第3話 神獣様の贈り物と、無自覚な絶品スープ
「……ん、あったかい。いい匂い」
頬を撫でる柔らかな陽光と、鼻腔をくすぐる陽だまりの匂いで目が覚めた。
視界いっぱいに広がるのは、漆黒の、それでいて艶やかな毛並みだ。王宮のあの硬くて冬場は氷のように冷え切る石造りの寝台ではない。高級な羽毛に包まれているような、いや、それすらも凌駕する心地好い重みが私を包んでいた。
「きゅうん?」
私が身動きをすると、隣に丸まっていたラピスが眠たげな藍色の瞳を細めて私を見上げた。おはよう、とでも言うように私の頬をちろりと舐める。
可愛い。もう、一生このままベッドから出たくない。
かつての王宮での暮らしを思い返せば、王子からの不条理な説教に耐え忍ぶ一時間よりも、ラピスの喉元をブラッシングするこの一秒間の方が、比べるまでもなく私の人生には価値がある。
私は枕元に置かれていた、不思議な細工の施されたブラシを手に取った。
ラピスの背中にそっとブラシを沈めると、指の第一関節まで埋まるほどの深い冬毛が、ふわりと心地よい波を打つ。
「ふふ、いい子ねラピス。毛並み、もっとピカピカにしましょうね。私を助けてくれた、大切な家族なんだから」
丁寧に、愛しさを込めてブラッシングをしてあげると、ラピスはうっとりと目を細め、完全に私に身を委ねてくる。
この子は、他の誰でもない私にだけ、こうして喉元をさらしてくれる。世界中の誰も触れることのできない神聖な存在が、私だけの「もふもふ」になっている。その事実が、凍りついていた私の心をじわりと溶かしていった。
「さて、ラピス。今日のご飯はどうしましょうか。……あら、もう準備してくれたの?」
私が起き上がると、ラピスは「任せて!」と言わんばかりに尻尾を振り、窓辺に置かれた「獲物」を誇らしげに示した。
それは、黄金色の羽がキラキラと朝日に輝く、丸々と太った大きな鳥だった。宝石を埋め込んだような瞳をしているけれど、きっと森の地鶏の一種に違いない。
「まあ、美味しそうな鶏ね! ラピス、あなたが捕まえてきてくれたの? 本当にいい子ね、助かるわ!」
私はラピスの頭を何度も撫でて褒めちぎる。
……本人は気づいていない。
それが、一国を滅ぼしかねない毒を持つ怪鳥『ゴールデン・コカトリス』であることを。
伝説に謳われる厄災を、ラピスは「主の朝食」として、一筋の傷さえつけずに、最高に新鮮な状態で仕留めてきたのだ。
私はさっそく、その「地鶏」を【古の浄化】を込めた井戸水で洗い、大鍋に入れた。
普通の刃物では歯が立たないはずの肉が、私の浄化の光に触れた瞬間にほろりと解け、凝縮された旨味の塊へと書き換わっていく。
「……いい香り。やっぱり、自然の恵みは最高ね。王宮で出されていた冷めた食事より、ずっとみずみずしいわ」
森で摘んだハーブをたっぷり入れ、井戸の水でじっくり煮込んだ黄金色のスープ。
一口飲むだけで、体の奥底から温かなエネルギーがあふれ出し、肌が内側から透き通るように発光し始める。
かつてあれほど重く苦しかった「魔力」が、今は心地よい微熱のように全身を巡っている。
……けれど、私は「田舎の鶏肉って弾力があって、旨味が濃いのね」と、目の前の美味しさに夢中になるだけだった。
*
一方その頃。エリアナという「重石」を失った王国側は、文字通り地獄のような光景を迎えていた。
「陛下……北東部の穀倉地帯が、怪鳥に襲われ、守備隊が全滅しました」
「……物流も遮断。王都への食糧供給が、完全に止まりました」
執務室。ジークフリート王子は、震える手で報告書を握りつぶした。
目の前にあるのは、かつての豪華な晩餐の面影もない、カピカピに乾いた硬いパンと、具も味もない薄いスープだ。 結界という「傘」を失ったことで、魔物の流入が止まらず、かつての贅沢はわずか一晩で過去の遺物と化していた。
「ミラ……! 聖女の祈りはどうした! あの怪鳥をなんとかしろと言っているだろう!」
「無理よ! あんなの、見るだけで失神しちゃうわよ! お姉様ならなんとかできたかもしれないけど、私にできるわけないじゃないの!」
ミラの叫びが、がらんとした執務室に虚しく響く。
二人の間に、これ以上の言い訳も怒鳴り声も続かなかった。
そこにあるのは、冷え切ったスープと、どうしようもない沈黙。
エリアナという『本物』がいなければ、自分たちはただの、力を持たない一対の男女に過ぎない。その残酷な事実に、彼らはようやく直面していた。
*
「お腹いっぱいね、ラピス。午後はあそこでお昼寝しましょうか」
私は、ラピスがいつの間にか庭に作ってくれた、虹色の花が咲き乱れる特等席を指差した。
そこはただ座っているだけで、身体の芯から淀みが消えていくような、不思議なほど清浄な空気に満ちている。
世界でたった一匹、私だけの神獣は、私の膝の上に丸まり、ゴロゴロと満足げに喉を鳴らしている。
ふと、森の境界線あたりで、腰を抜かしてこちらを呆然と見つめている男性がいた。
辺境の村の住人だろうか。
彼は、昨日まで「死の森」と呼ばれ、一歩でも近づけば命がないと畏怖されていた禁忌の地が、わずか一晩で「神々しい光を放つ楽園」へと変貌している異様な光景を、震えながら眺めていた。
「あら、お客様かしら? でも、今日はお昼寝が先ね。ラピスも眠そうだもの」
私はそんな驚愕の視線には構わず、柔らかい花の絨毯に身を預けた。
ラピスの温かな背中に顔を埋め、柔らかな午後の眠りに身を任せる。
誰の許可もいらない。誰のために祈る必要もない。
ただ、好きな時に、好きなだけ眠れる幸せ。
私を捨てた国が、今さら血眼になって自分を探し始めていることなんて、夢にも思わずに。
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