左手と歩く、冬の海岸沿い
@gagi
左手と歩く、冬の海岸沿い
僕の左手の指がすうっと伸びて、目の前の降車ボタンを押した。
バスの車内。暖房と人いきれで、むわっとした空気の中に、甲高い電子音が数秒響く。
僕はしまった、と思って周囲を見回した。降車ボタンを押した僕のことを、他の乗客の何人かがちらりと見た。
その内で向かって右側の少し離れた座席に座ったご婦人と目が合った。ご婦人は顔を伏せて僕から視線をそらした。僕も顔の向きを正面に戻した。
他の乗客たちが僕のことを見たのは、地元の方が次の停留所で降りるのが稀であったりするからなのかもしれない。
あるいは僕の父方の遺伝的性質が顕現した、僕の黒い皮膚が物珍しかっただけなのかもしれない。
僕は父との思い出や、記憶と言うものをほとんど有していない。
幼い頃の僕は父と確かに触れ合っていたのだけれど、その物事の多くは忘れてしまった。
唯一おぼろげながら今でも思い出せるのは、僕が七歳くらいの頃のこと。
父が最後に帰ってきた時のことだ。
僕が小学校の一年生だか二年生だかくらいの頃に、父は生まれ故郷の国に帰省した。
父の国は幾つかの勢力が支配を争う危険な場所だったから、僕と母はついて行かなかった。
「次の日曜日には帰ってくるよ」と言って旅立った父は、ひとつめの日曜日が過ぎても、ふたつめの日曜日が過ぎても、帰ってこなかった。
ようやく父が帰ってきたのは、彼が出国してから二カ月ほどが過ぎた日のことだった。
僕は幼い日の己が帰ってきた父を目の前にして、とても不思議な印象を受けたことだけは強く覚えている。
父は小さな箱になって帰ってきた。深い紺色の、細長い箱だった。小学校で使っていた定規を二つ並べて、それよりも少し高さのない小さな箱だ。
見上げるほど大きかった父が、小学生だった僕でも抱えられるほどの小さい箱になってしまったという。そのことが当時の僕にはとても不思議に思えた。
父は帰省した先で、対立する勢力同士の戦闘に巻き込まれてしまっていた。砲弾が直撃して父の身体はバラバラになってしまって、回収できたのはごく一部だったらしい。
父が小さな箱として帰ってきてから母は、白く輝く指輪をひとつ、ネックレスとして身につけるようになった。
母が左手の薬指につけているそれと、同じ意匠の指輪だ。
「どうして指につけないの?」と僕は母に聞いたことがある。
母は「だって、お母さんの指には大きすぎるもの」と、首との指輪をやさしく撫でながら僕に答えた。
バスの車内は混んでいるというほどではないにせよ、座席は全て埋まっていた。
僕は立ったまま右の手に掴んだ吊革に体重を預けて、窓の向こうに流れてゆく背の低い建物たちを眺めていた。
薄曇りの空からは雨が降り始めて、路面がぽつぽつと濡れては黒く色付いていく。
僕は流れゆく風景の手前、窓ガラスについた雨粒たちがまとまっては、重さに耐えきれず下へ滑っていくのを眺めていた。
やがてバスは停留所の前で止まった。僕の左手が降車ボタンを押してしまったからだ。
空気の抜けるような音があって、バスの扉が開く。
僕は息を潜めて身体を少し縮こませて、誰かが降りてくれるのを待った。
でも、誰も降りない。
視線を感じて右の方を見ると、先ほど目があったご婦人が僕のことをじっと見ていた。
僕は観念して右手を吊革から離して、開いたバスの扉へと向かった。高校生にもなって降車ボタンのイタズラをした、と勘違いされることに羞恥を覚えて耐えられなかったからだ。
僕の意思としては降車ボタンを押すことなく、終点までバスに乗っているつもりだった。
僕は今、母方の祖母の家に向かっている途中だ。
例年の通りならば祖母の家へは母の車で向かう。けれども今年は母が仕事で忙しいから、僕ひとりで祖母に顔を見せに行くことになった。僕はある種の小規模な旅の最中にある。
僕が事前に予定していた旅の順路は、バスで終点のターミナルまで行って、そこから電車へ乗り換えるというものだった。
しかし僕の左手は、僕の意思に反して降車ボタンを押してしまった。
奇妙なことに、僕の左手はしばしば僕の意思を離れる。
それは熱されたアイロンに触れて、思わず手を引っ込めるような脊髄反射とはまた異なるものだ。
僕の左手は独自に何かを意図して、いや、意図しているのか偶然なのかはわからないけれども、何かしら意味の伴う動きをしたり、しなかったりしている、ような気がする。
わからない。僕には自分の左手のことがよくわからないんだ。
だって僕の左方からぶら下がるそれは、僕の意思からたびたび離れるわけだし。
ただ事実として僕の左手は、勝手にバスの降車ボタンを押してしまうことがある。
コンビニでサーモンの寿司のおにぎりを取ろうとしたら、ツナマヨおにぎりを取ってしまうし。授業中は答えに自信の無い問題に対して手を挙げてしまう。
直近で最も困った出来事は、数日前の彼女とのクリスマスデートのことだ。
その女の子は僕の人生の中で、初めての恋人だったのだけれど、その子のことが好きだったのかは、正直よくわからない。
中学生から高校生に上がった僕らの小規模なコミュニティの中においては、ひとつの奇妙な信条が流行していた。
それはクリスマスまでには恋人を作らなければならない、というものだった。
僕とその女の子との関係性は、そのような病熱に浮かされた信条による圧力によって構築されたもののような気がする。
実際その女の子とは高校生になって初めて同じクラスで知り合って、彼氏彼女の契約を結ぶ以前は話をすることはあっても、さほど親密な関係というわけでもなかった。
だとしても可愛らしい女の子が自分の恋人として、僕の隣を歩いているという事実は僕の気分を高揚させた。
クリスマスの街中を歩く他のカップルたちは皆、手を繋いだり、あるいは腕を絡ませたりしていた。
僕とその女の子は形式上は彼氏彼女の関係ではあったけれど、その中身は恋愛経験のない少年と少女であって、恋人としての僕らの振る舞いは表面上だけの猿真似に過ぎなかった。
キラキラとしたクリスマスの装飾に浮ついた街。その往来を歩く僕と女の子の間には、気まずさであったり、ぎこちなさであったり、そういった微妙に不快なものがない交ぜになって、見えないもやのように纏わりついていた。
僕はその目に見えない不快なもやを振り払うために、女の子の手を握ろうとした。
僕の左横を歩く女の子。その子の右手と僕の左手を繋ごうとしたんだ。
けれどもできなかった。僕がいくら女の子の右手に手を伸ばそうとしても、僕の左手は頑なに動かなかった。
僕は気恥ずかしさを振り払って幾度となく左手に意識を集中させた。しかし僕は己の左手を終ぞ動かすことが出来なかった。僕の左手は僕の命令からは独立して、無為にぶら下がっているだけだった。
なんとか二人の場所を入れ替えて、右手で手を繋ごうともしてみたけれども、うまくできなかった。
結局、人生で初めての彼女とのデートは手を繋ぐことなく、他の恋人らしい行いも特になく終えてしまった。
あれから数日が過ぎているけれど、僕は彼女との間になんとなくギクシャクしたものを感じてしまっていて、一度も連絡を取れていない。
その間に野郎のダチとは二回もキャッチボールをして遊んだのにも関わらず、だ。
僕とその女の子との恋人関係は、このまま自然消滅してしまいそうな気がする。
その原因の大半は僕に意気地がないことにあるけれど、もしもあの時に僕の左手が僕の思い通りに動いてくれていたら、事態は多少なりとも好転していたかもしれない。
僕の左手は勝手に動いて僕を困らせることもあれば、動かないことによって僕を困らせることもあった。
僕がバスから降ろされた停留所は、海浜公園の前にあった。
公園の敷地は、はまなすの生垣に囲われている。
その生垣の枯れ木の向こうからは力づよい潮騒が聞こえた。
海からの冷たい風が吹くたびに、磯の香りが僕の鼻先をかすめる。
低く空に蓋をしたような雲からは、無数の冷たい雨粒が降りてくる。
その雨粒たちにはじゃりじゃりとした異様な重みがあった。
みぞれ、というやつだ。雨と雪の中間のやつだ。
僕はリュックサックの中から、深い紺色の折り畳み傘を取り出してそれを開き、右手で差した。
僕は自分が降りたバスを見送ってから、停留所にあるバスの時刻表を見た。
どうやら次のバスが来るのは、だいたい一時間後のようだ。
……、一時間後?
傘を右ひじに挟んで、スマホの乗換案内のアプリを開いて調べてみても、同じ結果が表示された。バスを待つのが嫌ならタクシーを呼べばいいんじゃない? と言われた。
このあたりに住んでいる人々は一時間おきにしか来ないバスでどのように生活しているんだろう。
しかし僕がどんなに不満を持とうとも、事実として時刻表の表示においては、一時間後にしかバスが来ないことになっている。そして実際にバスは時刻表通りの動きをするのだろう。
僕はバスが去って行った方へ向かって歩いてみることにした。
僕は冬の潮風の寒さと雨の中で、じっとバスを待ち続けるという苦痛に耐える自信がなかったからだ。
この道を歩いた先にあるはずの、ひとつ先か、ふたつ先の停留所まで歩いてみようと考えた。そうしたらバスの運賃だって少しは安くなるかもしれないし。
歩き始めて少しすると、冷たい雨水が僕のスニーカーへと浸み込んで、靴下へと滲んだ。
足の指の間へと入り込んだ水は、ねちねちとして不快だった。そうして濡れた足先は潮風に吹かれるたびにその温度を奪われて、僕の足の小指は痛みを感じるほどに冷え切ってしまった。
僕が右手に持つ折り畳み傘では小さすぎて、僕の全身をみぞれから覆うことが出来ない。
僕は背負ったリュックサックが濡れないようにと、めいっぱい持ち手を肩に押し付けて、傘を後方に引き付けた。
リュックサックの中には祖母へのお土産のお菓子が入っている。お土産のお菓子が僕のスニーカーのように濡れてしまっては嫌だなと思ったからだ。
母方の祖母は一人で暮らしている。
もともとは祖父と一緒に住んでいたのだけれど、祖父は僕が中学生の時に肺がんで死んでしまった。
僕は祖母のことはやさしくて好きだけれど、祖父は苦手だった。
祖父は日本以外の国が嫌いで、局所的な日本のことを愛していた。
彼はお酒が入るとよく、母が未亡人となってしまったことについて、「外人なんかと結婚したからだ」と言った。
僕に対しては「お前は体が日本人として半端者だから、心だけでも純粋な日本人に成らねばいけない」と、ことあるごとに言った。
祖父は僕と母が帰省するたびに、母と祖母との目を盗んでは様々のことを僕に講釈した。
それは修身という昔の学校あった授業科目であったり、教育勅語についてであったり、乃木将軍という昔の人の話であったりした。
祖父は昭和が終り二十一世紀となった現代においても、大日本帝国に生きていたのだ。
祖母の家の仏間には、祖父が警察官として定年まで勤めあげたことによって賜った、小さな勲章が額に入れられて恭しく掛けられている。
僕が中学二年生の頃に、祖父は危篤状態となった。
その時に僕は母に連れられて、初めて祖父の病室を訪れた。
病室は個室だった。壁紙や天井の灰色と、ベッドのシーツの白い色が強く印象に残っている。
灰色と白の病室の内に横たわる祖父は、色が抜けてしまったように弱り切っていた。
ほっそりとした枯れ枝のような体には、幾つものチューブが無粋に繋がれていた。
静かに目を閉じて横たわる眼前の祖父と、かつて僕に対して滔々と局所的な日本を説いた祖父とが、僕の頭の中ではどうしても同じ存在として結びつかなかった。
どのような成り行きであったのかは忘れてしまったのだけれど、母も祖母も部屋を離れて、病室に僕と祖父だけが取り残された時間が少しばかりあった。
その時に、それまで閉じられていた祖父の瞼がゆっくりと、少しだけ開いた。
そうして色の抜けた弱弱しい身体が微かに動いて、椅子に座る僕を見た。
チューブの繋がった祖父の枯れ枝のような右腕が、僕の方へと動く。
けれどその右腕は僕まで伸び切ることなく、ベッドの上で力尽きた。
僕は祖父のことが苦手だった。正直に言えば、ちょっとばかり嫌いだったかもしれない。
彼が悪い人ではないことは当時の僕も、今の僕もわかっているつもりだ。
祖父は僕のことを孫として愛してくれていたからこそ、僕のことを彼が盲目的に信じた日本人にしようとしたのだと思うし、彼が尊いと感じていた物事や世界観を僕に教えようとしたのだろうから。
しかしそうだとしても僕の感性からすれば、祖父の信奉する局所的な日本というのは、僕にとっては理解も共感もできなくて。はっきりと言ってしまえば迷惑なだけだった。
また、事あるごとに僕の父を、外人なんか、といって侮蔑することについても、若干の不愉快を感じていた。
だから弱り切った祖父がどんなに痛々しくて、可哀相に感じたとしても、僕の方からは決して声をかけるつもりも無かったし、触れるつもりの無かったんだ。
なのに、その時の僕の左手は勝手に動いた。
ほっそりとした祖父の右手へと伸びて、手のひらと手のひらを重ね合わせた。
触覚から伝わる祖父の左手は見た目以上に小さかった。そこから伝わる体温は微弱すぎて、もしも風に吹かれてしまえば消えてしまいそうだった。
手を放したくても左手は僕の言うことを聞かない。
僕は祖父の方を見た。祖父の瞼は心なしか先ほどよりも開かれていて、瞳には天井の蛍光灯の光が照り返していた。
結局その時の僕は左手のするがままに任せて、祖父が再び瞳を閉じるまで彼の手のひらを握っていた。
降ろされたバスの停留所からしばらく歩くと、やがて海浜公園のはまなすが途切れて、海の見渡せる海岸沿いへ出た。
黒々とした紺と深みどりの海は絶え間なく浜へと浪を寄越す。
浪は浜にぶつかると白く砕けた。
白く砕けた後も、うねるように砂の上を這って進むが、やがて何かを引きずり込むように浜を引っ掻きながら帰ってゆく。
そうしてその浪が引き返しきる前に、新たな波が覆い被さるようにやってくる。
空は灰色の暗い雲がのっぺりと一面を覆って、そこからみぞれを落とし続けている。
暗い空は水平線の淵だけが若干白んでいた。
その薄明の中では遠くの海鳥たちが蚊柱のように黒い粒となってちらちらと舞っている。
白んだ沖の方から力づよい潮風がやって来て、僕に吹きつける。
先ほどから風が吹くたびに傘を持つ右手にみぞれが当たって肌を濡らして、再び凍てつくような海風が吹いては右手を冷やしている。
右手の指は痛みを通り越して既に感覚がおぼろげだった。
僕は傘を持ち替えて、右手をジャケットのポッケの中で暖めたい衝動に駆られた。
けれどもそれは躊躇われた。
なぜなら右手をポケットに入れている間は、左手で傘を差す必要がある。
僕は左手を使うことに抵抗がある。できることなら使いたくはない。
だって僕の左手は僕の意思からは離れているのだから。これに傘を持たせても、風が吹いた拍子に力を抜いて、傘をはるか遠くへ飛ばしてしまうかもしれない。
僕は僕の左手のことを信用していないんだ。
潮風は執拗にやって来ては僕を包み込んで、僕の体温を絡めとってゆく。
止むことなく降り続けるみぞれは、少しずつ傘の上に堆積して重みを増していく。
浪はみぞれを呑み込んでその荒々しさを増して、潮騒は嵐のような険しさを孕んでいる。
とうとう僕は右手の冷たさを我慢できなくなった。
恐る恐る折りたたみ傘の柄を、左手に譲る。
ポケットに突っ込まれた僕の右手は、外界の寒さから隔離されたことによる安堵を感じた。
けれども僕は気が気じゃない。
僕の左手がいつ、僕の意思を離れて突拍子もない動きをするか分からないからだ。
僕は凍てつく潮風に身を竦ませて、嵐のような潮騒を耳朶に受けている。
そうして注意深く左手を見つめながら、海岸沿いを歩いた。
黒い皮膚の僕の左手。
それは五本の指で柄を握りしめて、傘を支えている。
重たいみぞれが傘の布地に落ちて、強い海風が吹いても、しっかりと柄を握りしめていた。
僕が停留所に辿り着いてバスに乗り込むまで、僕の左手は傘を支え続けた。
それが僕の意思によるものなのか、左手の意志によるものなのか、僕にはよくわからない。
僕には自分の左手のことがよくわからないんだ。
左手と歩く、冬の海岸沿い @gagi
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