共通テスト

陽炎

第1話

空気が、あまりに乾いていた。大学入学共通テスト、二日目の全日程終了を告げるチャイムが校舎に響き渡ったとき、俺は肺に残っていた濁った空気をすべて吐き出した。指先はシャーペンの握りすぎで感覚が麻痺し、中指の付け根には赤黒いペンだこが深く沈んでいる。


教室中から、堰を切ったような吐息と、試験特有の乾いた紙の音が溢れ出した。隣の席の女子生徒が、祈るように組んでいた手をほどき、顔を覆う。前方の男子は、解答を終えたマークシートを見つめたまま、魂が抜けたように動かない。


「終わった……」


俺は小さく呟いた。この二日間のために、十八年の人生のすべてを費やしてきた。模試の結果に一喜一憂し、深夜まで青い蛍光ペンで参考書を塗りつぶし、友人との連絡も断った。すべてはこの「合格」の二文字を手にするためだ。


試験監督の「解答止め、筆記用具を置いてください」という無機質な声が響く。解答用紙が回収され、静寂が少しずつ、日常の喧騒へと溶け出していく。受験生たちは、互いに手応えを話し合うこともなく、重い足取りで教室を後にし始めた。


俺もまた、震える手でリュックサックを背負った。外はすでに薄暗い。一月の凍てつく風が窓の外でヒュウ、と鳴っている。

その時だった。


「受験番号、1044番。……佐藤浩介さんですね」


背後から、凍りつくような低い声がした。

振り返ると、教壇に立っていた試験監督が、こちらをじっと見つめていた。年の頃は五十代半ばだろうか。仕立ての良い、しかしどこか時代遅れを感じさせる灰色のスーツに、皺ひとつないネクタイ。その顔は、蛍光灯の光を反射して、陶器のように白く無機質だった。


「はい、そうですが」


「貴方だけ、一科目残っています。残ってください」


俺は耳を疑った。


「……残り?いえ、僕は地歴公民も理科も、すべて予定通り受験しました。今の英語リスニングが最後のはずです」


「配布ミスがあったのです」


監督員は、俺の言葉を遮るように言い放った。その眼球は、瞬きひとつせず俺の瞳を捉えている。


「大学入試センターからの特命です。貴方の受験科目リストに、一科目の未受験があります。これを受けなければ、これまでのすべての成績が無効になります」


全身の血の気が引くのがわかった。無効。その言葉は、受験生にとって死刑宣告に等しい。


「そんな、今更……。何の科目ですか?」


「『倫理・生・死』」


聞いたこともない科目名だった。新課程か何かだろうか。しかし、俺が反論する間もなく、教室の扉がガラガラと音を立てて閉まった。


気づけば、教室には俺と試験監督の二人きりになっていた。つい数分前まで何十人もいた受験生たちの気配が、嘘のように消えている。廊下を歩く足音も、遠くの教室の喧騒も、一切聞こえない。校舎全体が、巨大な深海に沈んでしまったかのような、不自然な静寂が支配していた。


「さあ、席について。時間はありません」


試験監督の手元には、一通の封筒があった。それは、通常の共通テストで使われる黄色のビニールパッケージではなく、古びた和紙のような、くすんだ茶色の封筒だった。


俺は吸い寄せられるように、自分の席へと戻った。心臓の鼓動が、耳の奥で早鐘を打っている。試験監督がゆっくりと歩み寄ってくる。カツ、カツ、という革靴の音が、板張りの床に不気味なほど大きく反響した。


机の上に、その冊子が置かれた。表紙には、毛筆で書かれたような重々しい文字で、こう記されていた。


【令和七年度大学入学共通テスト本試験問題冊子】科目:倫理・生・死


その冊子からは、古い書物のような、あるいは何かが腐敗したような、かすかに甘く不快な臭いが漂っていた。「試験時間は、貴方が解き終えるまでです」試験監督は、背後に回った。視線は感じない。しかし、首筋に冷たい息が吹きかかるような錯覚を覚えた。


「では――始めてください」


震える指で冊子の表紙をめくった。


一ページ目をめくった瞬間、俺は猛烈な眩暈に襲われた。視界が歪み、活字が虫のように蠢いているように見えた。目を擦り、再び焦点を合わせる。そこに並んでいたのは、およそ学問とはかけ離れた、異様な設問の数々だった。


問1:あなたが今日まで、自らの目的を達成するために「踏み台」にし、切り捨てた人間の名前を、以下の選択肢から選べ。


(1)中学時代の友人(2)予備校のライバル(3)血縁者(4)自分自身


俺は息を呑んだ。共通テスト特有の、あの簡素なフォントで書かれていることが、かえって異常さを際立たせている。


「……なんだ、これは。悪ふざけか?」


思わず声が漏れた。しかし、背後に立つ試験監督からの返答はない。ただ、灰色のスーツが擦れる、わずかな音が聞こえるだけだ。俺は無視して次のページをめくろうとした。だが、ページが接着剤で固められたかのように動かない。


「……正解をマークしなければ、次の問いへは進めません」


試験監督の声が、頭の真上から降ってきた。俺は冷や汗を拭い、震える手でシャーペンを握った。選択肢を睨みつける。

切り捨てた人間?そんなもの、受験生なら誰だってそうだ。限られた椅子の奪い合いなのだから。

俺は脳裏に浮かんだ、ある少年の顔を振り払うように(2)を塗りつぶした。

その瞬間。ズキリ、と右手の指先に鋭い痛みが走った。「あ……っ」見ると、中指のペンだこの部分から、じわりと血が滲み出していた。その血は解答用紙に吸い込まれ、マークした部分をどす黒く染め上げていく。

すると、あんなに固かったページが、吸い付くように滑らかにめくれた。


問2:親の期待という名の「呪い」を解くために、最も効率的な手法を答えよ。なお、解答は「対象の余命」を単位として算出すること。


設問は、進むごとに具体性を増していった。

俺の家庭は、父も祖父も医者という厳格な家系だった。


「合格以外は人間ではない」と育てられ、正月の帰省も、母の葬儀の翌日でさえも、俺は机に向かわされた。問題冊子には、俺が幼少期に父親から受けた折檻の内容や、深夜、暗い台所で一人啜った冷めたスープの味までが、詳細な注釈として記載されていた。


(1)期待に応え、操り人形として完遂する。(2)期待を裏切り、社会的制裁を与える。(3)期待の源泉(親)を物理的に排除する。


俺の呼吸が荒くなる。心臓が肋骨を内側から叩き、視界の端が赤く明滅し始めた。指先からの出血は止まらない。それどころか、シャーペンを持つ手に力が入り、爪の間からも血が噴き出してきた。

解答用紙は、もはや白い部分はほとんど残っていない。俺が流す血で、赤黒い斑点模様が広がっている。


「……やりたくない。もう、やめさせてくれ」


俺が懇願するように振り返ろうとしたとき、肩を冷たい手が押さえた。


「続けてください、佐藤さん。これは貴方が望んだ道です。高い場所へ行くためには、何かを捨てなければならない。そう教わってきたはずです」


試験監督の顔を覗き込もうとした俺は、言葉を失った。監督の目元は、影になっていて見えない。しかし、その口元だけが、三日月のように不自然に吊り上がっていた。


「さあ、次は問5です。……あなたの『最大の罪』についての設問です」


ページが勝手にめくれた。そこに印刷されていたのは、文字ではなかった。一枚の、粗いモノクロ写真。それは、二年前。ある冬の日の放課後、俺が誰もいない図書室の片隅で、ライバルの志望校判定を書き換えた「あの日」の光景だった。

写真の中の俺は、見たこともないような邪悪な笑みを浮かべていた。

俺の頭の中で、パチンと何かが弾ける音がした。


その写真を見た瞬間、俺の脳内に、封印していた記憶が濁流となって流れ込んできた。

ライバルだった男、阿部。彼は俺よりも常に模試で一歩先を行く存在だった。あの日、図書室の机に置き去りにされた阿部の願書と調査書を見つけた。


ほんの出来心だった。志望校のコードを一行書き換え、担任に提出される書類に細工をした。

結果、阿部は第一志望の受験資格を失い、精神を病んで失踪した。俺はその空いた枠に滑り込むようにして、今の順位を手に入れたのだ。


問10:対象「阿部」の人生を奪ったことに対する、あなたの正当な対価を以下の選択肢から記述せよ。


冊子の文字は、もはや活字ですらなく、のたうつ血管のように拍動していた。


俺の手は、すでに自分の意志を離れていた。指先からはドクドクと鮮血が溢れ出し、シャーペンの芯は折れ、今や自分の骨をペン先にして、解答用紙をガリガリと削りながらマークを塗りつぶしていた。


(1)自らの未来を差し出す。(2)自らの命を差し出す。(3)永遠の服従を誓う。


「……そうか」


俺は不意に、妙な納得感に包まれた。なぜ自分がこの「第11科目」に選ばれたのか。なぜこんな残酷な問いに答えなければならないのか。その答えが、ようやく見えた気がした。これは、禊(みそぎ)なのだ。


一流の大学へ入り、一流の人生を歩むためには、過去の汚れをすべてここで吐き出さなければならない。この試験は、神、あるいはそれに類する存在が、自分に与えた「最後のチャンス」なのだ。ここで正直に罪を認め、代償を支払うと誓えば、自分は許され、晴れて「合格者」として新しい人生を歩めるのだ。


「すみませんでした……僕がやりました。僕が、彼を壊しました」


俺は嗚咽を漏らしながら、真っ赤に染まった解答用紙に、魂を削り出すようにしてマークを書き込んでいく。指先の痛みは、もはや快楽に近かった。血を流せば流すほど、心が軽くなっていく。過去の罪悪感が、一滴ずつの滴りとなって体外へ排出されていくような解放感。


最後の設問。問100:あなたは、これから先の人生において、常に「選ばれる側」であり続けることを望むか。


俺は迷わず「はい」の欄を、ありったけの血で塗りつぶした。

その瞬間、教室の電気が激しく明滅し、耳を劈くような高周波の音が響いた。


「――終了です。よく頑張りましたね、佐藤さん」


試験監督の冷たい手が、俺の頭に優しく置かれた。

その感触は、死んだ母親のそれよりもずっと慈愛に満ちているように感じられた。俺は机に突っ伏したまま、激しい疲労と、それ以上の充足感の中で意識を失った。


これでいい。これで、僕は救われたんだ。明日、目が覚めたら、僕は新しい自分として、輝かしい未来の門を叩くんだ。

意識が遠のく中、耳に、試験監督のボソリとした呟きが届いた。


「ええ、合格です。……君ほど『冷酷で、執着心の強い』個体は、そうそういませんから」


どれほどの時間が経ったのだろう。俺が意識を取り戻したとき、全身を包んでいたのは、柔らかな毛布の温もりと、どこか懐かしい自分の部屋の匂いだった。


薄暗い天井を見上げ、ゆっくりと上体を起こす。指先を見ると、血は止まっている。ペンだこから血が滲み出ていた痕跡も、嘘のように消えていた。


「……夢、だったのか?」


あまりに鮮明な悪夢だった。しかし、あの非現実的な設問の数々を思い返せば、やはり夢でしかありえない。俺は安堵の息を漏らした。昨日までの疲労はまだ残っているものの、心は驚くほど軽くなっていた。あの「倫理・生・死」の試験で、過去の罪を告白したおかげだろうか。


時計を見ると、朝の8時を少し回ったところだった。窓の外からは、穏やかな冬の陽光が差し込んでいる。

俺はベッドから起き上がり、リビングへと向かった。テーブルの上には、祖母が作ってくれたらしい温かい朝食と、新聞が置かれている。「おはよう、浩介」台所から、優しい祖母の声が聞こえた。いつもの日常が、そこにはあった。

俺は、コーヒーを啜りながら新聞に目をやった。政治経済欄の隅に、小さくこんな記事が載っていた。


【共通テスト、まさかの大混乱――全国で試験監督が全員失踪】


昨日の大学入学共通テスト二日目終了後、全国の試験会場で複数の試験監督員が同時に姿を消したことが判明。原因不明の失踪事件として、警察が捜査を進めている。各地の受験生からは「特定の科目の試験が中断された」という証言も相次いでおり……


「……!」


俺はコーヒーを吹き出しそうになった。夢ではなかった。やはり、あの「倫理・生・死」の科目は、実際に起こった出来事だったのだ。しかし、俺は無事に帰ってきている。なぜだ?

その時、ポストに郵便物が投函される音がした。


俺は新聞を放り出し、玄関へ駆け寄った。きっと、共通テストの解答速報か、予備校からの案内だろう。

手に取った郵便物は、一枚の厚いハガキだった。見慣れない差出人の住所。しかし、「大学入試センター」という文字が目に入った。

震える手でハガキを裏返す。そこには、名前と受検番号、そして、不穏な一文が記されていた。


【令和七年度大学入学共通テスト採点結果通知】

佐藤浩介様受検番号:0000

総合判定:合格

備考:永遠の受検生として採用


「……は?」

受検番号「0000」。

そんな番号、存在しないはずだ。そして、「永遠の受検生として採用」。それは一体、何を意味するのか。俺の頭の中で、昨日、試験監督が最後に呟いた言葉が再生された。


「『冷酷で、執着心の強い』個体は、そうそういませんから」


ふと、壁に貼られた家族写真を振り返った。楽しそうに笑う父と母、そして自分。その写真の中の「自分」の顔が、わずかに、しかし確実に、昨日の試験監督の、あの陶器のように白い顔に似てきているように見えた。


胸騒ぎを覚え、俺はたまらず自宅を飛び出した。最寄りの駅前の予備校へ向かう。そこには、共通テストの自己採点のために、多くの受験生が集まっているはずだ。予備校の掲示板には、昨日と同じように、多くの受験生たちが群がっていた。俺は、ある光景を目にして、全身の血が凍りついた。


掲示板の前で、一人の男が立ち尽くしている。

それは、二年前、俺が願書を書き換えて人生を狂わせたはずのライバル、阿部だった。しかし、阿部の背筋は以前とは打って変わり、自信に満ちたオーラを纏っている。彼が掲示板と照らし合わせているハガキを、俺は背後から覗き込んだ。

そこには、俺が喉から手が出るほど欲しかった「あの大学」の合格通知があった。しかも、その受検番号は……「1044」。俺が昨日まで胸に付けていた、俺自身の受検番号だった。


「嘘だろ……。それは、俺の……」


掠れた声で呟いた。阿部がゆっくりと振り返る。

その顔は、かつての憔悴しきった姿ではない。瑞々しく、希望に満ちた、輝かしい「勝者」の顔だ。彼は俺の存在に気づかないかのように、ハガキを大切に胸に抱え、人混みの中へと軽やかに消えていった。

俺は慌てて自分のハガキを見直した。すると、印字されていた文字が、まるで蠢く虫のように組み換わっていく。


【通知】貴殿の「人生」は、阿部駿一郎に譲渡されました。貴殿は本日付で、人間としての籍を抹消します。今後は『試験監督員』として、死ぬまでこの会場を巡回すること。


「嘘だ……待て!それは俺の人生だ!返せ!」


俺は阿部を追いかけようとした。しかし、足が動かない。

見ると、俺の履いていたスニーカーは、いつの間にか安っぽい灰色の革靴に変わっていた。履き慣れたジーンズは、皺一つない不気味なほどに無機質なスラックスへ。

必死に叫ぼうと口を開く。だが、喉から漏れたのは声ではなかった。


「カチッ……カチッ……カチッ……」


それは、試験終了までの残り時間を刻む、冷酷なストップウォッチの作動音だった。


「おめでとう、佐藤さん。君は合格だ。人間を辞める試験にね。君は試験に落ちて自ら命を絶ったことになっている」


耳元で、あの監督の声がした。振り返ると、そこには駅前の通行人たちがいた。だが、おかしい。みんな顔が同じだ。学生も、会社員も、主婦も、全員が剥製のような白い顔をして、感情のない瞳で俺を見ている。そして、彼らのネクタイやスカーフの下からは、俺と同じ「カチカチ」という秒針の音が漏れ聞こえていた。


彼ら全員が、一斉に口を耳元まで裂き、笑った。


「さあ、佐藤監督員。仕事の時間だ」


俺は恐怖に震えながら、ショーウィンドウに映る自分を見た。そこにいたのは、十八歳の俺ではなかった。表情を失い、目に光を失い、ただ灰色のスーツを着ただけの、名前も持たない「試験監督」の怪物が立っていた。


逃げようとしても、身体が勝手に反転する。俺の意志とは無関係に、足が「カツ、カツ」と板張りの床を叩く音を立てて歩き出す。向かう先は、あの薄暗い、二度と出られない試験会場だ。


遠くで、また新しい試験のチャイムが鳴る。

鉛筆の音が、誰かの骨を削る音のように響き始める。

俺は、カチカチと秒針を鳴らしながら、次の獲物を探して永遠に教室を徘徊し続けるのだ。


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