第2話 体育の時間、「手加減して世界記録」出したら神扱いされました

そんな俺の決意を祝福するかのように、次の授業を告げるチャイムが鳴り響いた。


「はい、それじゃあ次は体育よー。みんな着替えてグラウンドに集合!」


松田先生の号令で、俺たちは更衣室へと移動した。


更衣室に入った瞬間、むっとするような熱気と、どこか酸っぱい臭いが鼻をつく。

周りを見渡せば、クラスの男子たちがシャツを脱いでいるところだった。


「うわ……」


思わず声が漏れる。

だらりと垂れ下がった贅肉、あるいは骨が浮き出るほどのガリガリ。

顔面だけでなく、体型も崩壊している。筋肉という概念が存在しないのかと思うほど、誰一人として引き締まった体がいない。


俺が気まずい思いでシャツを脱ぐと、更衣室の空気がピタリと止まった。


「おい、見ろよ……」

「なんだあの体……」


男子たちの視線が、俺の体に突き刺さる。

俺は自分の腹を見下ろした。帰宅部だし、特に鍛えてもいない。うっすら腹筋のラインが見える程度の、ごく普通の体だ。


だが、隣にいた男子生徒が、信じられないものを見る目で呟いた。


「無駄な肉が一切ない……! まるで鋼鉄の鎧だ……!」

「あれが筋肉……? 神話に出てくる戦士の体そのものじゃないか……」


(……これで?)


どうやらこの世界では、標準体型ですら「マッチョな戦士」扱いらしい。

俺は居心地の悪さを感じながら、急いで体操着に着替えた。



グラウンドに出ると、すでに女子たちは着替えを終えて待っていた。

抜けるような青空の下、50メートル走のラインが引かれている。


「それじゃあ、今日は体力測定を行うわよー! 男子は50メートル走から!」


先生の言葉に、男子たちがざわめき立つ。


「くそっ、勉強じゃ負けたが、運動なら負けねぇぞ!」

「見てろよ転校生! 俺の『音速』の走りを見せてやる!」


やたらと敵対心を燃やしているのは、クラスで一番ガタイがいい大木という男だ。

彼は鼻息荒くスタートラインに立った。


「行くぞオラァッ!!」


ピピッ!


笛の合図とともに、大木が走り出した。

ドス、ドス、ドス、ドス。

重戦車のような足音が響く。体を左右に大きく振り、必死の形相だ。

だが、遅い。

どう見てもジョギングにしか見えない。


「はぁ、はぁ、はぁ……ご、ゴールッ!!」


大木が倒れ込むようにゴールする。

松田先生がストップウォッチを見て、興奮気味に叫んだ。


「す、すごい! 13秒50!! 学園記録更新よ!!」


「「「うおおおおおっ!!!」」」


男子たちが歓声を上げ、大木がドヤ顔でピースサインを作る。

「へっ、見たか。これがこの国のトップアスリートの速さだ」


俺はポカーンとしていた。

13秒? 50メートルだぞ?

日本の高校生なら、運動部じゃなくても7秒台は出す。13秒なんて、小学生でももっと速い。


「次は平沢くん! 位置について!」


名前を呼ばれ、俺はスタートラインに向かった。

視線が集まる。特に女子たちは、期待に満ちた目で俺を見つめている。陽菜に至っては、両手を組んで祈るポーズだ。


(参ったな……)


この世界のレベルが低すぎる。

もし俺がいつも通り走って7秒台なんて出したら、また騒ぎになる。

いきなり「化け物」扱いされるのは避けたい。ここは上手く周りに合わせて、目立ちすぎないようにやり過ごすべきだ。


俺は近くにいた陽菜に、小声で尋ねた。


「ねぇ陽菜。ちなみに、50メートル走の世界記録ってどれくらいなの?」


「え? 世界記録?」


陽菜は目を丸くし、そしてうっとりとした口調で答えた。


「伝説の勇者様が記録した、『10秒の壁』よ……! 人類が到達できる限界の速さだって言われてるわ」


「10秒……」


なるほど。10秒が限界、か。

俺の本来のタイムは7秒前半。

10秒なら、軽く流す程度で出せるタイムだ。


(よし。じゃあ、世界記録と同じ『10秒』ぴったりで走ろう)


それなら「すごい選手」くらいで済むはずだ。

世界記録更新なんて派手なことはせず、あくまで「トップ層に並ぶ」程度に抑えておく。それが大人の処世術というものだ。


「よーい……」


俺は全身の力を抜いた。

本気を出してはいけない。散歩の延長。遅刻しそうで小走りする感覚だ。


「ドン!」


地面を軽く蹴る。

タッタッタッ。

風を切るというより、風に乗る感覚。

横目で景色を見ながら、頭の中で秒数をカウントする。


(いーち、にー、さーん……)


遅い。あまりにも遅く感じる。

本気で走れば一瞬で終わる距離を、あえてブレーキをかけながら進む。


(はーち、きゅー、じゅう!)


俺は計算通り、10秒ジャストのタイミングでゴールラインを駆け抜けた。

息一つ乱れていない。脈拍も平常通りだ。


ふぅ、と軽く息を吐いて振り返る。


「……」


グラウンドが、死んだように静まり返っていた。


松田先生がストップウォッチを持ったまま、口をパクパクさせている。

大木は白目を剥いて腰を抜かしている。

そして女子たちは、言葉を失って立ち尽くしていた。


(あれ? やりすぎたか?)


俺がおそるおそる声をかける。


「……先生? タイムは?」


松田先生がハッと我に返り、震える手でストップウォッチを俺に見せた。


「じゅ、じゅ……10秒00……!!」


先生の声が裏返った。


「せ、世界タイ記録ぅぅぅっ!? しかも、全然本気出してないぃぃっ!?」


その叫びを皮切りに、グラウンドが爆発した。


「キャァァァァァァッ!!!」

「嘘でしょ!? あの伝説の記録に並んだの!?」

「見て! 息切れ一つしてないわ! まだ余裕しゃくしゃくよ!」

「汗すらいてないなんて……! 拓海くん、あなたの体の構造どうなってるの!?」


陽菜が涙目で駆け寄ってくる。


「拓海くん……! 世界最速の男……! かっこよすぎて心臓止まるかと思った……!」


俺は美少女たちに囲まれながら、天を仰いだ。


(しまった……)


「世界記録=神の領域」だということを忘れていた。

10秒で走るということは、この世界では「伝説の勇者」と同格になるということだ。

しかも、涼しい顔でやってのけたことで、「底知れない実力者」という評価までオマケについてしまったらしい。


「まだ……まだ全力じゃないのよね……?」


松田先生が、畏怖と情欲の入り混じった目で俺を見ている。

俺は苦笑いを浮かべて、曖昧に頷くしかなかった。


「まあ……準備運動くらいですかね」


その一言で、再び黄色い悲鳴が上がったのは言うまでもない。

どうやら俺の「手加減」は、この世界では「伝説」になってしまうらしい。

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