あなたはわたしを、許してくれないから。

雀野ひな

あなたはわたしを、許してくれないから。

——いつまで、こうしていればいいんだろう。


 わたしは、水の中にいた。水面も底も見えない。他の生き物もいない。そんな空間の中で、うまく息ができないまま、途方もない時間を過ごしていた。

 辛い。苦しい。辛い。

 もう、さっさと消えてなくなりたい。


「香織の声って、とっても綺麗だよね」


 親友が褒めてくれたこの声も、もう発すことはできない。


——愛佳……、愛佳……。


 わたしは頭の中で、親友の名前を、何度も何度も呼んでいる。



***



「ただいま、香織」


 わたしは、机の脇に飾っている、小さなクマのマスコットキーホルダーに話しかける。当たり前だけど、クマは何も答えない。


「今日の体育、バレーだったよ。わたし運動音痴だから、みんなの足引っ張っちゃった。香織がいてくれたら、わたしのミスなんて簡単にカバーしてくれたのに」


 わたしは話し続ける。返事がないのは、分かっているのに。


 香織は、わたしの親友だった。このマスコットキーホルダーは、香織とお揃いで買ったもの。

 香織とは、中学の入学式で意気投合して、それからずっと一緒だった。高校も同じところに受かって、クラスも同じで、これからも一緒にいれる。

 そう、思ってたのに。


「ねえ、香織。なんで、わたしを置いて行ったの?」


 去年の夏、香織は亡くなった。わたしと海に遊びに行ったとき、溺れてしまったわたしを助けようとして。

 香織はとても優しい子だった。運動神経のいい子だった。だから、あの子を見過ごせなかったんだと思う。


「だからって、死んじゃうなんて」


 あれから、わたしは毎日このクマに話しかけている。その日あったことを報告して、泣いたり、笑ったりする。

 香織にしていたのと、同じように。


 ふう、とゆっくり息をつき、心を落ち着かせる。今日は、絶対に香織に言わなければいけないことがある。

 胸がキュッとなる。そこに香織がいるみたいに、緊張していた。


「それでね、香織。今日ね……わたし、告白されたの」


 クマは、うんともすんとも言わない。わたしは続ける。


「その相手が……大橋くんなの。わたしたちの好きだった、大橋くん」


 わたしと香織は、同じものを好きになった。色も、服も、推しも、このクマも。そして、好きな人だって。


「大橋くん、ずっとわたしを慰めてくれてたの。それで今日、付き合ってほしいって」


 香織とは、よく恋バナをした。大橋くんのどこがカッコいいか、どんなところにキュンとしたか。そんな話でよく盛り上がっていた。


「でもね、わたし、断ろうと思うの。だって……わたし本当は、そんなに大橋くんのこと好きじゃなかった。香織と一緒がよくて、同じ人について語り合いたくて、嘘ついてただけ」


 告白されて一番に思ったことは、どうしよう、だった。どうやって香織に伝えよう。あなたの好きな人に告白されたよ、なんて。


「それなのに、ごめんね。わたしが告白されちゃって。生き残ったのが香織だったら、きっと香織が告白されてただろうに。香織のほうが、ずっと綺麗で、運動も勉強もできて、素敵な女の子だったのに」


 話しているうちに、涙が込み上げてきた。溢れて、溢れて、止まらない。

 香織に、幸せになってほしかった。香織の笑う姿が見たかった。いつか香織に彼氏ができたとき、その幸せを一番近くで見届けるんだって。そう思ってたのに。


「……わたしが、死ねばよかった」


 呟いたそのとき、手の中で何かが動いた。

 そんなはずはない。わたしが握っているのは、クマのマスコットだけなのに。

 咄嗟に手を離す。


「きゃっ!」


 マスコットは独りでに立ち上がった。その目は、あきらかに何らかの意思を持つそれだった。それから勢いよく回転し、舞い上がったあと、パタリと倒れる。


「何? 何なの?」


 わたしは気味が悪くなって、後ずさる。そのときだった。


「……さ……ない」


 背後から、低いかすれた声がした。背筋が凍る。だけど、間違いない。この声は。


「香織?」


 わたしは、恐怖と期待の両方を抱えたまま、振り返る。

 そこには、ずぶ濡れの女の子が立っていた。背は高くて、ショートヘア。ボーイッシュな水着を着ている。鼻先まで隠れる長い前髪で、顔は隠れてしまっていた。

 でも、間違いない。彼女は香織だ。


「……許さない」


 もう一度、香織は言った。絞り出すような、けれど明らかに怒りが込められた、そんな声だった。


「香織、ごめん。ごめんなさい。わたし、そんなつもりじゃなかったの」


「にどと……そんな……ないで……」


 香織は何か言った。けれど、わたしにはうまく聞き取れない。

 ゆらゆらと、ゆっくりと、香織は近づいてくる。


「許して、香織」


 呼吸が浅くなる。今すぐに、逃げ出したかった。だけど、足は動かない。


「……が死ねばよかった……ないで……」


 聞き取れない中で、「死ねばよかった」という言葉だけが拾えた。


——そう。わたしが死ねばよかったんだ。


「ごめんね。ごめんね、香織」


 わたしは震えながら泣いた。恐怖で。後悔で。罪悪感で。

 自分への、怒りで。


「……あい……か……」


 わたしの名前を呼んだ香織の顔は、もうすぐ目の前だった。香織は、わたしの頰に触れる。

 凍えるように、冷たい手だった。


「……生きてて……かった」


 香織は苦しそうだった。消え入りそうな呼吸の中で、ぱくぱくと口を動かしている。

 長い前髪から、瞳がのぞく。目が合ったそのとき、わたしはなぜだか、安心感を覚えた。


——香織、来てくれたんだね。


 そうだ。あの時もそうだった。水の中で、必死にもがいていたあのとき。香織が来てくれて、手を差し伸べてくれたあのとき。思ったのだ。

 もう、大丈夫だって。


「もう一度言って。大丈夫だよ、香織。大丈夫」

「……んと……あな……とが……った……」

「もう一度言って。大丈夫だよ、香織。大丈夫」


 わたしは、びしょびしょのその前髪を上げてあげる。

 その目は涙でいっぱいで、だけど、わたしの知ってる優しい瞳だった。



***



「ただいま、香織」


 急に、声が降ってきた。間違いない。この声は——


 ——愛佳!


 わたしは叫ぼうとする。けれど、水中ではそれも叶わない。


 ——でも、よかった。生きていたのね。


 愛佳は話を続ける。今日学校であったことを、細かく話して聞かせてくれた。

 ずっと一緒にいた、あの頃のように。


「それでね、香織。今日ね……わたし、告白されたの」


 告白。

 水の中を漂いながら、わたしはその言葉を反芻する。


——そっか。そうだよね。愛佳、かわいいし。


「その相手が……大橋くんなの。わたしたちの好きだった、大橋くん」


——大橋、か。まだ、付き合ってなかったんだ。


 苦しいくせに、頭の中ではそんなことを考える。

 愛佳は、自分が大橋と両想いであることを、きっと知っていた。それなのに、告白したり、大橋に気があるような態度を取ったり、そんなことは一切しなかった。

 それも全部、わたしのため。わたしが、大橋を好きだと言ったから。


「大橋くん、ずっとわたしを慰めてくれてたの。それで今日、付き合ってほしいって」


 よかったね。そう、一番に思えたらよかった。でも、わたしはそうじゃなかった。

 モヤモヤするような、胸が苦しいような感じ。これはきっと、水のせいじゃない。


「でもね、わたし、断ったよ。だって……わたし本当は、そんなに大橋くんのこと好きじゃなかった。香織と一緒がよくて、同じ人について語り合いたくて、嘘ついてた」


 嘘だ。


 わたしには分かっていた。愛佳は、本当に大橋くんのことが好きだ。

 わたしとは違って。


「それなのに、ごめんね。わたしが告白されちゃって。生き残ったのが香織だったら、きっと香織が告白されてただろうに。香織のほうが、ずっと綺麗で、運動も勉強もできて、素敵な女の子だったのに」


 何を言っているの?


 わたしは苛立っていた。いますぐに、愛佳に言ってやりたいことが山ほどあった。

 けれど、わたしは話せない。この水の中で、もがくことしかできない。


「わたしが死ねばよかったのに」


 愛佳のその言葉を聞いたとき、わたしの怒りは、頂点に達した。


『許さない』


 口を動かしたそのときだった。緩やかに揺れていた景色が、ぐわんぐわんと歪んでいく。


 気づけば、わたしは地面に立っていた。


 抜け出せた……?


 けれど、息はうまく吸えない。呼吸がままならない。意識が遠のきそうになる。


 苦しい、苦しい、苦しい……


「香織?」


 それは、確かに愛佳の声だった。わたしは顔を上げようとするけれど、体が言うことを聞かない。濡れた前髪が視界を覆っていて、愛佳の顔を見ることができない。


 愛佳……。


 わたしは、なんとか意識を保つ。

 伝えなければならない。この気持ちを。この想いを。


 そんなことを言うなんて——


『許さない』


 もう一度、わたしは言った。絞り出すように出た声は、なんとか言葉になって口から出た。


「香織、ごめん。ごめんなさい。わたし、そんなつもりじゃなかったの」

『二度と、そんなこと言わないで』


 わたしは、強い口調でそう言ったつもりだった。けれど、また言葉にならない。


 伝えなきゃ。言わなきゃ。


 わたしは重い体をなんとか突き動かして、愛佳に近づこうとする。ゆらゆらと、ゆっくりと、愛佳が近くなっていく。


「許して、香織」


 愛佳が怖がっているのが分かる。

 ああ、違う。怖がらせたいわけじゃない。謝らせたいわけじゃない。

——そうじゃないの。


『自分が死ねばよかったなんて、言わないで』


 発したはずのわたしの声は、かすれて消えていってしまう。言えない。伝わらない。

 悔しい。もどかしい。苦しい。悔しい。

 いろんな感情が渦巻く中で、愛佳の細い声がかすかに聞こえた。


「ごめんね。ごめんね、香織」


——違うの。違うんだよ、愛佳。

 謝らなければいけないのは、わたしの方だ。

 わたしは、愛佳に嘘をついた。大橋のことが好きだって。愛佳が大橋を好きなのを知っていて。愛佳が身を引こうとするのを分かっていて。


『愛佳』


 わたしは右手をなんとか持ち上げ、愛佳の頰に触れる。

 柔らかくて、あたたかい。あの頃触れていたのと、同じように。


『生きてて、よかった』


 そう言った途端、どうしようもない想いが込み上げてきた。

 ずっと不安だった。あの日、愛佳はどうなってしまったのか。わたしが掴めなかったその手を、誰か引っ張ってくれたのか。


——本当に、生きててよかった。


 次から次へと、涙がこぼれ落ちていく。溢れて、溢れて、止まらなかった。


 髪の間から、愛佳の顔が少し見えた。怯えながらも、どこかホッとしたような顔。

 そうだ。あのときもそうだった。水の中で、必死に手を伸ばしたそのとき。もがき苦しみながらも、わたしの顔を見て愛佳は表情を変えた。


——あのときも、そんな顔をしていたね。


「ちゃんと聞くから。だから、ゆっくりでいいから、話して」

『本当は、あなたのことが好きだったの』


 なんとか声を出そうとする。けれどやっぱり、うまく言えない。


「もう一度言って。大丈夫だよ、香織。大丈夫」


 愛佳は、穏やかな顔をしてそう言った。

 そのとき、ふと体が軽くなった。思い切り吸う。

 息ができる。苦しくない。


 ——今回は、わたしがあなたに救われるのね。


 その瞬間、視界が開けた。愛佳が、前髪を上げてあげてくれたのだ。

 景色が滲む。はっきりと見たいのに。この目に、焼き付けておきたいのに。


——大好きな、あなたの顔を。


「愛佳……大好きだよ」


 自分の口から漏れたその声に、どこか懐かしさを感じた。

 そうだ。これが、愛佳の褒めてくれた、わたしの声。


 唐突に、身体中に温もりを感じた。少し苦しい。けれど、それは水中で溺れていたときのような、重く絶望的なものではない。


——愛佳の、匂い。


 わたしは抱きしめられていた。ぎゅっと強く。そして優しく。


「わたしも大好きだよ、香織」


 わかっている。愛佳の好きは、わたしの好きとは違う。きっと、わたしの本当の好きは届いていない。

 でも、それでもよかった。わたしが愛佳を大切に思っていること。それが伝われば。


「幸せにならないと、許さないよ」


 はっきりと言葉になって、わたしは胸をなで下ろす。

 なんだか、ぼんやりとしている。身体が驚くほど軽い。これまでとは違う感覚。穏やかで、心地よい感じ。


 わたしは目を閉じる。ゆっくりと、だんだんと、意識が薄れていく。きっとこれから、わたしは長い眠りにつく。

 大好きな人の温もりを、感じながら。


***


 昨日のことは、夢なのか現実なのか、今となっては分からない。

 気づけば、わたしは一人で立っていた。机の上のクマは、あれからもう動かない。


「昨日の返事なんだけど」


 放課後、バス停に向かいながら、わたしは大橋くんに話しかける。


「うん」


 大橋くんは緊張した面持ちで、少し歩くペースを緩めた。


「……わたしも、大橋くんのことが好き。だから、よろしくお願いします」

「ほんとに?」


 大橋くんは足を止めた。わたしも立ち止まる。彼は、とても驚いた表情をしていた。


「俺、断られると思ってたんだ。告白したとき、すごく困った顔をしてたから」

「……香織のことをね、考えてたの。わたしだけ、幸せになっていいのかなって。でも、そうじゃないって分かったの。わたしは幸せにならなきゃいけない。香織のためにも」


 笑うわたしを見て、大橋くんも微笑む。そして、どちらからともなく歩き出す。

 スクールバッグにつけたクマが、ぴょんぴょんと跳ねる。


 そう、わたしは幸せになる。


——そうでないと、香織はわたしを、許してくれないから。

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あなたはわたしを、許してくれないから。 雀野ひな @tera31nosuke

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