君が、はじまりだった
霜月このは
君が、はじまりだった
2026年1月1日。元日の朝のこと。
デイルームのテレビでご来光を観たあとで、食堂で朝食を食べていると、何やら賑やかな声がする。
30~40代くらいの車椅子に乗った男が、看護師さんにやたらと絡んでは、いなされているのだった。
「ねえ、俺さ、10年前もここに入院してたんだけどさー、そのときもお姉さんいたでしょ?」
「10年前? 人違いじゃないですか?」
他の看護師さんにも絡む。
「ねえねえ、薬ちょうだいよ、全然効かないんだよ」
「ダメです。さっき飲んだばっかりじゃないですか」
「そこをなんとか、頼むって~」
明らかに異常なテンション。
入院してきたばかりで興奮しているのか、早口で、チャラい男だなというのが最初の印象で。
なのに私は。その一瞬で気づいてしまった。
彼がわたしと『同類』だということに。
明らかにめんどくさい男だというのはわかりきっていた。なのに私はこう思ってしまったのだ。
(なんだあの面白そうな男。……友達になれそう)
思えばそれが、全ての間違いのはじまりだった。
*
時は遡って、2025年12月22日。私はとある精神科専門病院の閉鎖病棟に入院することになった。
きっかけになったのは、簡単に言えば失恋。ずっと友人だった元彼に新しい彼女ができて、なんやかやあって距離をおくというかほぼ絶縁状態になってしまって。
もともと精神の病気を抱えていたというのもあるけれど、私は2ヶ月ほどろくに眠れず、食事を取れず、酒浸りになり、昼夜逆転し、仕事も創作活動もできなくなった。
しかしこのままではいけないと思い、自分から精神科の先生に頼み込んで、入院の手続きを進めてもらったのだった。
私は4人部屋の病室に入ることになった。病室は思っていたよりも広く、カーテンの仕切りでしっかりプライベート空間も確保されている。
初めは病室にこもっていることが多かったけれど、昼夜逆転を治すためには日中外に出ていたほうがいいと思い、デイルームや食堂などに出てみることにした。
私はスマホをナースステーションに預けていたし、初めは外出の許可も下りていなかったから、日中のやることといえば、デイルームのテレビを観てみたり、毎日届く新聞を隅から隅まで眺めたり、置いてある古い雑誌をモデルに、持ってきたメモ帳に簡単なイラストを描いたりするくらいで。
病棟にいるのは高齢者がほとんどで、同世代の人や自分より若い人は少なかった。というのもあって、初めは自分よりも歳上の人たちと話すことが多かったのだけど、あるとき若い女の子が話しかけてくれて、それを機に、若い世代の子達とも交流を持つようになった。
彼女は
香奈ちゃんと話すようになって、私も他の人たちとも積極的に交流するようになっていった。
そして、例のうるさい彼が入院してきたのはそんな折のことだったのだ。
初めて彼と話したのは、彼が入院してから4日後の1月5日のことだった。彼と香奈ちゃんが2人で話をしているところに、「面白そうな話してるね」なんて、私が割り込んでいったのが最初だった。
彼の名前は
会話の内容は香奈ちゃんの恋バナが中心だった。彼女には好きな人がいて、その人に脈があるかの相談をしていたのだった。ピュアな彼女の話に対して、亮介も、バツイチ別居の子あり37歳の私も、ずいぶん爛れたアドバイスしかできなかったことを覚えている。
そんなこともあって、亮介と私は初期からかなりディープな話をしていた。
亮介は下半身が不自由で、排泄の感覚もないから、膀胱にカテーテルを入れていた。バルーンにつながれたバッグの処理の話から、夜の生活の話まで、彼はなんでもあけすけに話した。
「だから、彼女とそういう行為をするとき、辛くて。自分もそうだけど、相手を満足させられないことが辛かった」
若い子達が周りにいなくて2人きりのときには、そんな話までした。
大好きな相手と愛し合う行為が制限されるというのがどれくらい辛いことなのか。
比較的そういう欲求の少ない私でも、それを想像したら胸が締め付けられる思いになった。
彼の身体がそうなってしまったのは2年ほど前で、それも失恋がきっかけだったそうだ。命を断とうと8mもの高さから飛び降りて。
……それは、どれだけ苦しかったのだろうか。
「だけど、俺は今、全然幸せだし」
彼はそう言う。
彼の精神の方の病名は、やっぱり私と同じだった。それに加えて身体の方もあるから、障害年金や、在宅でできる仕事のおかげでお金には困っていないし、訪問看護も定期的に来てもらうことができているし、と。
だけど彼はほとんど家にいて、外出することはあまりしないと言う。
「だって、迷惑かかっちゃうじゃん」
そう言って、電車やバスに乗ることも抵抗があるから、いつも移動はタクシーを使うのだと言う。
「誰かに手伝ってもらったらいいんじゃない?」
そう思ったけど。そんなことは軽々しく言えなかった。
介助をいちいちひとに頼むのにだってお金が要る。
それに、筋肉の発達した両腕で、かなり速いスピードで車椅子を操ることのできる彼は、おそらく友人などの手を借りることをあまりしたくないんじゃないかと思ったからだ。
彼の両腕にはかなり派手なタトゥーが刻まれていて、それはかなり前に彫られたものらしいのに、今も綺麗な形を保っていて。車椅子を操作するたびに動く腕を見て、私は生まれて初めてタトゥーを美しいと思ってしまった。
彼は若い頃からいろいろやらかした悪事もあって、そういうことも教えてくれた。女を泣かせたことなんかも数知れないほどだったようで。
けして、『まとも』な男ではなかった。
でもそんなのは、
だから、なのか、わからないけれど。
なぜなのか、わからないけれど。
私は気づいたら、沼に落ちていた。
*
私はいつのまにか、彼のことを目で追うようになっていた。
恋愛的に好きだとか、交際しようとか、そう思っていたつもりはなかった。そんな自覚もなかった。
だけど、彼が車椅子で廊下を自走しているところを見れば気になってしまって、彼が近くで会話をしていれば、耳をそば立ててしまう。
朝起きて彼に会う前に、寝起きのくしゃくしゃの姿を見られたくなくて、私は密かに早起きをして髪を整えたり、風呂上がりにさえ簡単にメイクをした。
いつのまにか、元彼のことなんて、すっかり忘れていた。私は毎日亮介と話すのが楽しみで、食堂で他の女の子たちとも一緒に、ワイワイするのが楽しくて仕方がなかった。
彼は喫煙者だった。外出許可が早くから下りている彼は、自由にタバコを吸いに外に行ける。
あるとき私も気になって、あとから喫煙場所に向かってみた。本当は私はもう喫煙をあまり欲しない状態になっていて。だから、タバコじゃなくて、ただ亮介と一緒にいたいだけだったけど。
亮介は所定の喫煙場所とは全然離れた路上でタバコを吸っていた。どれだけ適当な男なんだと思ってツッコミを入れると、亮介は言った。
「あの道、行き辛くてさ。だから適当にこの辺で吸ってる」
そんな、ことを。
後から知った。病院が指定する喫煙場所までは、かなりきつい坂があって、亮介のような車椅子ユーザーには、ひとの補助があっても移動が難しいのだ。ましてや自走なんて、できるわけがないのだった。
タバコを吸った後は、一緒に近所にあるディスカウントストアでカップラーメンを買った。「病院食、あれじゃ足りないよね」なんて言って、深夜にこっそり食べる分を。
亮介は買ったものの袋を膝に乗せて、やっぱり器用に車椅子で走っていく。
「どのへん歩いたらやりにくいとかある?」
車椅子ユーザーと長距離を歩いたことのない私は、素直にそう尋ねたけど。
「別にどこでもいいよ。俺、徒歩より実は速く走れるし」
そんなことを言ってわざと加速してみせるスピードは、確かに私が歩くよりも速くて、驚いた。
だけど、あるとき、彼はぽつりと言った。
「昔、彼女に言われたんだよね。俺、こんなんだからさ、手を繋いで歩けないのがちょっと寂しいって。……それが、結構、辛かった」
胸が、締め付けられた。
正直に言えば、そんなことを彼に伝えた元彼女さんを恨む気持ちさえ湧いた。どうしてそんな残酷なことが言えるのだろう、と。
だけど、私はなるべく明るく答えた。暗い気持ちを少しでも変えてやりたかった。
「手なんてさ、こうすればいいのにね」
私は隣にいる彼の肩にポン、と手を置く。上着越しだけど、体温が伝わる。
ほんの、一瞬だけだけど。
「そっか、確かに」
そう言って彼は笑った。
しばらくそうして歩いた。
だけど病院の敷地のすぐ前まで来たときに、彼は止まった。
病院の入り口前には、自走する車椅子では越えるのが難しい段差があるのだ。
亮介は、左足を引き摺るように地面につけて体重をかけて、その分少し軽くなった車椅子を自力で引っぱろうとする。
「左足はちょっとだけ感覚あるから、大丈夫なんだ」
そんなことを言うけれど、さすがに転んでしまいそうな姿勢でとても見ていられない。
「ごめん、ちょっとだけ、試させて」
私はそう声をかけて、彼をまっすぐ座らせる。
「怖くない? 平気?」
そう言って彼の後ろに周り、車椅子のハンドルを握る。
「行くよ」
声をかけてから、そっと動かした。軽く車輪の前部分を斜めにして段差の上に上げ、それから続けて後ろ部分を押すと、車椅子は簡単に段差を乗り越えることができた。
成人男性ひとり分の重さがあったって、たったひとりでもここに人がいたら、簡単に解決するのだ。
だけど。
「ありがとうね」
いつもと明らかに違うトーンで。いつも図々しいくらいうるさく話す彼が、小さな声でそう言うのを聞いたら、わかってしまった。そうか、こんなふうにずっと、手伝う人に遠慮していくのが辛いんだ、と。
私にとっては何でもない行動だけど、そうされる彼にとっては、負担になってしまうのかもしれない、と。
また涙がこぼれそうになった。同情しているつもりはなかった。だけど、この感情がなんなのか、まるでわからなかった。
*
また別の日のこと。何かの話の流れで、誰かが亮介の連絡先を聞こうとしたときに、彼のスマホが壊れてしまっているということを聞いた。
いくら入院中とは言え、スマホが壊れた状態で暮らすのは不便だろうし、身体のこともあるから、スマホがない状態で外出して、もし何かあったりしたら大変だ。
「もし近くの店で安いスマホでもあったら買いに行ってもいいけどな」
彼がそう言うので調べてみると、病院の近所に数軒、電器屋さんがあることがわかった。
だけど車椅子に乗った人がそこまで行けるかどうかは、地図を見ただけじゃわからない。道路の坂やちょっとした段差や人通りの多さ、スロープの角度やエレベーターの大きさなどもかなり重要になってくることを、このときの私は想像できるようになっていた。
私は、今までにないくらい、バリアフリーという観点で道路や街中を観察するようになっていた。1人で近くの寺まで初詣に行った時すら、大きい有名な場所なのにろくなスロープ一つないことに、不敬ながらも神仏にさえ腹を立ててしまっていたくらいだったから。
「よかったら、私、ついでに行って見てこようか? ちょうど今日、近くのカラオケに行く予定あるから」
私は彼にそう提案して、彼が買い物をする前の下調べをすることにした。
実際予定があったのは本当で、その日私はカラオケで、友人の出演するピアノのコンクールの配信を見る予定だった。
だけど、もし彼が新しいスマホを手に入れることができたら、もしかしたら連絡先交換ができるんじゃないかって、思う心もなくはなかった。
精神科の患者同士が、連絡先を交換する。それは本来いけないことで。そして、私たちの今後のために、すべきではないことだと理解していたけれど、そんな感情を少しでも抱いてしまっていたことは否定できない。
だけど、何かができなくて困っている人がいたなら、自分のできる範囲で協力する。それは私の元々の行動理念としても存在はしていた。それが好きな相手だったから尚更、というのは否めないけれど、私はこのとき他の患者さんが困っていたのだとしても、おそらく同じことをしただろうと思う。
本来は看護師さんなどが付き添いで行くというのが正しいことなのだろうけど、実際病棟に来てみればわかるけれど、看護師さんたちの日頃の慌ただしさを見ていたら、気軽に声をかけることなんてしづらい状況にあったし、ましてやスマホを買いに行きたいだなんて誰も言えるはずなかったから。
そうして、私は彼のためにSIMフリースマホの売っている店舗を探して3軒のお店をまわった。全ての店で店員さんに詳細を聞いて売っている機種をチェックし、エレベーターの位置を調べて実際に乗ってみて、スロープの角度を見て写真を撮るまでして。
でも思えばそれは、あまりにお節介すぎる行動だったのかもしれない。
私が病棟の門限ぎりぎりの16時前に帰り道を急いでいると、また道の変なところに亮介がいた。
「今日、楽しかった?」
カラオケの感想を聞いてくる彼に、「楽しかったよ」と答えて。それから、今日の『調査結果』を簡単に報告する。
「道、結構遠かったから、よかったら今度一緒に行こうか? 疲れたら帰りは後ろ押すからさ」
「ほんとに? ありがとう」
そう言って、明日は祝日だからやだな、行くのならその次の日かな、なんて2人で話していたけど、具体的な予定は立てなかった。急に診察が入ることもあるから、患者の私たちのその日のスケジュールは当日にならないとわからないし、その日の体調の都合とかもあるだろうから。
だけど、結局、その『今度』が来ることはなかった。
その日はまた段差のところでだけ車椅子を押して、一緒に病棟に戻ったけれど、その後から亮介は、なんとなく私を避けるようになったような気がした。
話しかけても、すぐに会話を終わらせてしまうし、みんなでいるところでも私が話すと、スーッとどこかへいなくなってしまうようになった。
その頃、彼はよく病棟内を香奈ちゃんと歩いて散歩してまわっていて、香奈ちゃんも亮介のことを『お兄ちゃんみたいな存在』というふうに語っていたから、初めは微笑ましく思っていたのだけど。
そんなふうに何度も何度も亮介と一緒に歩ける香奈ちゃんを羨ましいとさえ思うようになってしまって。
私は食欲を失ってしまった。
食事は半分も喉を通らなくなった。こんなことは、人生の中でも数えるほどしかないことだった。
嫉妬だのなんだのじゃなくて、避けられていると思ったら、嫌われてしまったんじゃないかと思ったら、それが辛くて。
亮介と香奈ちゃんが一緒に歩くのを見たら辛くなるから、私はなるべく一日中、外に出ていることにした。
そして辛さのあまり、門限を破って遅くに帰ってきたその夜のことだった。
帰ってきた私に知らされたのは、亮介がその日の午後に急に退院してしまった、ということだった。
なんでも彼は、今まで仲良くしていたように見えたメンバーの誰にも告げず、その日の午前中にナースステーションで退院の意思を伝えて、そのまま午後には退院してしまったのだという。
あまりに突然の出来事に、私は本当に一瞬、息ができなくなった。
そうしてあまりにも急な形で、それは幕引きとなった。
でも、きっとそれは、多分一番正しい結末だった。
亮介は誰とも連絡先を交換しなかった。図々しいように見えて、誰に対してもきちんと線を引いて、距離をわきまえていた。
だからこそ、行き過ぎてしまった私の感情にもおそらく、気づいてしまっていたのだろう。
私だって、好きだなんて言うつもりはなかった。
初めからそうすべきじゃないとわかっていたから。
連絡先交換だって、求めるつもりはなかった。
……だってもう、好きになってしまっていたから。
だからこそ、だった。
障害も、過去も含めて、彼のすべてを背負う覚悟ができないなら、そんなこと伝えるべきじゃないことを、わかっていたから。
たとえ彼が気持ちを返してくれることがあったとしても、彼の隣にいる役目を担うには、同じ病を抱えた私では力不足だと、わかっていたから。
だけど『さよなら』さえ、言えなかった。言わせてくれなかった。それが一番辛かった。
奇しくもその日は、彼と私がスマホを買いに行くかもしれなかった、祝日の翌日のことだった。
*
それは、振り返れば、出会ってからたったの2週間の出来事だった。本当に、驚くことに。
他人はそれを、閉鎖病棟という特殊な環境下における錯覚だと言うだろうし、短い間の恋愛ごっこと思われるかも知れないし、長い人生から見れば、たったの一コマでしかないかもしれない。
でも私はこの恋を生涯忘れることはないだろうし、彼に出会ったことが私に与えた影響は察り知れない。
身体や心に深刻な障害を抱えた人に接したこと、その人を本気で愛したこと。どんな形であれ、何一つ無駄なものなんてなくて、何一つ嘘なんかじゃなかった。
彼の幸せを本気で願った。
図々しく見えて本当はデリケートで寂しがり屋の彼が、この先の人生をひとりで歩んだりしてほしくなかった。いろいろなことを諦めてほしくなかった。
本気で祈った。誰かと愛し愛されて幸せになって、もう二度とこんなところに帰ってくることのないように。もう、ひとりで寂しくならないようにと。
そのとき隣にいるのが、私でなくても。そんなことはどうでもいいとすら、思った。
こんな感情、はじめてだった。
あれから数日経って、大分ひとりで泣いたけど、逆にすっきりして、私にはかえって創作意欲が戻ってきたくらいだ。
私ももう退院日が決まっている。
彼も私も、入院を経て、新しい人生を始めるのだ。
病院では写真や動画を撮ることは許されていなかったから、亮介の姿は、もう私の頭の中にしか残っていない。連絡先も何も知らないから、多分もう二度と会うことはない。
だけど声も顔も姿も、いつか忘れてしまったとしても、彼に奪われてしまった心の形だけは、きっと私の中に一生残るだろう。
君は正月にやってきて、私の2026年のはじまりを彩って。それから私の今後の人生すらもきっと変えていく。
だから確かに君が、はじまりだった。
君が、はじまりだった 霜月このは @konoha_nov
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます