市街地

第1話

 彼女の髪に指を差し入れた瞬間、なんと冷たい髪だろうと、わたしは思わず息をのんだ。凍りそうに、しかしじめじめと雨水の滴り続ける、洞穴深くに指のみを切り離して投げ込んだみたいだった。太く豊かな髪は、水をふくむといっそう重たく、髪全体が立派な岩のようだった。その下で、乳色をした華奢な肩口が、呼吸にあわせかすかに上下し、唯一それのみがあたたかである。浮かび上がる鎖骨のくぼみに髪から滴った水が薄く膜を張っていた。

「まだそのままにしてるの。寒いでしょう。」

わたしが声をかけると、彼女はようやく振り向いた。肉厚なくせ、つねにすぼめているように小ぶりな唇があどけなく半開きにされている。

「でも、待っててあげたの。えらいでしょう。」

彼女はそう言って眉を上げてみせた。整えられてはいるが、太く生え詰まった眉は毛虫のようで愛くるしい。睫毛は心持けだるげに持ち上がり、どこをみているか窺い知ることがむずかしいほど大きな黒目をはっきりと見せつけた。彼女が身じろぎするたびに、それにあわせて髪ももの言わず小さく動くので、何百匹もの魚のむれがわたしの手に沿って身をくねらすようだった。うろこのこわい魚である。

 彼女は行儀よく腿に両の手を置いて、わたしを見上げた。

「風邪ひくよ。」

椅子の座面に沿って広がった腿はいかにもやわらかそうで、それを眺めながら、わたしが彼女に対してなにを思っているものかと考えた。なにを思っていたところで、それが彼女にたいしてよいことはひとつもないと思って、やめた。ドライヤーを持ち出して髪を乾かす。これはわたしが彼女にさせてもらっていることのうちのひとつだった。この時間は好きだ。恋人みたいだと思う。付き合いたいわけではけっしてないのだけれど、そう感じるような行為が好きだった。要するに何の責任も負わずにままごとをしたいのだろう。

 髪を乾かし終えると、彼女は満足げに鼻を鳴らした。

「もう寝るでしょう。」

彼女は首肯して、寝室へむかう。眠るのは得意ではなかったのだけれど、彼女と暮らすようになってからはわりあい改善したように思う。彼女だから安心して眠られるのか、あるいはあるていど信頼しているだれかであれば問題ないのか、わたしにはわからなかった。わたしの求めるものが、アクセスしやすい誰かとしての彼女なのか、あるいは彼女そのものなのかと考える。まるい額を撫ぜて、わたしはたしかにこれが好きだと思う。恐ろしい気持がする。

 彼女はわたしに抱きすがって眠った。濃い睫毛がまぶたの閉ざされるのにしたがって、頬のうえでゆるやかに広がっている。幼らしい頬のふくらみにあわせ、落ちる影がやわらかく歪曲した。わたしも彼女を抱きしめるも、髪が肌に刺さって痒いので、寝返りを打って彼女に背を向けて眠った。背中に彼女の鼻先が押し当てられて、なまあたたかい寝息がわたしを湿すようだった。

 わたしの胴にまわされたてのひらの冷たさがすっかりぬくまるころ、わたしも眠りについた。車の走行音が外から聞こえていたので、そう深い時間ではなかったように思う。彼女のてのひらを身体からそっと引きはがして、指と指の隙間にわたしの指を差し入れて握ってみる。


 アラームの音で目を覚ます。憂鬱がどっと押し寄せて、頭がおかしくなりそうだ。頭がおかしくなってしまったら、わたしはどうなるのだろう? すぐにアラームを止めるが、彼女もむっくりと身を起こした。ながい髪が顔をすっかり覆い隠してしまって、すこし不気味である。

「まだ寝てていいでしょう。」

「でも、起きちゃった。」

いかにも口をとがらせていそうな声音だった。彼女はわずらわしそうに髪をはねのける。子どもらしくぽってりとした指先である。整えられたどんぐり爪を眺めて、そして浴室へむかう。わたしより年若いとはいえ、成人している以上、彼女にも一定の責任が負わされるはずなのである。だけれども、彼女に対面すると、すべてがわたしの責のような心地がする。それはわたしが彼女をとりわけ好んでいる理由でもあって、同時に彼女といてかすかに摩耗する感覚がある理由なのだろう。ただ、暮らしていく限り、多かれ少なかれすり減っていくものなのだから、まったくもって問題ではなかった。ただ部屋にひとりうずくまって、破綻を待つほうがずっと恐ろしかった。

 水は凍り付きそうに冷たかった。ほんとうに凍り付いてしまわないといいけれど。冷たさが一時期わたしを正気にもどす。どんなに些細なものであったとして、痛みなしではいられない。気をそらしてくれるなにかが必要だ。最低限の身支度をして玄関に向かうと、いまだ寝間着の彼女がいってらっしゃいとわたしに声をかける。小さな声でいってきますと返す。自然とうつむき気味になると、彼女のむき出しのつま先が目に付く。爪が少し伸びているので、帰ったら切ってやるといいだろう。ついでに塗ってやったっていい。彼女は何色がいいというだろう? 任せるといわれたならば、わたしは何色を選ぶだろう?


 帰宅すると、部屋はがらんと静まり返っている。彼女は出かけているらしい。もう外も暗いのに? こんなに寒いのに。なにをしているものかと、かすかな苛立ちとともに彼女の身を案じた。メッセージでも送ればいいのに、なにか恐ろしくてわたしはそうできなかった。メッセージアプリを開いて、閉じて、そして履歴をみたけれど、知り合いというのもはばかられるほど、他人行儀なやりとりがあるばかりだった。急に彼女が消えてしまったら、わたしのてのひらに残るものはなにひとつとしてない。彼女のために買った、わたしの使わない化粧品や整髪料のたぐいは山とあるけれど、わたしだって女だし、わたしが使うものだとしても不思議はない。サイズも趣味も合わない服だって、昔のものを残しているだけかもしれない。当然と甘受していた日々がこんなにも不確定だったことにようやく気が付いて、わたしは愕然とする。習慣というのはえらいもので、わたしはぽかんと気の抜けたままに入浴を済ませた。かごにまとめておいた洗濯物が見当たらないので部屋を探すと、ベランダに干されていた。彼女がやってから出て行ったらしい。彼女がいないのも、彼女が家事をするのもめずらしいことなので、彼女が二度と帰ってこないのでないかと無性に不安になる。枕元にさされっぱなしの二本の充電ケーブルをながめて、まったくもって重大なものでもないのに、彼女は帰ってくるのだと自分に言い聞かせる。


 彼女が帰ってきたのは日付が変わったころだった。ソファに沈んで、眠り込んでいたところで目が覚めた。鍵の開く音を部屋の中から聞くのは久しぶりのことだった。彼女がわたしのことを同様に思ってはいないとはいえ、似たような思いをさせていたかもしれないことに思い当って、わたしの頭をふいに罪悪感が埋め尽くす。足音こちらへ向かうので、あわてて玄関口へ向かう。裸足でない、おそらくストッキングにつつまれた足音を聞くのはいつぶりのことだろう。

 暗い玄関に彼女の影がひときわ暗くて、わたしは涙がでそうだった。暖房をつけたまま眠っていたので、身体は痛いくらいに乾ききって、泣かずに済んだのは幸いだった。わたしが帰宅した彼女に抱きついて、そのまま泣き崩れたとして、彼女はなにを思うだろう。いい歳してとわたしに呆れるだろうか。そも彼女には情けないお願いばかりをしているので、なにをしたところで今更ではあるかもしれない。

「ただいま。」

口調はやわらかく、彼女の声は変わらず愛らしかった。白砂糖をたっぷり使った揚げ菓子みたいだと思う。媚びているのでなくて、もとよりこういうものらしくて、彼女はそのせいできらわれることがあるのだと嘆いていた。他人が自分の言うことを黙って待って聞くと信じてやまないような、ゆっくりとした口調もそうさせるのかもしれなかった。わたしだって彼女みたいな女は面倒だと思う。

「遅かったね、なにしてたの。」

「言ってなかった? サークルの飲みだった。」

ぱちんと電気をつけると、なるほど彼女の顔は赤らんでいた。酒と煙草のにおいがした。副流煙をよく吸い込める、質の悪い居酒屋にいたようである。わたしといるときに彼女は酒もたばこも喫むでないが、わたしといない彼女をわたしはいっさい知らない。インスタグラムでもこっそり覗いてみればわかることもあるのだろうが、わたしはそれを避けている。

「知らなかった。早くお風呂入りなさいね。」

彼女ははあいと返事した。

 彼女の髪を乾かしてやりながら、

「たのしかった?」

とわたしは訊いた。ドライヤーのたてる騒音の下で、その声はあまりにも情けなくて、我ながら失笑しそうになる。彼女に明瞭に聞こえていないことを祈った。

「うん、まあ。べつになにがあるんじゃないんだけど。それより、こんな時間まで起きてていいの。」

「これまで寝てたし、これはわたしに必要なことだから。」

彼女はそうとつぶやくように言った。わたしに伝えるという意思もあまりないようだったから、わたしは黙っていた。甘えたような口調を常とする彼女には珍しく、キッパリと冷たい、なにか諦めたような口調であった。彼女はごく親しみやすい、かわいらしい人なのだけれど、時たまどうしようもない断絶を感じてわたしは打ちのめされる。熱風をわざと自分の手に当てた。罰されなければならないとずっと感じている。なににたいする罪をわたしが負っているのか、わたしは明確に知らない。しいて思考を停止している。

 髪を乾かし終えると、わたしたちは常通りともに眠った。彼女を正面から抱きしめてみる。彼女は一変してうれしげに鼻を鳴らしながら胸元に顔を寄せてきた。首筋を髪がくすぐって、払いのけそうになるけれど、我慢して寝つこうとした。酒でも飲んでおけばよかったのかもしれない。夜が長いので、なにを考えてよいものかわからなくなった。彼女の体温はわたしよりも高く、冬布団にふたりではいると暑いくらいだった。それが好きで、わずらわしくて、わたしはどこまでも自分本位で幼稚なやつなのだと思った。むろん人がいることはありがたかったけれども、電気毛布や湯たんぽでよかったのかもしれない。彼女の代替になるものを考えた。犬猫の類というのが一番の答えだろう。ペットでも飼ったらいいのかしら。自分が眠る猫の隣で暮らす想像をしようとして、できなかった。

 空が白むころ、ようやく眠りついた。新聞配達のバイクの音が聞こえた。家庭と、それになじめないわたしの象徴みたいで苦手だ。不愉快な気持ちで、彼女の髪までもがちくちくとわたしの肌を苛んだ。


 翌朝、聞き慣れぬアラームで目が覚めた。わたしのアラームが鳴らないのは休日だからかと寝ぼけ眼に思い至った。彼女がばたばたと支度をするので、なにか用事があるのだろう。わたしはひとりで過ごさねばならぬのだな、と思うと彼女を引き止めたい衝動に駆られた。たとえばキスをして、ベッドに引きずり込んで、そうしたらきっと彼女はそれを受け入れて、予定に遅れていくか、あるいは断ってしまっただろう。こんなことを思う時点で、わたしは彼女を軽んじている。彼女が髪を巻く後ろ姿を眺めながら、そんなことを考えていた。巻き髪の似合わぬ女だと思った。化粧だってそうだ。彼女は自分に似合う化粧を知らない。これらはすべて、彼女をデートに誘うことすらできず、部屋で素顔を見るしかない、妬みから出る感想だった。よくいる大学生らしく可愛かった。

「いってきます。」

彼女はそう出て行った。ありふれたトレーナーにジーンズ姿で、おそらくデートではあるまい。付き合うということはしないくせ、彼女が他人と付き合っていたら、わたしは一丁前に嫉妬してみせるだろう。誰と会うの。どこで。いつ帰る? わたしより大事なの? 飲み込んで、なんとか

「お夕飯は要る?」

とだけ訊いた。

「おねがい。」

彼女がそう答えるので、わたしは心底安堵した。泣きたくなった。


 狭いはずの1Kがひとりだとひどく広い。わたしは彼女との生活に慣れきっていた。起きると彼女がいて、仕事をして、帰ると彼女がいる。むろん当然ではない。慣れというのは恐ろしいものだった。布団に仰臥して、涙が瞼に溜まって、しかし流れはしなかった。ひとりきりがこうも堪えるものだとは思わなかった。ひとりで暮らしていた時期もあったので、問題なかったはずなのだ。もう彼女には出ていってもらったほうがいいのかもしない。短期的には落ち込むだろうが、長期的にみればそのほうがずっと健全なはずだ。あるいは、好きだと告げて付き合って、同棲という形にしてみる。付き合うことの要件をわたしはあまり理解していないが、彼女と寝るのは決して苦な訳はないし、おそらく彼女も付き合っている相手はいないだろうから、可能ではあるだろう。いや、彼女にだって彼女の人生があるのだ。ペットのように面倒を見させてもらってはいるのだけれど、彼女は人間で、生きてゆくのだった。追い出したところで、しばらく生活には困るだろうが、それなりにやっていくに決まっている。……それで、わたしはどうしたら?

 酒を飲んで寝込んだ。頭痛と共に目覚めて、目が覚めると彼女がわたしを覗き込んでいた。いたわしげな指先が、わたしの頬を冷たく撫ぜた。

「大丈夫?」

「…………起こしてくれてよかったのに。お腹すかない?」

「コンビニで済ませた。いちおう、うどん買ってきたけど、食べる?」

わたしが肯くと、彼女は立ってうどんを温めてくれた。安っぽい塩味がひどくやさしかった。

「なにしてたの。」

ひとしきり食べると、彼女はうつわを下げてくれた。わたしはふたたび身を横たえて、うわごとみたいに問うた。この部屋にいない彼女に干渉したくないと思って生活をしていたのだが、どうにも弱っていたらしい。口にした途端に自分が情けなくて、くだらなくて、たまらない気持ちがした。わたしは大人として、そして彼女を子ども扱いするために強がっていたにすぎない。

「友達と会ってた。それだけ。」

「友達。」

わたしが復唱すると、彼女は厄介そうに眉をひそめた。ただ声色には棘はなく、無垢に幼いままだった。高い声が頭に響いて、額が重たく痛んだ。ただ耐え忍ぶほかないことはとうに知っていた。

「ただの友達。」

わたしは黙り込んだ。彼女もわたしの返事を待つのか何も言わないので、とうとうわたしは口を開いた。

「もうさあ。わたしのこと、めちゃくちゃにしてくんない。」

はあ? 彼女の訝しげな声が頭上から降ってきた。春の霧雨みたいにやさしくて、浴びたままにしていると風邪を引く。頬を乱暴に掴まれて、顔を上げさせられる。あまり動かさないでほしいと思いながら、彼女の真っ黒な瞳がわたしをとらえるのを見た。瞳のまるみに沿って、間抜けなわたしが引き伸ばされて、水槽越しに目が合う不人気な魚みたいだった。かれらがわたしを見ているかわからない。

「それは、どうしてほしいってこと?」

苛立たしげに動く唇を眺めた。世界からの侵入を拒むように、常よりもぎゅうと力を込めて閉ざされる。くすんだ薔薇いろに塗られたそれに、ゆるやかな皺か、あるいは影が刻まれる。

「……わからない。」

わたしが視線を逸らしても、その目は物言わずこちらを睨み続けた。頬に食い込む指先は華奢で、力はないが痛いくらいだ。熱をもった頬が冷たくなっていくけれど、それは倒れるまえの寒気に近かった。

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