天使ちゃんはヴィランくん

九重治矢

第1話 天使ちゃん

富士の頂に片翼の少女がいた。

白鳥のように美しい翼と金色に輝く光輪を持つ天使。

寒さで赤く染まった頬は瑞々しいマスカット色の髪に滑稽なほど似合っていない。

口から洩れる白い息は弱弱しく消えていく。

朝が目覚める光景は瞳に映ることなく、脳はただただ焦燥感で埋め尽くされていた。

疲れ切った表情を浮かべる天使は先刻起こった出来事を反芻する。


***


少女は京都にある自室でぬくぬくと寛いでいた。こたつと一体化したように溶けている姿に天使としての威厳は感じられない。テーブルには花形に開いたみかんの皮が無造作に散らばっている。ピクリとも動かない体とは対照的に漫画をめくる手だけは忙しなく動いており、こたつの横に積まれた漫画のタワーは時間が過ぎるほどに低くなっていった。


「最…ッ…高…!」


その言葉が漫画に対する評価なのか、寛いでいる時間に対する評価なのかわからない。

ただ、今彼女が幸せを感じているのは間違いない。


(この瞬間がずっと続けばいいのに)


幸福を味わっているとき誰もが思い浮かべる言葉。当然その願いが叶うわけもないのだが…


『ルリナ、ルリナ、聞こえていますか』


幸福な瞬間はゆっくり静かに消えていくものであって、突然壊されるのはさすがに同情してしまう。

この天使……名をルリナと呼ぶのだが、こたつの魔力に癒され続けていた彼女の頭の中に平穏な幸せを壊すように声が響いた。

天使は脱力しきっていた体を無理やり動かしこたつから飛びだす。そして誰もいないはずの部屋で見惚れるほど美しい起立をした。一連の動きによる衝撃で積み上げられていた漫画が派手に崩れ、みかんが転げ落ちるが気にする様子はない。冬場には珍しい大粒の汗が首筋を伝っていくのを感じながら、先程の声の主からの次なる言葉を待つ。が、1分ほど経っても再度声が聞こえることはない。

幻聴だったのか?ホッと胸を撫でおろし、いそいそとこたつの中に戻る。


『ルリナ、富士の頂まで来ていただけますか』


「は、はい!」


瞬間に再び慈愛溢れる声が響いた。そのタイミングに優しさなど微塵も感じられなかったが。

ルリナは先程と同様こたつから飛び出し起立を、さらには虚空に向かって敬礼をする。天使に敬礼をする文化などないのだからこれは漫画の影響だろうか。ギュッとつぶられた瞼の裏に隠された瞳から必死さが漏れ出ている。あまりにも元気な返事に声の主は『フフフ』とたまらず笑みがこぼれるが、天使に聞こえることはなかった。

しばらく固まっていたルリナの体は、静寂が響く七畳の部屋で再び産声を上げる。もう頭の中に声が響くことはなかった。


「富士の頂って富士山のことだよね…?」


こぼれるように口から出た小さな疑問への答えが返ってくることはない。弱弱しいその声は壁に反射して彼女の耳に帰ってくる。


「……いくか」


(京都から富士山までは相当距離があるし外は寒い。今、夜だし。25時。さっきまでなかった睡魔が突然生まれてきた。行きたくない。あの方が話しかけてきたってことは絶対ろくなことじゃない。行きたくない。面倒くさい)


そんな思いが生まれて消えない。口にした言葉とは裏腹にマイナスな思考で脳が埋め尽くされる。

それでも体は部屋を出る準備を始めだす。ラフな部屋着から天使の正装に着替え、扉ではなく窓を開けた。暖房の緩い風をあざ笑うような寒風が部屋の中を瞬時に満たす。肌を刺すような感覚に怯むことなく、十四階建てマンションの八階の高さにある部屋から片翼の天使が飛び立った。月明かりに照らされたその姿は幻想的であり神秘的である。


(寒い。眠い。だるい。なんでこんな時間に。遠いし。わざわざ富士山を選ばなくてもいいのに。皆子山ぐらいでいいでしょ。ああ鼻痛い。寒すぎる。ほんとに寒い。こたつも一緒に飛んでくれないかな)


ルリナの心の中はちっとも幻想的でなく神秘的でなかった。

神速と形容できるほどの速さで飛ぶ天使は、何重にも張られた薄い膜を無理やり突き破る様に進んでおり、耐性があるとはいえ相当痛いはず。しかし彼女にとっては寒さの方が辛いらしい。

頭の中で文句を言いながら空を切り、あっという間に富士山の頂上へと辿り着く。ゆっくりと音も無く爪先から降り立つその姿は憎たらしいほど美しかった。

この場にはルリナ以外誰もいない。されど確かに存在感があった。世界を包み込んでいると錯覚するほどの神々しさ。単純に形容するなら神である。


『ルリナ、わざわざ来てくれてありがとうございます』


「いえ、■■様がお呼びなら……はい、私どこにでも駆け付けますから!」


歯切れは悪いが力強い返事を受け、■■と呼ばれた声の主は優しい声色で言葉を紡ぐ。


『私が世界に干渉できる時間はそう長くはありません。ゆえに端的に告げましょう。今、この地球に災厄が迫っています。ルリナには地上のどこかにいる勇者と手を取り合い、この美しき星を守ってほしいのです』


聞くだけで傷も病も治るような声が天使の耳を包む。もしかするとそれは比喩ではないのかもしれない。と、ルリナは思った。それが声への評価。直後、言葉として脳に伝わると、浮かべていた朗らかな表情からは考えられないほど体が震えた。


「…………なんて、言いました?」


聞こえていた。はっきり聞こえていた。されど信じたくなかった。そんな当然とも言えるわがままな気持ちから、天使は絞り出すように■■に問う。その声は体と同様震えていた。

数秒経ったが返事は返ってこない。ルリナは嫌な予感を覚えた。

1分経ったがやはり返ってこない。


—私が世界に干渉できる時間はそう長くはありません。


先程の■■の言葉が山彦のようにもう一度頭に響いた。ガクッとはっきり聞こえるくらいうなだれるルリナ。しばらくの静寂の後、今度はやり場のない怒りによってプルプルと体が震えだした。いろいろと言葉を吐き出しそうになるがグッと抑える。ただ一つ漏れ出たのは、■■最大の説明不足に対する不満だった。



「勇者って誰ですかぁあああ!!」

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