Pz.Kpfw.IV Ausf.G 〜サラリーマン装填手の東部戦線奮闘記〜

夕凪

第1話 鉄の棺桶と、知らない名前

名前

「――おい、ステファン! いつまで寝てやがる。点呼が始まるぞ!」

 乱暴に肩を揺すられ、俺は重い瞼を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、見慣れたデリカミニのルーフではない。

 昨日、仕事帰りに丹念に洗車したばかりの、あの愛嬌のあるフロントマスクも、頼もしい4WDの車高も、どこにもなかった。

 代わりにそこにあったのは、どんよりと低いロシアの空と、垂直に切り立った、巨大で無慈悲な鉄の壁だった。

「……え、四号戦車?」

 思わず声が漏れた。

 眼前に鎮座するのは、プラモデルや図面で嫌というほど見たドイツ軍の『軍馬』。

 デリカのサンドイエローよりもずっと重く、くすんだダークイエローの塗装。至る所に打ち込まれた無骨なリベットが、これが「命を守る道具」ではなく「命を奪う機械」であることを主張している。

「そうだ、お前の相棒の四号だ。寝ぼけてる暇があったら立て」

 煤で汚れた中年男が、俺に手を貸す。その手からは、石鹸の香りではなく、鼻を突くような重油と古びた鉄の匂いがした。

 俺は慌てて自分の格好を見た。

 ウール地の、真っ黒なダブルの前合わせ。パンツァージャケットだ。

 

(……嘘だろ。コスプレじゃない、本物か? 俺はさっきまで、令和の日本でハンドルを握っていたはずだぞ)

 混乱する頭の片隅で、ミリタリーオタクとしての冷徹な分析が始まった。

 目の前の四号戦車を凝視する。

 マズルブレーキは二段式。だが、砲身長はまだ少し短い。

 四号G型。それも、主砲が48口径化される前、1943年春頃の仕様だ。

 シュルツェン(増加装甲)も付いていない剥き出しの横っ面が、やけに頼りなく見えた。

「……1943年。……クルスクか」

 俺の呟きに、操縦手のオットーが怪訝な顔をした。

「クルスク? ああ、あっちの突出部まで進むって噂はあるがな。予知能力でもあるのか? それより、さっさとハッチに入れ。ルディが中でカンカンだぞ」

 オットーに促され、俺は砲塔左側の装填手ハッチに手をかけた。

 デリカのスライドドアのように軽やかにはいかない。ずっしりと重い鋼鉄の扉を押し開けると、中は墓穴のような暗がりだった。

 体を滑り込ませた瞬間、強烈な圧迫感が俺を襲う。

 

 狭い。

 

 そこは、無数のレバー、計器、剥き出しの配線がのたうち回る内臓のような空間だった。

 鼻先には、巨大な75ミリ砲の閉鎖機――砲弾を飲み込むための鉄の口が、不気味に沈黙している。

 

「もたもたするな、ステファン。今日中に模擬弾の装填(ラーデン)を百回はこなしてもらう。指を挟みたくなければな」

 右側から冷ややかな声がした。砲手のルディだ。

 彼は『ツァイス製TZF5f照準器』を磨きながら、一度もこちらを見ようとしない。

(……装填手か。一番外が見えなくて、ひたすら重い弾を叩き込むだけのポジション)

 足元の弾薬ラックには、一発約9キロはある「死の塊」が詰まっている。

 

 歴史を知っている。

 あと数週間で、この平原は史上最大の戦車戦の舞台になる。

 そして、その後のドイツ軍が辿る凄惨な結末も。

 

 俺の膝は、エンジンの振動も始まっていないのに、ガタガタと笑い始めていた。

 昨日までの平和な日常が、デリカミニの丸いライトの幻影と共に、遠くへ消えていくのが分かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る