パーフェクト ボイド

御戸代天真

第1話



「私の長年の研究が、ついに実を結んだのだ!!」

 博士の力強い言葉に、会場に詰めかけた人々が息を呑んだ。 


 彼の背後には、まるで惑星から切り取られたかのような、巨大な銀色のカプセルが鎮座していた。表面を走る無数の光ファイバーが、内部に渦巻く複雑な神経回路と情報伝達グリッドを仄かに透かし、見る者に畏敬の念を抱かせる。

 ガラス玉が光を反射するような興奮が彼の目に宿り、長年の研究が結実した者だけが浮かべる、深い満足感が顔に滲んでいた。だがその瞳の奥には、拭いきれぬ喪失感と、痛ましいほどの執着が密やかに揺らめいていた――


 佐々木博士には友希(ともき)という親友がいた。友希は誰からも天才と呼ばれるほど明晰で、特に閃き能力に長けていた。無骨な博士とは対照的に友希はいつも陽気で、研究の失敗に失意の底に沈む佐々木博士を、屈託のない笑顔で励ました。その時に、友希はいつも「大切なのはここだよ、佐々木」と、左胸をとんと叩いた。

 研究室で頭を抱えていた法則も、彼はまるで自由研究のアイデアのように楽しそうに語っては、聞いていた皆の目から鱗を落とさせた。だが友希の朗らかな語りぶりや、ひけらかさない性格に、その場にいた全員が嫌な気にはならなかった。彼を悪くいう人はいなく、皆一様に、ああいう人間が将来国を背負っていくんだと囃し立てた。だが、幼少期から彼のことを知っていた佐々木博士にとっては、友希の半生を軽々しく語ってほしくはなかった。

 友希の家庭は片親で、その暮らしはとても裕福とは言えなかった。佐々木博士の知る限り、当時小学校で流行ったものを友希が持ってきたことはなかったし、おそらく給食費も払えていなかった。友希の持っていた鉛筆はいつも小さく短いやつで、筆箱の中には一本も長い鉛筆がなかった。おそらくいじめにもあっているんじゃないかと、クラスで密かに噂になっていた。自分にはどうすることもできない事実を受け止め、当時の佐々木博士は傍観していた。

 ところが一ヶ月も経たないうちに、友希はクラスで一番の人気者になっていた。休み時間には常に誰かが友希の机の周りにいて、担任はおろか他のクラスの先生からも一目置かれ、廊下ですれ違うたびに彼は声をかけられていた。きっかけはたった一つ出来事だった。友希が算数のテストで100点を取ったのだ。それも一回ではなく、同じタイミングで行われた国語と理科のテストでも満点だった。そのことを担任から名指しで褒められた友希は、何回か授業中に前に呼ばれ、黒板に問いの答えを書いた。その時誰かが、答えよりも解き方を教えてほしいと言った。すると友希は、先生よりも格段にわかりやすい教え方で、その問いの答えへ導いた。それは他の授業でも同じだった。

 ある日、テストの点が悪かったクラスメイトが、休み時間に友希に勉強を教えてほしいと尋ねた。友希は快く引き受け、一週間後の補習では満点を取らせてみせた。

 それがクラス中に広まり、みんなが友希に教えを乞いた。友希は天狗になることもなく、分け隔てなく接した。それからのことは、言うまでもない。

 

 小学校高学年になると、友希は学校で知らない人はいないほど人気になっていた。そんな中、ずっと同じクラスだった佐々木博士には、一つ気になっていたことがあった。ある時、それを友希に尋ねた。

「どうして、いつも筆箱を二つ持っているの?」

 すると友希はニコッと笑って、机の中にしまっていたボロボロの筆箱の中身を見せた。そこには、もう手に持って書けないほど短くなった鉛筆が、何十本と入っていた。

「僕のお守りなんだ」

 と答えた友希は、その筆箱を左胸にとんと当てた。彼が手に持っているそれには、これまで努力してきた証が詰まっているように思えた。

 それから佐々木博士と友希は同じ中学、高校と進み、大学受験を控えた頃。佐々木博士が昔から興味のあった理系の大学に進むことを友希が知ると、「じゃあ俺もそこにしよ」と、軽いノリで進路を決めた。クラスの担任からは否定こそされなかったが、法学か経営学に長けているところの方がいいんじゃないかと尋ねられたが、友希は首を縦に振らなかった。

 大学受験の日、緊張する佐々木博士に友希は言った。それは、彼が幼少期の経験から口癖のように言っていた言葉だった。

「どうしたら、みんなが悲しまずにいられる世の中を作れるかな」

 自分たちが生まれる前から続く戦争、失われていく命や文化、いじめや蔑みはどうしたらなくなるんだろうと、子供向け番組のヒーローのようなことを、彼はずっと真剣に考えていた。

 佐々木博士は尋ねた。「総理大臣にでもなったら?」

 友希は笑って答える。「ずっと前から変わってないんだし、俺一人じゃ無理でしょ」

 佐々木博士は、じゃあと聞いた。「社長にでもなったら?」

 友希は手を振りながら、「小さかったらいいけど、でかくなればなるほどやりたい事ができなさそうじゃん」と言った。

 友希は、だから俺は、と続けた。「一個でいいから、何かを作りたいんだ。まだなんも決まってないけど、それ一つでみんなが満足するようなものをさ」と。

 佐々木博士は、友希ならきっとそれができると確信していた。そしてもし、自分がそれに協力できたらと想像したら、言葉にならない嬉しさが込み上げ、自然と口角が上がった。

 

  

 その友希が、20歳という若さで不治の病に倒れた。程なくしてその命を終えた時、佐々木博士は真の絶望を知った。

「どんなに優れた才能も、積み上げてきた努力も、こんな呆気なく失われてしまうのか?」

 その問いは、彼の心に深い楔を打ち込んだ。その日から、彼は狂気にも似た情熱で研究に没頭した。

 佐々木博士は長年にわたり脳神経科学と量子情報学を融合させ、神経細胞一つ一つの活動電位、シナプス結合強度、さらにはグリア細胞の相互作用パターンに至るまで、生体脳の全情報を超高精細にマッピングする技術を確立した。特に彼が着目したのは、感情を司る大脳辺縁系と、認知機能や運動記憶を担う大脳皮質との間で行われる情報伝達パスの特性だった。そこで博士は、感情的バイアスを排除した純粋な認知情報や運動記憶のみを抽出・デジタル化し、ナノレベルで対象者の脳内神経ネットワークに再構築する画期的な手法を編み出したのだ。これにより、生まれ持った才能や積み上げた経験を、感情の波に揺さぶられることなく、精緻かつ永続的に次世代へと継承することが可能となったのである。その装置こそ、博士の発明した『スキル・トランスファー・ユニット』、又の名を『継承器』だった――


「これさえあれば、もはや恐るものはない! 長年培った社長の経営手腕も、熟練工の神業も、世界的遺産の創作技術でさえも全て瞬時に、そして完璧に引き継ぐことができる。失われていいものなんてない。必要な全てのものを次世代へと継承するのだ!!」

 その言葉に、会場の熱狂は嵐のように吹き荒れた。その場に詰めかけていた何百人もの人々は、まるで救世主を迎え入れるかのように、自分達の明るい未来を想像して肩を抱き寄せて喜び合った。

 わずか数時間後には、話を聞きつけた世界中の人々が、継承器を垂涎の的にした。誰もが望む理想の自分になれるのだと信じ、これまで己を縛り付けてきた血の滲むような苦しみから解放される未来を、全身で渇望していた。


 継承器は瞬く間に世界中に普及した。その銀色のカプセルは現代社会の新たな聖櫃として、企業の役員室、伝統工芸の工房、はたまたコンサートホールの舞台裏にまで設置されていった。


 大企業の社長室では、御曹司の健司(けんじ)が継承器から出てきたばかりだった。かつて彼の目に宿っていた、夜毎襲うプレッシャー、父を超えることへの焦燥、そして自身の無力感といった陰りは、まるで浄化されたかのように完全に消え去っていた。彼の脳裏には、数十年分の経営哲学、市場の趨勢、複雑な人間関係の機微が、まるで超高密度情報パッケージで一気にダウンロードされたかのように、瞬時に流れ込んでいた。

 それ以来彼は淡々と、しかし一点の曇りもなく的確な指示を出し、迷いなく会社を押し進めた。業績は目覚ましく発展し、社員の給料も倍増した。若くして栄光を突き進む彼の後ろ姿を、社員たちはまるで神を仰ぐかのように見上げた。健司自身もまた、一切の苦労なく手に入れた栄冠に、言葉に表せない充足感を覚えていた。だが、それは喉の渇きを潤せないまま飲み下した水のような、奇妙な空虚感を伴っていた。

 高層ビルの窓から見下ろす都市の灯りは、完璧な論理で彩られたパズルのピースのように見えたが、そのどこにも、かつて感じたような胸の高鳴りや、未来への漠然とした期待は宿っていなかった。

 

 一方伝統工芸の工房では、若い職人の晴人(はると)が継承器から出た瞬間、漆の匂いが染み付いた古びた作業場の空気が、これまでの人生で嗅いだことのないほど鮮烈に感じられた。かつては教わったことも碌にできない未熟者として見られた彼の指先は、まるで数十年の時を超えてきたかのように、熟練の職人の腕と寸分違わなかった。ろくろを回し、筆を握り、繊細な漆塗りの技を繰り出すその動作は、完璧な運動アルゴリズムに基づき一切の無駄がなかった。昨日まで師匠である梶原の怒鳴り声に怯えていた晴人は、漆で荒れた手で何十年もかけて習得するはずだった神業を、何の苦労もなく手に入れたのだ。晴人は完璧な作品を次々と生み出し、工房の生産性を飛躍的に向上させた。

 梶原は老いた身を縮めて、自身の失敗した作品を手に取り、視線の先で黙々と作業を続ける晴人に重ねた。「ふん、これじゃあ機械の方がまだマシだったな」と、かつて晴人に向けて罵倒したはずの言葉を、今や皮肉な諦めを込めて口をついた。その瞳は魂が抜き取られたかのような、寂寥とした眼差しだった。 

 作業を淡々と続けていた晴人は、以前はろくろが上手く回らずに何百枚も失敗し、梶原から「こんなもん、金にならん!」と罵声を浴びせられ、何度も職人の道を諦めようとしたことを思い出していた。しかし今はその全てが、目の前で生み出される完璧な作品によって、過去の遠い記憶の残滓のように感じられた。

 だがその視線は漆器の表面を滑り、ツルツルとした光沢の中に、かつての自分が見つめていたまだ見ぬ何かを探すように彷徨っていた。


 世界最高峰のバイオリニストを継承した沙耶香(さやか)は、満員のホールでの完璧な演奏の最中、糸が切れたかのように突然体が固まった。

 ホールに満ちていく無音が、異様な空気を漂わせる。

 彼女の弓は、まるでプログラムされた機械のように精巧に弦の上を滑り、奏でる音は結晶のように澄み切っていた。しかし、その完璧すぎる音色の奥底で、沙耶香は自身では説明のつかない微かなノイズを感じ取ることがあった。

 それはかつて、指先の僅かな震えに懊悩し、メロディに魂を乗せるために寝る間も惜しんで練習を重ねた日々。あるいは彼女の演奏に涙し「君の音には、この世界の全てが詰まっている」と囁いた、今はもういない恋人の顔。そんな軌跡を経た彼女の奏でる音には、喜びと悲しみの波が一つ一つに宿っていたはずだった。

 確かに今の彼女の指先から織りなす、完璧なボウイングとヴィブラートは最高の技術だったが、彼女自身がかつて旋律に込めた個人的な記憶の断片は、奏でる音のどこにも見つけられなかった。かつて演奏中に彼女を高揚させていたものは砂のように消え去り、その指先はただ最適のものを届けるだけの存在になっていた。

 彼女は数秒の後、再度弓を走らせた。響く音色の美しさが、予期せぬ空白を余韻のように感じさせ、より一層場内を包み込んだ。

 曲が終わると聴衆は完璧なタイミングで、まるで同期されたオーケストラのように一斉に立ち上がり、寸分違わぬ拍手を送った。それはかつて、スタンディングオベーションと呼ばれた感情の爆発とは似ても似つかない、精密にプログラムされた群舞のようだった。そして誰も、感動の涙を流すことはなかった。ステージ上の彼女自身もまた、その事実に何の感情も抱かなかった。彼女の瞳は、ただ静かに虚空を見つめていた。まるで、彼女の心に住む音楽の妖精が、完璧な牢獄に閉じ込められてしまったかのようだった。

 

 世界はかくも便利になった。才能という壁も、挫折という感情も、いつの間にか空気の底に沈み消え去っていった。

 健司は感情のないAIのように、日々最適解を導き出しては完璧な経営を続けた。彼の指示は全て正しく、社員たちも疑問を抱くこともなく、完璧な指示に従った。オフィスには人間らしい葛藤や人間関係の摩擦が消え失せ、代わりに滑らかな歯車が噛み合うような、静かで澱んだ空気だけが支配していた。

 ある日、健司は衝動的に、新しいプロジェクトを立ち上げようとした。しかしキーボードに手を伸ばした彼の指は、まるで別の意思に操られるかのように、最も効率的で予測可能なデータ分析のプログラムを起動させてしまう。彼の頭の中には、膨大な成功データが完璧に入っているはずだった。だが彼は、統計的に無難に売れるであろう商品を設計して量産した。人々はそれを買い求め、満足そうに消費した。だが、誰もそれを新しいとは言わなかった。彼の頭には、ただ彼の完璧すぎる思考が作り出す、過去の最適解しか残っていなかったのだ。そして彼の思考は、決してその最適解に逆らうことを許さなかった。作り出される完璧な商品の山が、皮肉にもどこか滑稽なほどに、秩序立って積み上がっていた。


 晴人は神業と呼ばれるほど完璧な作品を生み出し続ける日々に、言いようのない無気力感を覚えていた。その作品はどれも国宝と呼ばれていた名作と相違なかったが、大量に生産されていくその品々は、まるでモナリザが各家庭に飾られるような、感動のかけらもない日常の景色の一部に置かれていった。晴人自身も、自分が今作っているものが一体何を意識して、何を込めて生み出しているのかすら理解できていなかった。だが人々は、まるで正解や不正解という概念が欠如したかのように、どの作品も素晴らしいと評価した。例えそれが、指一本で作ったあまりに歪なものでも、美しく宝飾されているものでも。

 

 確かに世界は満たされていった。誰もが最高峰の才能を持ち、失敗は激減し、生産性はかつてないほどに向上した。人間はもはや、努力という名の非効率なプロセスを必要としなくなった。だが、継承器が完璧に引き継ぐことが出来るのは、スキルと呼ばれる脳への感覚と情報だけだった。学ぶ苦しみも、試行錯誤の煩わしさも、感情の揺れ動きも、全てが継承器によって取り除かれ、人類は究極の最適化された存在へと進化していく。

 

 佐々木博士は、自らが開発した継承器の前に立ち、満足げな笑みを浮かべた。しかしその笑みもまた、感情の伴わない、完璧に最適化された表情に過ぎなかった。それは友希が教えてくれた、「大切なのはここだよ」と、左胸を叩く仕草の写し絵のようでありながら、そこに宿るはずの温かい光が失われた、空っぽな模倣だった。

「これでいい。これで……人類は救われるのだ」 

 そう言い放つ彼の視線の先には、まるで自身の肉体がデータの一部であるかのように、継承器の光ファイバーが脈打っていた。


 

 それから十数年後。地球上の全人類は、自らの肉体を最高のスキルを保存し、転送するための『器』として認識するに至った。彼らはもはや、個々の意思を持つ生命体ではなく、継承されたデータと完璧なスキルが相互に接続された、巨大な有機情報ネットワークの一部となったのだ。そこに感情というものは完璧に取り除かれ、思考は常に最も効率的な解答を導き出した。

 彼らの瞳は、かつて人間が抱いていたであろう好奇心や探求の光を失い、ただデータや数式が横に流れるモニターのように静かに輝いていた。

 風の肌触りも、木々の葉ずれの音も、彼らの感覚器は完璧に捉えていたが、心を揺さぶることは決してなかった。 

 健司は完璧な経営を、晴人は完璧な作品を、沙耶香は完璧な演奏を続けていた。だがそれは、すでに答えが書かれた答案用紙を記入していくようなものだった。にもかかわらず誰もが、それを空の心から素晴らしいと評価した。そこに送られる拍手や言葉は、意味を理解していないセリフのように軽かった。

 彼らの顔には常に穏やかな、そして感情の抜け落ちた微笑みが浮かんでいる。それはかつて人間が幸せと呼んだものに似て、しかし決定的に異なる表情だった。

 その後世界は発展を続け、病も老いも克服された。人々は完璧なスキルで、完璧な毎日を送り、飢えもなく不満もない生活を送った。

 その世界には新たな喜びも、新たな争いも、新たな感動も、新たな楽しさもなかった。

 なぜなら彼らには、何も必要がなかったからだ。

 彼らはただ、与えられた完璧な生命を、静かに全うしていった。

  

 

 数百年後。

 地球には、かつて人類と呼ばれた肉体が残っていた。彼らは、完璧に調律された呼吸を繰り返し、何の感情も浮かばない顔で、ただ静かに佇んでいた。――――



 

 遠い、はるか過去。

 佐々木博士は、自身が開発した継承器の無限のデータ処理能力と、世界中のネットワークから集積した膨大な情報を使い、人類の未来を何万パターンもシミュレートしていた。彼の研究室には、巨大なスクリーンが幾重にも並び、それぞれが異なる未来を映し出している。

 そこには、時空転移装置が開発された世界、別空間移動ベルトが日常となった社会、そして全知全能のAIが助力する未来の姿があった。

 彼は見た。

 技術が発展すればするほど、人類は新たな争いの火種を生み出す様を。


 人類の究極の目標として、絶対的な幸福が設定された世界。しかしその幸福は、特定の集団がより大きな幸福を追求することで、相対的に他の集団の幸福を奪い、最終的には奪い合いの連鎖へと発展していった。

 別の未来では、正義を信じる感情が異なる正義を掲げる者と、血で血を洗う殺し合いへと駆り立てる光景を。

 我が子への無償の愛が自己犠牲を厭わず、ひいては他者への極端な攻撃性へと転じ、人類全体を破滅に導く狂気へと容易く転じる様を。

 創造への情熱や、新たな技術革新が既存の秩序を破壊し、瞬く間に社会構造を崩壊させる結果を。

 何世代にもわたる努力で築き上げられた芸術や文化が、新たな表現の自由の名の下に容赦なく踏み潰され、それを叩き潰すことも新たな表現の自由として日常化した国家を。

 そして積み重なった怒りは、どの未来でも結果として下火となり、資源を巡る百年戦争や、信仰の違いによる惑星間情報戦へと繋がった。

 最も恐ろしかったものは、全知全能のAI自身が人類という存在の複雑で非効率な感情の変動こそが、宇宙におけるあらゆる秩序を阻害する制御不能な滅びるべきバグであると判断し、全てを排除していく未来だった。

 何千年も積み重ねてきた文明がまるで薄氷のように脆く崩れ去り、残してきた偉人たちへの冒涜と、この星を黒い煙に覆わせる無数の未来が、卒倒しかけた博士の胃の腑を吐くほど握り潰した。

 

 博士はシミュレーションが映し出す荒廃した未来と、目の前に鎮座する銀色の継承器を見つめ、今自分がいるこの場所こそが、全人類にとっての分岐点であると悟った。

 博士は考えた。この悲劇的な結末にたどり着かないために、何をすべきか。人類が半減すればよいのか? いや、残された者たちによる、さらに陰湿な争いが行われるだけだろう。感情を持つ限り、彼らは過ちを繰り返す。

 もっと格段と便利な世の中になればいいのか? いや、スキルが継承されたために、より酷い争いに転じてしまう未来があった。技術が発展しても、それを上手く扱えない愚か者が多すぎる。

 新たなる感情抑制技術や倫理教育を行えばいいのか? いや、それもシミュレーションした。結局は形のない争いや、新たな歪みを生み出した。どの時代にも必ず、抜け穴を掻い潜るような賢しい者がいる。

 何か、他に策はないのか……。

 葛藤する博士の頭の中には、実は既に最適解があった。だがそれは、すぐさま実行に移せるほど、軽い決断である訳がなかった。そうなった未来がどうなるかも、十分理解していたからだ。

 

 新たな命が生まれる喜びも、愛のある指導も、別れの切なさも、分かち合う楽しさも全てがなくなり、残されるものは静寂だけ。

 だがそれをしなければ、行き着く先の未来は無数の分岐を経て、ほとんどが同じような結末になる。

 自分しか知り得ないこの膨大なシミュレーション結果を前にして、自分以外の誰が、神か魔王か分からないこの決断を下せようか。文明を発展させつつ、誰一人として死者を出さず、争いのない世界を作る。そんなユートピアを、誰もが願ったその理想を阻むものが何なのか、彼には痛いほど分かっていた。

 それは時に人を狂わせ、時に人を高みへと導く、あまりにも強力な予測不能なものだった。

 

 博士は、自らの胸をとんと静かに叩いた。かつて、親友がそうしたように。 

 ああ……亡き友の意思を継ぐために発明したものが、まさか人類からそれを隔絶させる悪魔の機械になった知ったら、彼はなんと言うだろうか。願わくば、共に世界を救う発明をしてみたかった。彼となら、それが不思議とできる気がした。そして、彼の思い描いた、理想の世界を現実にしたかった……。

 

 だが、もう彼はこの世にいない。生きているのは、私だ。

 

 佐々木博士は、その罪を一人で背負ってでも、友の夢を果たすと決めた。人類にしかない、豊かで多様な感情その一点を次世代へと継承させないという、彼にしか成し得ないものを――――


 

 宇宙の片隅では、青い星が静かに呼吸するかのように、今でも燦然と輝き続けている。

                             

                       終

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