言葉を聞く相手は居ない。静かに涙を零す月許の姿を日が昇り、色を失った月が静かに見下ろしていた。
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